聖女追放~沈黙の聖女として列席していたわたしは悪魔の羽がついたので教会から追放されたけど信仰心で絶対に負けない~
「やぁ、聖なんたらちゃん」
そいつはまた宵闇の時間にやってきた。
まるで知り合いの家に入れてもらうときのような気安い態度。
あるいは隣家から塩を分けてもらうときのような気兼ねのなさというべきか。
口調は愛嬌たっぷりに抑揚をきかせている。
わたしは世の中のことをあまり知らないので普通という言葉の意味がよくわからないのだが、それでも常識というものは持っているつもりだ。
そのわたしの常識に照らしても、そいつは笑えるぐらいに普通だった。
容姿を客観的に描写すれば、そいつは若い男の格好をしている。
どこにでもいるような普通の紳士だ。いや、むしろ顔立ちだけを見れば整っている部類といえるだろう。
白い手袋に、翼のような尻尾のある服。そしてズボン。
奇抜な格好だが、妙に整っている。
整いすぎていると言い換えてもいい。算術のおけいこでもしてきたかのように計算されつくした姿格好とでもいうのだろうか。
気持ちの悪いところは無骨な鉄の鎧でもまとっているかのようにほとんど表情に動きがないことだ。
にこやかで晴れやかな薄気味の悪い笑顔。
裏側に悪意が透けてみえる笑顔が張りついている。あるいは悪意のある表情をすればまだ違和感がないのかもしれない。やはり人間離れしているとしか言いようがなかった。
なぜなら、そいつは悪魔だからだ。
悪魔的な男というわけではなく、
一文字一句たがわず、なんの比喩表現でもなく悪魔だった。
悪魔らしい――のだが。
自称悪魔なので正確にはわかりようもない。
外見は単なる人間の男そのものだから。
ただ、わたしの今の状況を考えるとそいつは本当に悪魔なのだろう。
おそらく。八割がたは悪魔……。残り二割の可能性は人かあるいは天使か。
しかし天使というのはありえそうにない極小の可能性といったところだ。
逆に魔術師的な男という可能性はありうる。
卑小な人間であるわたしにはわかりようもない。
わたしは目を合わせなかった。
「ねえ、聖なんたらちゃん。すこしは気にかけてくれてもいいんじゃないか。そんな仏頂づらだとかわゆい顔が台無しだよ。スマイルはタダなのが基本だろ」
わたしは教義上、言葉を喋ることはできない。
なのでそいつの言葉には答えない。
たとえ教義がなかったとしても悪魔とは話をしたくもなかった。
「穢れるからかな」
そうだ。穢れるから。
穢れには罪があり、恐怖があり、憎悪があり、言語化できないさまざまな何かがある。
人は穢れを厭う。
悪魔は穢れそのものだ。
創造主に逆らい地獄の中でうごめく唾棄すべき存在だ。
「傷つくことを平気で言うねえ。悪魔差別団体が聞いていたら、名誉毀損罪で訴えられちゃうよ? いや、誹謗中傷レベルだからこの場合は侮辱罪のほうかな。まあどうでもいいけどさ」
言ってない。言葉では。
いやそんなことよりも悪魔差別団体なんて聞いたこともない。
「あるさ。矮小で愚かでわかってないのにわかっているふりをする人間ごときが知らないだけで、それを世の中の真実と同定するなんてこれまた愚かなことだよね。そう思わないかい?」
どうせすべてが生ぬるい嘘と適当な真実を合成したものだろう。
「そんな普通人のような印象を持たれても困るなぁ。君はそこらの蓄群よりかはいくらかはマシなはずだろう。なにしろ聖なんたらちゃんと呼ばれるだけのことはあるわけだからね。それだけの聖性のある存在だからこそそういう呼称がされているのだから、その名前にふさわしくあってほしいものだね。凡庸と低俗はほとんど同じ意味なのだから」
悪魔の言葉はよくわからない単語も多く、まともに聞けば混乱するばかりだ。
わたしは悪魔を無視して床に散乱したガラスの破片を手で拾いはじめた。
ここは朽ち果てた教会だった。
あるいはもはや冗談レベルでしかないのだが、この世とあの世の境界ともいえるかもしれない。わたしのいままで経験してきた現実からはかけ離れている。
