レイゾウコ
今から三年前、小学二年生の竹内杏奈が冷蔵庫の中に閉じ込められて死んだ。アブラゼミが喧しく鳴く、八月の午後のことだった。
事の発端は、彼女が友人ら五人と一緒に、近所の山でかくれんぼをしていたことだった。彼女たちが遊んでいたのは松野山の麓だ。松野山の高山帯にはアカマツが生い茂り、それが山の名前の由来になっている。普段は山裾の道を犬の散歩やハイキングをする人がちらほらいるだけだが、秋になると松茸狩り目当ての観光客で賑わいを見せる。
山の南側に向かって緩やかに下る丘陵帯には、ソヨゴを始めとした常緑植物が繁茂している。丘の一部は広場になっていて、[憩いの広場]と書かれた看板が入り口に立っている。広場の北東側は三メートルほどの急斜面で、進入禁止用のロープが張られている。
[憩いの広場]は竹内たちが通う小学校から歩いて三分ほどの場所にあり、慣れ親しんだ遊び場だった。その日も、コンビニエンスストアで買ったお菓子を広場で食べ終えると、彼女らはかくれんぼを始めた。広場の中程でじゃんけんをして、竹内が隠れる役になり、鬼の役の子が大木の前で目を閉じ、一から数え始めた。数える数字の間隔をたっぷりと空けた、悠長な数え方だった。
公衆トイレの裏や木製のテーブルの下に、他の子が向かうのをちらりと見ながら、竹内は手頃な隠れ場所を探した。彼女の首にかかるネックレス――母親と一緒にビーズで作った、ピンク色の花びらや蝶々(ちょうちょう)が装飾されたもの――が、葉の隙間から注ぐ陽光に反射して輝いていた。五まで数え上げた鬼の明瞭な声が、セミの鳴き声と重なり、竹内の気を急かした。
広場の端を駆けていると、急斜面の手前に着いた。竹内は首を少し突き出して、ロープの手前から下を覗き込んだ。斜面には、落ち葉に埋もれた扇風機や電子レンジなどの家電ごみが落ちていて、その中には使い古された冷蔵庫があった。右開きのドアが上下に二つ付いていて、元は白かったであろう表面は土で汚れていた。
鬼の秒読みが八まで差し掛かっていた。普段は危険を冒すようなことはしない竹内だが、好奇心が背中を押したのか、彼女はロープを潜り、積もった葉の上を滑るように下方へ降りた。ドアを開けてみると、冷蔵庫の中は棚板が全て取り外されていて、ちょうど子どもが入れるくらいの空間があった。竹内は膝を折り畳むと、意を決して冷蔵庫の中に入った。
ドアの上部に手をかけて、反動をつけて手前に引くと、ぴったりとドアが閉まった。「もういいかい」という鬼の声が、不鮮明ながら聞こえた。竹内は上擦りながら、「もういいよ」と声を出した。
冷蔵庫の中は息苦しく、熱気が充満していた。あまりの暑さに、竹内は冷蔵庫から脱出しようと、前方に体重をかけた。そして不自然な体勢のまま足を踏み出したとき、バランスを崩して、冷蔵庫が前倒しになった。倒れた瞬間、竹内は額を冷蔵庫に打ち付けた。
額の痛みに堪えながら、竹内はうつぶせの体勢で顔を上げた。汗を吸ったシャツが肌に張り付き、不快だった。竹内の視界がぐらりと揺れ、強烈な吐き気に襲われると、昼間に食べたお菓子を嘔吐した。嗚咽しながらドアを懸命に押したが、前に倒れてしまった冷蔵庫はびくともしなかった。そのうち手に力が入らなくなり、意識が遠くなって、竹内はそのまま息絶えた。
竹内が死亡してから三十分ほど経つ頃には、彼女以外の全員が鬼によって発見されていた。いつまでも見つからない彼女の身を案じて、友人らが一緒に探したが、竹内は発見されなかった。心配に思った彼女たちは家に帰り、親にその旨を報告した。やがて竹内の両親に連絡がつき、警察に捜索願が出され、山の頂上付近まで隈なく探されたが、結局行方不明のまま終わった。
そして、竹内杏奈が死んでから三年の歳月が流れた。
