第32話 フルネームを知る
「過去に何度かお前が記憶喪失になったことがある。記憶を食う呪詛も存在するからな。ただどんなに強力でも解除は可能だ。こちらが手を貸さなくても、一か月程度あれば自力で解除するだろう」
確信をもつ玉谷の言葉に、息吹戸は「ふぅむ」と曖昧に相槌をうちながら腕を組んだ。
(確かに。中身が違うっていうよりも、単純に記憶喪失っていう方がすんなり納得できるかもしれないね。絶対に違うと断言できるけど)
「それでも、ここまで全て忘れているのは初めてだ。まるで別人の様だ」
「別人です。でもまぁ、私がそう感じているだけで違うかもしれないから、強く言えないけど」
「そうか」と相槌を打つ玉谷に、息吹戸はズイっと身を乗り出した。真剣な面持ちで見据える。
「では記憶喪失中ということで私がこれからどうすればいいか教えてください。まずはこの世界のこと。あとカミナシの事と。生活の基礎知識だけでも教えてほしいんだけど、玉谷部長さん時間大丈夫?」
「それは……」
大丈夫と頷きかけて、男性二人の小さな声が聞こえた。
「戻りましたー! ってあれ? 誰もいない?」
「おかしいな。玉谷部長が戻っていると聞いてたんだが? トイレかな?」
誰か職場に戻ってきたようだ。
玉谷はため息を吐き、首を左右に振った。
「儂は仕事に戻らねばならないようだ。その代り本を持ってこよう。ここで読んでから、今日はそのまま帰るといい」
「ここ何時まで就業しているんですか?」
「二十四時間常に」
「ブラックかっっっ!」
血反吐の如く叫ぶと、玉谷は苦笑いを浮かべた。
「異界からの侵略は昼夜問わない。残念な事に交代制で二十四時間勤務だ」
「それもそうかー。警察とか自衛隊みたいなもんだよねー」
息吹戸は体を二つ折りにしてテーブルに額をつけた。
「けいさつ? じえいたい?」
玉谷は聞き慣れない言葉に復唱する。
(ああ。この世界にそれはないのね)
そう察した息吹戸は「こっちの話です」と打ち切った。
「では。休日の間隔は?」
「多発侵略時期でなければ週休三日制だ」
「今は?」
「多発侵略時期だ。だから休みはない」
「あー」
と息吹戸は嫌そうに声をあげた。喜怒哀楽がはっきりしているので、玉谷はなんだか笑いそうになった。
「本に飽きたら帰りなさい。明日は休みをいれておこう」
帰るという言葉を聞いて思い出した。
息吹戸はすぐ起き上がると右手を玉谷に向けて、ストーップとジェスチャーを行った。
「あああ! 部長さん待って! もう二つ頼みがあるの!」
「なんだ?」
「私のフルネームと家の場所を地図で教えて! あと現在地も! でないと一人で帰れない!」
必死の形相で言うと、玉谷はきょとんと目を丸くした。やや間を空けて「そ、そうか」と小さく頷きながら会議スペースから出ていった。
すると男性たちのきょとんとしたような声が聞こえてくる。
「あれ? 部長。会議室でなにを?」
「息吹戸さんから報告!? な、なるほど」
ドアが完全に閉まるがうっすら声は聞こえる。
会議室で一人になった息吹戸は脱力した様に体を折り曲げテーブルに額をくっつける。メンタルがどっと疲れた。
(ううう。当分休みがないって言われるとメンタルが削れる。でも明日休みもらえてよかった)
ころんと顔を横に向けると、飲みかけのお茶のペットボトルが目に入った。蓋を開けて口につけると、喉が渇いていたようで全部飲み干してしまった。
(なんだか飲食について体があまり欲してない気がする。小食なのかもしれないけど、この体が鈍いのかもしれない。ちょっと注意しなきゃ)
やることがないのテーブルに伏せて寝ていると、数分後に玉谷が会議室に戻ってきた。
「待たせた」
ドアが開いたので緩慢に体を起こして「どうも」と声をかける。玉谷はドアを閉めてから少し立ち止まって息吹戸を見降ろすと、にこりと形だけ笑みを浮かべて両手に持っていた数冊の本と地図を息吹戸に手渡しする。
受け取った息吹戸はテーブルに置いて、ざっと広げてみた。文字は読めるなとなんとなく感じる。
玉谷はソファーに座ると地図を開き、現在地を指し示した。
「ここが本部」
道筋を伝って息吹戸の家で指を止める。
「ここがお前の家だ。徒歩十分ほどで着く」
アパート名と三階の角部屋に住んでいると判明した。思ったよりも近い場所にあると息吹戸は喜んだ。
「有難うございます! 公共交通機関使わなくて助かった!」
「それと、お前の名は瑠璃だ。息吹戸瑠璃という」
息吹戸は自分の名前を聞いて目が点になった。そして吹き出す。
「うっは。可愛すぎる名前! 絶対私の名前じゃない! めっちゃ可愛い! そっかー、瑠璃っていうのかー! 良い名前だねぇ!」
テーブルに突っ伏して悶えていると、玉谷は複雑そうな表情で見下ろした。
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