かつてはきらびやかに光を反射していたはずのステンドグラスはこなごなに砕け散り、冷たい風がそこかしこから入りこんでいる。
灰色をした石の壁もぼろぼろだ。
当然のことながら、あの象徴的な信仰のかたちもすでになかった。それだけ崩壊しているにも関わらず、屋根が残っているのが幸いだった。
教会の重い門扉を開くのに思いのほか苦労したが、この細腕ではしかたのないことなのかもしれない。
なにもしてこなかった自分が今、なにもかも自分でしなければならなくなったのは自業自得といえた。
暗い森の中の教会だった。
この森には小さな村があったのだろう。
その痕跡はいたるところにあった。あくまで痕跡といえるレベルでどこの家もすでに家と呼べるしろものではなく、一歩でも足を踏み入れればすぐに崩れ落ちそうな廃屋ばかりだったが。
今では村自体がどこかに移ったのかもしれない。
人がいなくなり、教会は捨てられたのだろう。
「そして信仰も滅んだ、か」
違う。信仰は滅びていない。ただ移っただけだ。
教会は単なる家にすぎない。
物質にすぎない家にこだわるとはいかにも悪魔らしいことだな。
「そうは言っても人間が教会を捨てるってことはさぁ、結局のところそういう意味なんじゃないのかな。ほら、人間って無駄な労力をかけてでっかいお墓とかつくったりするじゃん。あるいは永久保存とはいわないまでもわりと残りやすい石版に文字刻んだりさ。物質にこだわってるのは人間のほうだよ」
悪魔には人間の都合などわかりもしないのだろうな。
と――。次の瞬間、わたしは刺すような痛みを手に感じた。
血がにじんでいた。ガラスのかけらで手のひらが切れていた。そんなに深くはないが、痛い。
ずっくんずっくんする。じんわりと、血。紅い。紅い血。
今の瞳と同じ色。
「あ~あ、ぷりちーなおててを怪我しちゃってるねぇ。まあガラスの破片を握ったことなんて今までないんだろうけどね。聖なんたらちゃんは」
手伝う気もないのに、よく言う。
「そりゃ、まぁねえ。君のことは人間の中では特別気に入っているほうだけど、だからといってそこまでする義理はないよねぇ。だって、君の目の前にいる存在は正真正銘の悪魔だからね。悪魔にとって人間はそこらへんの石ころと同じレベルなんだ。徹頭徹尾どうでもよく、生きようが死のうが絶望しようが本来的にどうでもいいんだよ」
だったらなぜおまえはここにいる。
「珍しい石ころを蒐集するのが楽しい変態悪魔なんだよね。仲間うちではお前人間オタクかよキモッとかいわれちゃってるし。人間蒐集が許されるのは小学生までだよねとか言われちゃってね。ああ、そうさ変態だよ。石ころ人間大好きだよと開き直るしかないからもう散々だよ。まあいいんだけどさぁ」
キモいとはどういう意味だろう。
よくわからない。
そういうふうにまともに考えるからよくないのだろうが、言葉が耳に入る以上、思考を完全に遮断することはできない。
「キモいってのは人間があとあと発明することになるよくできた侮蔑の言葉でねえ。この言葉をいうだけでどんな低能まるだしの人間でもとりあえず上から目線で他人を見下すことができるようになる素敵な言葉なんだよ。この言葉を聞くとあながち人間も捨てたもんじゃないって思えるよね」
聞くんじゃなかった。
いや、正確には会話を伴っていない以上、ただの音が耳に入っただけだ。
だが――。
どちらにしろ悪魔との会話では同じことだろう。
「発話には発話のよさがあるけどね」
ん――? なにか様子が変だな。
悪魔にしては珍しく言葉を濁したように感じる。よくわからないが悪魔には悪魔の都合があるということなのだろうか。
「そんなことより、聖なんたらちゃん」
ガラスの破片を全部取り払ったところで、悪魔がまた話しかけてきた。
正直なところうんざりしているのだが、どちらにしろ悪魔は話しかけてくるし、わたしとしてもとりあえず休憩しなくては体力がもたないのでそこらにあった椅子に座った。
象徴のあった場所をぼんやりと見つめ、
――なんだ?