***
炊飯器を二つ、軽トラックの荷台に積み終えると、倉庫にあった粗大ごみはほとんど空になった。
柳田は黒いシャツの裾をはためかせて風を入れ、首に巻いたタオルで汗を拭いた。腕時計を見ると、午前二時を三分ほど回ったところだった。丑三つ時を過ぎても、昼間の暑さが澱となって沈殿しているみたいだった。
部下の菊池の方を見ると、タオルで額の汗を拭っているところだった。柳田は菊池に声をかけ、荷台に緑色のシートを被せ、ベルトで固定するよう指示を出した。菊池は黒縁の眼鏡越しにちらりと柳田を見ると、上ずった声で返事をした。肉食動物の気配に怯える、草食動物に似た視線の泳ぎ。常に不安に苛まれているような陰鬱な印象が、菊池にはあった。実際、菊池は柳田に対して多額の借金をしているから、頭が上がらないのだ。事務所の給湯室で胃腸薬を飲む菊池の姿を、柳田はたびたび見かけたが、憐れむ気持ちは露ほども沸いてこなかった。
小走りでシートを取りに向かう菊池を横目に、柳田は運転席に乗り込んだ。首を回しながら、軽く肩を揉む。年齢は四十手前に差し掛かり、肉体に蓄積した疲労はなかなか取れず、吸い殻に溜まるタバコの本数だけが増えていく。しかし、こんな生活もあと数週間で終わる。まとまった金が入ったら、貯金を全て切り崩し、単身で東南アジアに飛んで、のんびりと暮らすつもりなのだ。
柳田はタバコを取り出して火を点けた。彼は自身の職業を、ハウスクリーニング業と名乗っている。名刺にも[代表]という肩書や名前と共に[ハウスクリーニング]と明記してある。だが、ハウスクリーニングとは名ばかりで、その実は各家庭から引き取った粗大ごみを山中に投棄するという、れっきとした犯罪である。
無論、この仕事が法に触れていることなど、彼には百も承知だ。それを踏まえたうえで、地域住民に手製のチラシまで配り、廃家電や不用品を安値で引き取っているのは、手っ取り早く金が手に入るからである。エアコンやテレビ、冷蔵庫などの家電を、正規の手続きを踏んで処理すると、運搬や収集費用とは別にリサイクル費用がかかる。その余分な出費を抑えようと、柳田に連絡する人は多く、処理を依頼する電話は日に二、三本は来る。需要と供給は完全にマッチしているし、もし足がつきそうになったら、部下の菊池に罪を被ってもらう算段もある。
「柳田さん、お疲れ様です」助手席側の扉を開けて、菊池が男に声をかけた。「準備できました」
「お疲れ。じゃあ行くか」
一センチほど吸ったタバコを消すと、柳田はキーを回してエンジンを吹かした。
「今日の現場って松野山でしたっけ」
「ああ、そうだ。梅ヶ城山の方は、警察の巡回が厳しくなってきたからな……」
梅ヶ城山は倉庫から南東の方にある山で、先月まで男たちがゴミの投棄場所として活用していたところだ。周囲に民家が少なく、背の高い木々が林立しているため、ゴミを捨てる土地としてはうってつけだったのだが、最近は見回りをするパトカーの姿をちらほらと見かけるようになってしまった。
シートベルトを締めると、柳田はなるべく音を立てないよう、緩やかな速度で車を発進させた。人通りの絶えたこの時間だが、人目を引くようなことはなるべく避けたかった。家電を積載したトラックは低いエンジン音を響かせながら、狭い路地を抜けて、片側二車線の市道に出た。擦れ違う車は少なく、荷物を運送するトラックが時々、赤信号で停まっているのを見かけるくらいだ。
ぼんやりと前方を見ていた菊池が、傍らのペットボトルに手を伸ばして水を飲んだ。運動するポンプのように喉が脈動し、顎下にある剃り残した髭が見える。柳田は無言でハンドルにしがみつき、たまに額に浮いた汗をタオルで拭っている。冷房の効きが悪く、ロウソクの火を揺らす程度の、勢いの無い冷風しか吹き込んでこない。中古の軽トラックだから、コンデンサーファンが正常に回っていないのかもしれない。
