第72話 和やかな空気
廊下から速足で足音が遠ざかるのを聞きながら津賀留はため息を吐く。心なしか呆れているようであった。
雨下野はやや強めでドアを閉めた後、やれやれと頭を押えた。そして息吹戸の元へ来て丁寧に一礼する。
「申し訳ありません。現場責任者から色々説明させるつもりでしたが、拒否されました。なんとお詫びを言っていいか」
「いいって。ヤンキーお兄さんは私が嫌いのようだから無理意地しなくていい」
「んふ!」
笑いの不意打ちを受け、雨下野が堪える。数秒肩を震わせてから深呼吸をして、真面目な顔になった。
「この度のご助力、感謝いたします。おかげさまでヒュドラ送還は成功し、被害も最小限に抑えることができました。息吹戸さんの多大な貢献に、改めてお礼申し上げたく参りました」
「ご丁寧にどうも」
息吹戸がベッドに座ったまま軽く頭を下げると、雨下野が驚いて仰け反り、ススス、と滑るように後退した。息吹戸が視線で問いかけると、雨下野は表情が引きつったまま、こほん、と咳払いをする。
「ええと……確認したいことがありまして」
「あ。私も。ここの治療費どうなるの?」
「は……え、治療費、ですか?」
予想外の質問に雨下野がぽかんと口を開けた。
「津賀留ちゃんから聞いたけど、アメミットが全額負担してくれるってホント?」
息吹戸が念を押すと、雨下野がゆっくりと頷いた。
「あ、はい。アメミットが治療費をお支払いしますので、窓口に寄らずに帰宅していただければ」
返答を聞いて、息吹戸は心の中でガッツポーズをする。
(やったー。名称は違ってたけど、様々な方向の画像を取ったって言ってたからMRIやっている。あと血液検査もやってる。他にも知らない検査やってるかも。いくらかかったのか考えただけでも心臓が痛い。あっちで負担してもらえるなら助かる)
元の世界と仕組みが違っている以上、金銭に関してはシビアに考えなければならない。治療費を払わなくて済むなら助かると安堵した。
「次は雨下野ちゃんどうぞ」
「え……あ、そうですね。では」
雨下野は深く息を吐いてから、キッと目つきを鋭くさせた。何かあっても対処できるように体に力を入れる。
「空に出現した鏡、あれは息吹戸さんの能力で間違いありませんか?」
「うん、出せるようになった」
あっけらかんと言われて雨下野は言葉を失った。
あれは菩総日神の神力を現世に映して使用できる稀な能力であり、息吹戸の出した鏡はまぎれもなく最高位である。
秘匿されてもおかしくない能力を教えるなど、何か裏がある気がしてならない。
「私に、教えてもいいんでしょうか?」
雨下野の声がカラカラになる。
「部長に止められてないからいいんじゃない? 最近使えるようになったから、正直よくわからない」
やはり息吹戸はあっけらかんとしている。
そこに裏があるようには思えず雨下野は混乱した。しかし興味をそそられて目を光らせる。
「最近とはいつ頃からか教えて頂けますか?」
「数日前かな」
息吹戸はゲンムトウビルで水槽からみえた大きな足を思い出し、口元に笑みを浮かべる。
雨下野は再び驚いて瞬きをするも、初めて見た息吹戸の柔和な顔をみて心臓が高鳴り、頬が染まった。
「息吹戸さん、あの、こう言っては失礼かと思いますが。貴女の心情に何か変化があったのですか?」
「どうしてそう思う?」
「いつもと違うと申しますか。随分性格が和らいだようでその、正直、吃驚しています」
アメミットでも息吹戸は畏怖の対象である。
どんな状況でも討伐を遂行させる強さを持つ尊敬すべき存在である反面、誰であろうと気に入らなければ完膚なきまでに叩き潰すことで有名だ。そのため接するときは十二分に注意するようにと新人研修で教わるほどであった。
雨下野は度々協力要請をしていたため息吹戸と顔見知りである。
だがこのような穏やかな態度は一度も見たことがない。
むしろこの態度こそが罠ではといらぬ憶測が浮かぶほどである。
最後に顔を合わせたのは一か月前。この短期間で性格が変化するとは考えらず、
「何か心境の変化があったのですか?」
と尋ねるのも当然であった。
息吹戸は言葉の響きからカミナシと同じ空気を感じて苦笑する。
「あー心境の変化っていうか、それは私がきお」
「ああああああああああのですねええええ!」
津賀留が大声を上げて息吹戸の言葉を消した。
横やりを入れて注目されると津賀留は汗をかく。玉谷から記憶喪失は極秘扱いと言われている為、雨下野に教えることが出来ない。誤魔化すために適当な言い訳を始める。
「息吹戸さんちょこっと性格が丸くなったというか! その、急に視野が広がって高みに登ったというか! 大人になったというか! その、自分を変革している最中なんですって! すごいですよね!」
誤魔化そうとする気負いが前面に出てしまって、何かを隠しているのがバレバレであった。
雨下野の表情が険しくなるものの、追及しても教えないだろうと察して「そうですか」と相槌を打つにとどまる。
息吹戸は津賀留の態度から、記憶喪失は黙っていた方がいいと気づいた。
そして雨下野に呼びかける。
「実は私、ある事をきっかけに見方を変えてみようと思ったんだ。今までとは違うやり方を模索してみたら何かが変わるかもしれないと。そこでまず何をやってみようかと考えて。そうだ、少しだけ他人に優しくしてみようと思っただけ。すぐに飽きて止めるかもしれないけど」
呆けたように口を開けた雨下野だったが、すぐに薄く笑った。
「貴女の心境に何があったか分かりませんが大変好感を持てます。欲を言えば、飽きずにそのままで居てほしいものです」
息吹戸は微苦笑を浮かべて「だといいね」と他人事のように答えた。
(『私』が思い出したらこの記憶が残るのか分からないけど。そして『私』がいなくなって息吹戸が戻ってきたらどうなるか分からないけど。良好な関係を保ってほしいモノだ)
話題が一区切りついたところで、息吹戸は気持ちを切り替えた。
「さてあとは、ヒュドラ戦について疑問があるから答えてくれる?」
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