と思考する。
「聖なんたらちゃんはさー。復讐したいとか思わないわけ?」
復讐? 誰にだ。おまえにか?
「おお、怖い怖い。そうじゃなくてさ。君を聖なんたらと呼んで奉っておきながら、それこそ人形のように神様みたいに奉っておきながら廃棄物のように捨てた人間どもにだよ」
おまえが原因だろう。
「まあそうかもしれないけどさ。ちょっと外見が変わっただけで気にいらなくなって棄てちゃうなんてあんまりだと思わないのかな」
カラスのような黒翼と、血のような紅い瞳。
それだけは現実として、存在した。
たとえ悪魔がわたしの幻想で夢物語で単なる幻視にすぎないと仮定したところで、わたしの背中から生えたこの翼と紅い瞳の色が現実として迎えいれられたことだけは否定できない。
呪いの象徴として。
堕落した信仰の証として。
そしてなによりも穢れそのものとして。
「ひどい話だよね。生まれたときからほとんど喋ることを禁じて、人形みたいになれって命じておきながら、いらなくなったらすぐポイだもんね。この場合のポイは金魚をすくう網のことじゃなくて単なる廃棄の擬音語だけど」
いい加減この悪魔を消す方法はないか。
と、心の中で思いながらわたしは考えなおす。
さすがに心の中でもこれはあまりにもひどい言葉づかいだ。
精神を平衡に保たなければ悪魔に魂をのっとられてしまう。
これはいわば試練なのだろう。
悪魔との対決。聖典の中にでてくるよくある物語だ。
物語に出てくるような偉人とは違い、わたしは何も知らない卑小な人間だから勝てるかはわからない。
人形に過ぎないという悪魔の言葉はある意味図星で真実だった。
真実はいつだって真実だが、真実によって人間が救われるかは運による。
この場合の真実はわたしを助けてくれそうになかった。
わたしには弱みがある。
「そうだよ、君には弱みがある。萌え要素だ。弱点ってのは萌えだからね。その人形属性ってけっこう好きな人いるんじゃないかなー。奴隷的素養というか、メイドさん気質っていうのかなぁ。ああ、なんだかゾクゾクしてきちゃうね。今のところ君のその可憐な唇からご主人様って呼んでもらうのが夢だな。むふふ」
変態だった。
よくわからない言葉だらけだったが、なぜか悪寒を感じる。
「まあ、君の目の前にいる変態悪魔の趣味はおいておくとしてだ。そんなことより復讐だよ、復讐。もしも君が復讐したいっていうんだったら手伝ってやらんこともないぜ。ちょっとばかし時空をかき乱すことになっちゃうけど、ショットガンとかの武器のたぐいをどっかの時代から調達してきてやってもいいし、チート気味でもいいっていうんだったら、核なんてのもいいかもしれないね。綺麗さっぱり焼け野原、あとに残るのはトイレの芳香剤のような放射能の香りだけ。すっきりするよ」
復讐などしない。
そんなことははじめから決まりきっていた。
「試練だからかな。それは君が勝手にそう考えただけで、べつに誰も試練だなんて思ってないだろうよ。単なるキモいって感情だけで聖なんたらちゃんは棄てられたんだからね。その翼と瞳、わりと素敵だと思うんだけど人間の趣味ってわからないなぁ」
棄てられたのは真実だ。
けれど、わたしは人間の側にいる。人間の側にいたいのだ。
それもまた真実だといえるだろう。
「そこらへん聖なんたらちゃんの良いところだよ。実に人間的な仲間意識。気持ち悪いぐらいの共感の感覚。わたしの痛みはいつかきっと理解されるだろうというような甘い幻想だ。スイーツのようなあまーいあまーい幻想だ。あははそれは言いすぎかな。まあ幻想だとはいえ、人はなかなか人を殺さないものだよね。それはわかるよ。人間はけっこうな量の血がつまった肉袋という感じであれが破砕したときの見た目の気持ち悪さと臭さといったら閉口もんだよね。あかいあかーいトマトみたいなつぶれかた。グロいっつーか、美的感覚に反するよね。一部の特殊な人間を除いてそう思うのは当然だと思うよ。だから復讐しないって考えるのも実に無理のないあたりまえの感覚だ。だって、"気持ち悪い"もんね」