二つ目のバス停を左手に折れ、右側に蜜柑畑を眺めながら行くと、等間隔に並んでいた街灯が極端に少なくなった。車の往来は無く、明かりの消えた家屋や商店、コンビニエンスストアなどが、ヘッドライトの照明でぼんやりと浮かび上がるだけだ。なだらかな上り坂を進んでいると、左手に古ぼけた小学校の校舎が見えてきた。照明の落とされたその有り様は、巨大な墓石のようだ。
長く続いていた蜜柑畑が雑木林に変わった。松野山の山裾を舐めるように車を走らせると、アスファルトの舗装が剥がれた荒れた道になった。家電と家電がぶつかる金属的な音が、運転席の後ろから聞こえてくる。松野山の登山口が左手に見え、そのまま左に弧を描くように進むと、常夜灯が点々と灯る広場に出た。
広場の端に車を停めると、二人はヘッドランプと軍手を装着して外に出た。咽るような熱気に肌を包まれて、柳田は深く息を吐いた。周囲からは虫の声と、速度の違う風が揺らす葉の音が聞こえてくる。腕時計を見ると、二時半を少し過ぎたところだった。今のところ人の気配は無いが、誰かに見つかると面倒なことになる。早急に作業を始める必要があった。
「うわ、最悪だ……」
荷台のシートに手をかけていた菊池が、吐き捨てるように呟いた。彼の足元には、羽が片方取れたアブラゼミが転がっていた。腹の辺りをぺしゃんこに潰され、もげた羽が傍らに落ちている。菊池は苦い顔をしたまま、靴の底面を広場の土に擦り合わせると、シートを取り外しにかかった。
崖の端にはロープが張られていた。その手前から柳田は崖下を覗き込み、ヘッドランプで底の方を照らした。崖下の木々の根本には、古タイヤや冷蔵庫など、いくつかの塵芥が乱雑に捨てられていた。
「足元に気を付けて運ぶぞ」トラックの方へ向き直って、柳田が言った。声の調子を抑えた、囁きに似た声色で、「昨晩の雨のせいで、下がぬかるんでいるからな」
「了解です」元々細い菊池の目が、眼鏡の奥でさらに細くなった。汗で濡れた薄い前髪が、額に張り付いている。「まずは手前のテレビから運びますか」
荷台の前に立った二人は、互いに家電の両端を持った。掛け声と共に勢いをつけて、崖下に放り投げていく。銀色の塗装が剥げたブラウン管テレビ――部品が壊れて水漏れを起こしたエアコン――経年劣化で動かなくなった洗濯機――家電を投棄していく二人の間に会話はなく、燃え尽きていく線香のように、時間だけが淡々と過ぎ去っていった。
トラックの荷台にあった家電が半分ほどになったとき、柳田は汗を拭きながら、辺りを見回した。作業を開始してから、柳田の耳は奇妙な音を捉えていた。柳田は最初、それをそよ風がいたずらに鳴らす葉音だと思っていた。だが、その音は虫の声や葉音とは違い、息を潜めた獣の呼吸のような、生々しい質感を伴った音だった。
「柳田さん、何か聞こえませんか?」
菊池も同様の疑問を抱いたらしい。古い扇風機を足元に投げ捨てながら、眉をひそめて言った。
「ああ、聞こえてる。さっきから妙な声がずっとしてるんだ」
「だ、誰かいるんですかね」菊池がどもりながら、周囲に視線を走らせる。
「人の気配はないな……」柳田も注意して辺りを見回した。生い茂る草木と、広場の入り口近くに公衆トイレがあるだけで、人影は見当たらない。
「もしかして、野良犬が何処かにいるとか……」崖下を覗き込んで、菊池が言った。
「確かにな、それは一理ある」無精ひげを撫でながら、柳田が言った。「広い山だからな……野犬の一匹や二匹、歩き回っていても不思議じゃないよ」