そうではない。わたしには復讐をする理由がない。
彼らをまったく恨んでいないといえば嘘になるかもしれないが。
「嘘になるんだ、へぇ」
わたしは気にせず続ける。
これはわたしの痛みであって、わたしの問題だ。彼らは関係がない。
「清廉な心だねぇ。でもさぁ、人形としての役割を君は演じ続けているだけだよね。だってほら聖なんたらちゃんいままでで一言もしゃべらなかったじゃない。それって、言われるがままの状態が続いているだけだよね。だからさ、見えない糸で君はやつらに操られているだけなのかもしれないよね」
これは教義の問題だ。
「そんな教義あったっけ。少なくとも君の大事な聖典の中にはそんな言葉は書かれてなかったと思えるけどねぇ。聖典を丸暗記して大事なイベントのときだけ朗読するマシーンな君なら覚えてるんじゃないかな?」
書かれていることだけが教義であるとは限らない。
わたしが言葉を喋ってはいけないのは、言葉によって世俗に溢れる穢れが移ると考えられているからだ。
わたしはそういう存在として存在した。
それは善でも悪でもなく、そういう歴史的な事実があったというだけのことだ。
「偶像的だねぇ。みんなのアイドルだったわけだ。でもさ、それってさりげなく教義と真正面から矛盾しているよね。君のところの宗教って偶像禁止じゃなかったっけ」
正確に言えば偶像ではなかった。ただの道具だ。大衆の心をまとめるための装置にすぎない。大衆はわたしを見ていたのではなく、わたしの背後にいるお方を見ていたのだ。
「なにが違うのかさっぱりだけど、結局、いいように扱われてたってことは否定しようがないよね。便利な道具だったわけだ」
それはそうだ。
けれど、それはわたしも少なからず望んでいた。
そうありたいと望む部分もあった。
「でも人形はあやつられるから人形としての価値があるわけであって、君がそういうふうに望んでいることすら、邪魔な感情だったのかもしれないね。それに、はっきり言って君じゃなくてもよかったのかもしれないよ。君は確かに聖なんたらの生まれ変わりとかいわれてちやほやされていたけどさ」
わたしには知りようがないことだ。
それに興味もない。わたしはわたしとしての自意識が芽生えたときから、今のようだった。だから、それ以外の生き方を知らない。
「聖なんたらちゃんはそうやって悲劇のヒロインをきどっているだけなんじゃないかな。今の状況にマゾ的な気持ちよさを感じているんじゃないかな」
悪魔の言葉はわたしの心に沈めていたものをやすやすとえぐりだす。
正直なところわたしはわたしの心がよくわからない。この悲劇的な状況下でわたしがまだ絶望していないのは信仰がなせる奇跡ともいえるが、しかしその信仰にはわたしがそういう試練を課せられているのだという確信が根底にあるのであって、その確信はつまるところ奢りではないのかといわれれば、わたしには返す言葉もない。
天空にいてすべてを言葉によってのみ動かすあのお方の声を聞いたことは、わたしにはないのだから。
「ぶっちゃけてしまうとねぇ。神なんていないんだよ。悪魔はこれこのとおりいるけどさ。って、おいおい、そんなに憎悪むきだしでにらまない、にらまない」
悪魔はふわりと宙に浮いて、象徴があった場所に腰かけた。
「これはオフレコだけどさぁ。神っていわれてるやつ、あれ悪魔の一人だからね。調子のっている悪魔一匹がこの世界で好き勝手にやった結果、人間のほうがそいつのことを誤解して勝手にお手製の物語を創ってね、神さまに仕立て上げたってわけ。その意味では神さまという名の創作物は人間と悪魔の共作だよ」
誰が悪魔のいうことを信じる。
「いやまあ、信じるも信じないも勝手だけどね。それはもう神さまを創っちゃうのと同じレベルで勝手だけどさぁ。これって笑い話だよね。人間っていうのはどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでも愚かだよね」
悪魔は饒舌に話しつづける。
「しかし、これはどうしようもない悲劇。きみたちはなにも悪くはないよ。数学的な宇宙的偶然がきみたちを欠陥作品として創ったのが悪い。それを仮に神と呼ぶというのもひとつの解釈としてはありうるところだろうけど、その神はずいぶんとひどい神さまだよ。うすらバカの神。神が創った生命のなかで例えばハエですらも君たちに比べたらまだ完成度は高いだろうよ。そんなこというと生命を差別している言葉になっちゃうかもしれないけどねぇ。ハエに悪いね。まあ悪魔だからそんなことは気にしない。それにしても、あー、なんたる悲劇だろうなぁ。カワイソウだなぁ。どうして人間がそんなにも愚かなのか聖なんたらちゃんに教えてあげようね。これは一種の人間の性能限界の問題なんだ。宿命といいかえてもいいかもしれない」
悪魔はいいようのない笑いを顔に浮かべながらいった。
「人間は根源的に存在論的なレベルで不安を抱えている存在なんだけど、その不安はどこから来るかというと、わからないという不覚知からくるものだよね。暗闇が怖いのはそこに何かがうごめいているかもしれないから怖い。森の中が怖いのも恐ろしい悪鬼が住んでいるかもしれないから怖い。かもしれないが怖いんだ。だからそういった不覚知をどうにかこうにか処理しなくちゃいけなかった。それこそ十代の若者が性欲を処理するときのように大量のティッシュを必要としたんだ。そこで神さまの登場。これって便利な発明だよ。とりあえず何もかも神さまの責任にしてしまえばいいんだからね。わからないことがあればすべて神の思し召し。これ以上に楽なことはないよ。ま、要するに神さまは精液まみれのティッシュだってことさ」
悪魔らしくずいぶんと穢れた言葉を使うようだ。意味の半分も理解できなかったがなんとなく害意は伝わる。
「害意ではなく誠意といって欲しいな。真実を話してるんだから」
悪魔は虚偽しか話さないのだろう。
「虚偽には真実が含まれることもあるわけだし、神がいないってことは本当なんだけどなぁ。まあ君は信じそうにもないけどそれはしょうがないことだとも思うよ。だって神がいないってことは君の存在を全否定することにつながっちゃうわけだからね。でもさぁ、冷静に考えてみるとさ、君は神がいるってことをまったくもって誰にも証明できないわけだよな。悪魔である悪魔は自分の存在をもってして悪魔がいるということを証明できるわけだけどさぁ。これってどう思う。ちょっと不公平じゃないかな」
証明する必要などない。試すこと自体がすでに不遜なのだ。
「あ、でたでた。どこかの聖典からのパクリだねそりゃ。いや、でもまあそれって開き直り以外のなにものでもないよね。わからないことはティッシュに吐き出して丸めてゴミ箱の中にポイってするのが人間の流儀みたいだし。ポイはこの場合金魚を……」
もういい。信仰においてわたしをぐらつかせることは不可能だ。
「まあそうかもね。あ、そうそう……」
と、そこで悪魔は話題をかえた。
「君はさぁ、さすがに人はパンのみで生きるのではないという言葉を字義どおり受け取るほどバカではないと思うんだけどさぁ。おなかすいてない?」
飢餓に近い状態といってよかった。
なにしろ都から森まで歩きづめだったのだから。わずかばかりの水と食料をもって出てきたからなんとかここまで来ることはできたのだが、すでに両方とも尽きていた。つまり食べるものも水すらない状態だった。さきほどからのどがからからに渇いていて、唾液すらでない状態だ。
せめて水ぐらいは探さなければ、そうそうに命が尽きる。
別に肉体的に滅んだところでなんら恐怖はないが、しかし生きる努力をやめてしまうのは褒められたものではないだろう。
いつだって与えられたものを増やそうという姿勢だけは棄ててはいけない。信仰も命も棄てることはできない。
「よければ、なにか用意してあげようか」