柳田はトラックの方へ向かい、荷台に乗り込むと、CDラジカセを持った。腰を痛めないよう注意して持ち上げたとき、背後から「うわあ!」という菊池の情けない声が聞こえた。重みのある物体が地面を滑るとき特有の、ずりずりと引きずるような音が、崖下の方へ落ちていった
CDラジカセを片手に持ったまま、柳田は崖の手前から身を乗り出して、ヘッドランプの明かりを下方に向けた。尻もちをつくような姿勢で、腰の辺りに片手を当てている菊池が見えた。
「おい、大丈夫か?」空気を断ち切るような鋭い言い方で、柳田が声を放った。
「平気です」片手を柳田の方へ振りながら、菊池が答えた。「すみません、ロープに躓いた拍子に、落ちてしまって……」
落下防止用に張られたロープに足を引っかけたらしい。特に大きな怪我はしていないようで、柳田はひとまず安堵した。崖といっても、たかが数メートルほどの高さの急斜面だ。そのままよじ登るには苦心するだろうが、崖に沿って南側に進むにつれて傾斜が緩やかになる。大の大人なら、地上に戻ってくるのに苦労はしないだろう。
「……あれ、声がする」合成された音声のような抑揚のない声色で、菊池が言った。視線を空中にさ迷わせながら、辺りの様子を探っている。
「声?」
「はい、さっき柳田さんと上で話してたじゃないですか。あのときの声が、この近くで聞こえます」汗でずれ落ちた眼鏡を掛け直し、夢遊病者の足取りで歩を進めて、「あ、ここですね。この冷蔵庫の中からだ……」
菊池は横倒しになった冷蔵庫に手をかけると、ぐっと力を入れて持ち上げた。冷蔵庫にかかっていた枯れ葉や泥が落ちて、ばさばさと音がした。
「いいから、早く上に上がってこい」菊池の様子に妙な気配を感じた柳田が、少し語調を強めて言った。「残りの粗大ごみも始末しないといけないからな」
彼の言葉はどうやら、菊池の耳には入っていないらしかった。菊池は地面に両膝をついた姿勢で、呆けた表情を浮かべたまま冷蔵庫の扉を開けた。
柳田のいる位置からは、冷蔵庫の側面と、菊池の青白い横顔が見える。菊池は視線を冷蔵庫に向けたまま、口を半開きにして、身体を硬直させていた。柳田がヘッドランプの明かりを菊池に向けたが、その表情からはどんな感情も読み取れない。ただ、眼鏡の奥の目が、普段より大きく開かれているように見えた。
どんな言葉をかけようか、柳田が逡巡していると、菊池が掠れた声で「あっ」と言った。それと同時に、突然大きな太鼓を打ち鳴らすような音がして、冷蔵庫の中から太い枝のようなものが飛び出してきた。枝の先端は五つに裂けて、一瞬のうちに菊池の喉を掴み、彼の身体を地面から一メートルほどの高さまで持ち上げた。
柳田の手に握られていたCDラジカセは、いつの間にか地面に落ちていた。眼前で起きていることに現実感がなく、緊張が全身の筋肉を締め上げて、呼吸が浅くなった感じがした。身体は暑さで火照っているのに、心臓の奥だけが氷のように冷たい。柳田は玉になって落ちる汗もそのままに、ヘッドランプの明かりの中の光景をただ見つめていた。
冷蔵庫から伸びた枝の表面は、融解した銅のように爛れていた。赤茶色に汚れた枝は菊池の首を絞めたまま静止している。同時に柳田も身動きが取れなくなっていた。空気がガラス板のように張り詰めていて、唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。生温い風に乗って、肉が腐ったような臭気が彼の元まで漂ってきた。