何を言っているんだこいつは……。
「心配しなくても、ちゃんと人間が食べられるものを用意してあげるよ」
誰がおまえの用意したものを食べるか。
どうせわたしを買収可能かどうか見定めようとしているんだろう。
少なくともわたしの魂はおまえには買えない。
「まあ、そう言うだろうとは思ってたけどさぁ。いずれ君は死んじゃうよ? 人はパンのみで生きるにあらずって昔のえらい人はいいました。でも、それって嘘だよね。たとえば悪魔的な狡知をもってすれば、そこらへんにうじゃうじゃいる絶望しきった人間を捕まえてきて、無理やりパンを食べさせて生かし続けることは可能だよ。生きる希望も気力も信仰も全部なくなっても自動的に機械的に生かすことは可能なんだ。人間はパンを消費する機械にすぎないんだからね。希望や気力や信仰は人間の生存にとってはせいぜいがオプションにすぎない。ちょっとした支えにすぎないのであって、やはりパンがなければ人は死ぬ。そんなことも昔のえらい宗教人はわからない阿呆だったわけだよ。それにね。悪魔にとっては人間の絶望すら無理やり解消することは可能だよ。多幸の感覚で覆いつくしてあげることは可能だ」
人間は食べなければ生きていけないのは真実だ。
しかし、お前が与える幸福は偽りのものだ。
人間は時には絶望することもあるが、希望はいつだって心の奥底に眠っていて、その者の心の中を明るく照らす機会をうかがっている。
その種火を見つけることができるかそうでないかはその人の心の強さに関わってくるかもしれないが、どんな人間にだっておのずから救われる可能性はある。
誰かが今日絶望していても死なないのはその人ですら意識していない希望が支えとなっているからだ。絶望は希望がない状態を言うのではなく、希望が虚無の闇によって隠されている状態にすぎない。
「ずいぶんともってまわった言い方をするんだね。人間という抽象的レベルで語ることによってまるで自分はそこには含まれていないかのような鳥瞰の視点を持ちこんでいる。欺瞞もいいところだが、聖なんたらちゃんは気づいているのかな。まあ気づいているんだろうね。君は人間にしてはわりと頭がよい部類に入るようだしね」
わたしは答えない。
最初から最後まで口に出してはいないが、この場合の答えないとは伝えないようにするということだ。
悪魔といえどもさすがに抽象的な思考にまでは読み取れないらしい。言語化された思考、よりはっきりと言葉にした思考は伝わりやすいようだ。
だからわたしはいろいろな色を思い浮かべる。赤、白、紫。
感情や思考を論理的に説明しようとせず、色によって抽象化する。
これでいくらかか思考の流出は防げる。と、思う。たぶん。
「悪魔を試すなんて聖なんたらちゃんは本当に頭が良いね。まあいいさ。わかったよ。君は悪魔の助けを借りずとも生きていけるというのならね。君に死なれるとこちらとしても楽しくないから助けようと思っただけなんだけどな。信用されないって哀しいね。聖なんたらちゃんは信用されない哀しさを知っているはずなのにねぇ。ああ、哀しい。哀しい」
悪魔は消えた。とりあえず今日のところは。
明日もおそらく来るのだろう。うっとうしいことこのうえないが、わたしには悪魔を祓う力はない。
あがめたてまつられていたという過去があっても、たかが十三年程度しか生きていない卑小な人間にすぎない。天上のお方の声を聞いたこともないのだから。
これは試練なのだろうか。そう問うこと自体がすでに、悪魔の言葉にからめとられている証拠だ。
根源的な不安。
信仰の弱さ。
あるいは一時的な気の迷い。
――主よ。あなたは、どこに。
唱えそうになる唇をぐっとかみしめる。
悪魔がいうような根源的な不安は人間の本来的な性質だから否定しようがない。
人がパンによって生かされることを否定できないのと同様、人間は生きている限り不安になるということもまた否定できない。
いや、人間という言葉でごまかすのはやめよう。
わたしは不安になっている。とても心細い。棄てられてしまった。
ランプの光がないことも、水や食料が足りないことも、暖かな毛布がないことも耐えられるが、誰かに棄てられるのだけは慣れそうになかった。
しかし不思議なことに裏切られたという感覚はない。
恨みや憎悪も悪魔がしきりにいっていたが、本当に欠片も存在しない。
――かのように思える。
いちおう、留保をつけておきたいのはぽつぽつと暗い感情が生じることを否定できないからだ。
しかしながら、志向性のある思考としては恨みの感情はなかった。
それはわたしが清廉な心を持っているからではなく、単にわたしが他の信徒とは違う立ち位置にいたからだろう。
信徒は兄弟という言葉で結ばれているが、わたしは別格だった。
わたしはちやほやされていた。わたしはいい気になっていた。
あいまいなぬるま湯のような感覚の中でわたしは人とは違うのだと考えていた。
よくも悪くも教義の執行機関の一部だった。
だから、人形にすぎなかった。
わたしが前に住んでいた大教会にはいくつもの歯車を使った大きな時計があって、毎日決まった時間に時を知らせていた。わたしは、その歯車と同じだった。
時計という巨大な装置を動かすために歯車があるように、教義を駆動させるための装置として、わたしの存在意義はあった。
いらなくなった"部分"は廃棄されて当然だという思いがある。それはよく考えると馬鹿げた考えだったが、しかし実感としてそう違和感がないのは、それが真実だからだろう。
わたしは人形だったのだ。
誰もわたしを見ていない。その証拠に誰もわたしの本当の名前を知らない。悪魔が言うように『聖なんたらちゃん』だったわけだ。
今のわたしは名前すらないただの飢えた人間だった。しかし暗闇の森の中を探索することほど命知らずな行動もないだろう。
あと少しで夜が明けそうだからそれまで待ったほうがいい。
ただ、寒かった。
いままでどれだけのぬくもりを与えられてきたのかが今になって痛感された。
ほとんど走りっぱなしだったから気づかなかったが、本当は身を切るような寒さが充満している。
いくら屋根も壁もある教会の中だといっても、火もない部屋だと凍えてしまう。教会の中は薄暗く、なんとか月明かりでぼんやりと辺りが見える程度だった。
周りを探索してみたが、どこにも暖をとれるようなところはなさそうだった。
毛布の一枚すらない。火を起こす道具自体は持ってきているが、森の中で枯れ木を集めるのは明日にしたほうが無難だろう。
やむを得ず、わたしは黒い翼で自身を包んだ。
この翼は色こそ不吉とされる黒色だが、質感は昔飼っていたハトに似てやわらかい。自身を支えるほどの力はないので飛ぶことはできそうにないが、それでも自分を寒さから守る程度の質量はあった。悪魔の力を借りているようでどうにも落ち着かない気分にはなる。だが、少なくとも寒さはしのげた。
わたしは飢えと渇きと疲れと寒さにへとへとになって、気絶するように眠りに落ちていく。
☆
朝、わたしは飢えを満たすために水と食料を探した。
のどが耐え切れないほどに渇く。
紅い瞳は血走ってさらに赤みを増しているだろう。
白い霧がでていた。
雲のような厚みのある霧で、ほとんど目の前は見えない。
方向がわからなくなりそうだ。同時に肌を突き刺すような寒さが襲った。
はぁ、と大きく息をする。
霧は水でできているらしい。だから霧を口に含めば少しは渇きもおさまるかもしれない。そう考えての行動だったが、あまり効果はなかった。
そうやってどれだけ歩いただろう。
足が棒のようになり、蛇がはいずるような動きでしか前に進めなくなっていく。
身体は石レンガをいくつもつけたように重かった。羽の重さも関係があるのかもしれない。自分の身体がまるで自分のものではなくなかったかのような感覚に溺れそうになる。
まさに一歩も動けなくなったとき、ふと風を感じた。
清涼な一陣の風だった。