停滞した時間の流れを引き戻したのは、菊池だった。彼の両手足が、それぞれ個別の意思を持ったように、てんでばらばらの動きを始めたのだ。そして四肢の痙攣はそのままに、菊池が緩慢な動作で柳田の方へ首を回した。彼の両目は黒いヒスイのように濁っていて、その視線の向け方はこちらに助けを求めているようにも、あらゆる事に諦念したようにも見えた。それから彼の口が何か言葉を発しようと、ゆっくりと開かれた刹那、枝が勢いよく冷蔵庫の中へ引き戻った。判然としない頭の中で、柳田はその光景を「カエルが舌を伸ばして昆虫を捕食する瞬間に似ているな」と思った。菊池の身体は一瞬のうちに白い箱の中に押し込まれ、その後静かに扉が閉まった。冷蔵庫の前には黒縁の眼鏡が、泥を被った状態で落ちていた。
ふいに強い風が吹いて、木々の葉がざわざわと音を立てた。柳田は踵を返してトラックの方へ向かい、運転席に乗り込んだ。荷台にシートをかけるのも忘れて、差し込んだままのキーを回すと、鈍いエンジン音が分厚い夜の闇の中に響いた。
柳田は車のスピードを上げて、事務所までの帰路を走った。運転する柳田の背中で、汗がなめくじになって這いまわっている。高ぶった気持ちをどうにか抑え込みながら、彼は冷蔵庫の中にいた何かについて考えた。
あの白い箱の中にいたのは、野良犬みたいな生易しい生き物ではない。禍々しい気配をまとった、形容しがたい化け物だった。菊池を助け出そうという気概は、柳田には微塵もなかった。あのまま崖下を降りて救出に向かったら、自分の命まで危うくなるという直感が、彼にはあった。
猫がどこかで盛りの声を上げている。いや、あれは道を何本も隔てた向こう側を走る、救急車のサイレンだ。空一面を覆っていた薄雲が切れて、月光が街を照らしている。月光を浴びてモノクロになった町には生気がなく、夢の中を走行しているような錯覚に襲われる。
どの道をどうやって走ったのか、柳田の記憶にはもうない。気が付いた時には、軽トラックを倉庫の中に停めて、転がり込むように事務所の扉を開けていた。座面の皮が剥がれたソファに身体を預けると、重い疲労感が頭上から垂れ込めてきた。胸ポケットに入れていたタバコを引き抜き、口に咥える。ライターを持つ指先が震えて、着火するのにひどく手間取った。タバコの味は不味く、柳田は数ミリだけ吸うと、乱暴に灰皿に押し付けて火を消した。か細く昇る煙が揺れて、天井の辺りでかき消えた。
自分が何をするべきなのか、柳田には皆目見当がつかなかった。仕事柄、警察に通報するわけにはいかない。仮に警察に連絡をしたとしても、冷蔵庫の中にいた生き物が部下を飲み込んだなどという話を、誰が信じるだろうか。いたずら電話だと一蹴されるか、精神疾患のレッテルを張られて終わるのが関の山だろう。
とにかく朝になるまで、この事務所で過ごそうと柳田は考えた。もしかしたら、夏の暑さで頭をやられて、悪夢を見ているのかもしれない。夢というのは、時々妙な生々しさを伴ってくるものだ。日が昇ってから松野山に赴き、現場の状況を確認してからでも、手遅れではないはずだ。
自分の中で結論が出ると、彼は少しだけ肩の荷が降りたような気がした。咳払いを一つすると、口内がからからに乾いていることに気が付いた。確か事務所内の冷蔵庫に麦茶が入っていたはずだ。柳田は給湯室に向かい、冷蔵庫に手をかけて、扉を開けた。中には身体が蠟のように融解した子どものような生物がいた。怪物の頭部には穴が三つ開いていて、どうやら元々は口や目だったらしい。首元には花や蝶などをあしらったネックレスがかけられていた。
その得体の知れないものの正体が、菊池を冷蔵庫に押し込んだ化け物と同一であることは直感でわかった。理解した瞬間、人形は腕らしきものを伸ばして男の首を掴んだ。柳田の視野が狭くなり、世界が暗褐色に染め上げられていった。ぼやけていく視界の隅で、人形の口が大きく開くのが見えた。人形は彼の方を向いたまま、粘りつくような声色で「鬼さん、つかまえた」と言葉を発した。柳田の視界が暗転して、そこで彼の意識は途絶えた。
<了>