森の中はどこか淀んだ空気をまとっていたが、吹き抜けた風は涼しげで、透明で、青かった。風の来た方向に視線をやると、光があふれている。森が途切れているようだ。
わたしはにわかに身体が軽くなるのを感じ、光に向かって駆け出す。
数秒間、思考が途切れる。
その瞬間は最高に純粋な思考。
ただ、そこに向かう。それだけの存在になる。
そして、白。
真っ白な太陽の光が顔にあたり、まぶしさのあまりわたしは目を閉じた。
森がそこだけ途切れている。
だから光がさえぎられていなかったのだろう。
ここもまだ森の中だろうが、ともかく救われた気分になった。
深い湖だった。
底が見えない、闇のように深い湖だ。たたえられている水は清純で、見た目は綺麗に見える。目をこらしてみると魚が何匹か泳いでいた。魚が棲んでいるということは少なくともこの水に毒性はなさそうだ。
湿気を含んだ土は黒に近い色をしている。滑りやすくなっているようなので、ゆっくりと足を踏みだしていく。
側まで来た。水を手ですくい、舌で少し舐めとってみる。
おいしかった。水に味があるなんていままで思いつきもしなかったが、この水はいままで飲んだどの水よりも甘く感じられた。
そう感じるのはわたしの身体がそれだけ水を欲していたためとも考えられる。じんわりと身体の中が満たされていく感覚。そういった身体の感覚は退廃への第一歩なのかもしれないが、同時に人間という存在の精妙さをうかがわせるものでもあった。
――おいしい。
わたしにはまだ命があり、希望があり、信仰があるのだから、悪魔などに負けてはいられない。そう思った。
渇きが満たされたので、次は食料をどうにか確保したい。人はパンのみに生きるわけではないが、パンを探さなければいずれは死ぬ。とりあえず、水があればかなりの間食べなくても死にはしないらしいが、それでもこの矮躯では、体力がすぐに低下してしまうだろう。
なにしろ寒い。寒さに耐えるだけの熱がいる。食べないと凍えてしまいそうだ。水を皮袋の中にいれて、わたしは探索を再開する。
「……?」
背後の草むらから突然ガサリという音がした。
獣? あるいは悪魔か。しかし今のところ、陽光のあたる場所でやつが現れたことはない。とすると獣だろうか。
今のわたしには狼やあるいは犬ですら殺す力はない。そもそも殺生をすることを禁じられていたから、どうやって対抗するかがわからない。殺そうとしてくる存在に対する防御の仕方すらわからない。
声をあげることはできないので、わたしは足音をたてないようにゆっくりと後退しようとした。
けれど――。
わたしの予想に反する勢いで、草むらから音の主が弾けるように躍りでた。
びっくりして驚きのあまり声をあげそうになり、奥歯をかみしめる。
不安のあまり一瞬だけ目をつむってしまった。
――沈黙。
おそるおそる目を開けると、音の主は思っていたよりも小さかった。
人間の男の子。背がわたしより低い。五歳ぐらいに見えるが、もしかするとあまり良いものを食べていないせいで発育が悪く、そのように見えるだけかもしれない。
格好はみすぼらしい。ポンチョのような布切れに穴をあけただけの服を着ている。今のわたしに言えたことではないが、おそらくは捨て子だろう。
今年は作物が不作だったと聞いている。
親が育てきれなくなって捨てられたというところだろうか。
わたしの姿を目にいれた少年は、うさぎのようにビクっとその場で停止した。
不安そうな瞳がわたしを見つめていた。
口元がひび割れていて、わたしと同じく喉がかわいていたのだろう。
水を求めてここまで歩いてきたのはいいが、目の前には悪魔のようなわたしが立っているのだ。
驚くのも無理はない。
わたしはできうる限りの微笑み、死ぬほど練習させられた偶像的な微笑を浮かべて、少年を手招いた。
「やだ……」
やはり、だめか。それはそうだろう。このような異形を見せつけられて脅えない子どもはいない。
悪魔的な黒い翼に目をやって、わたしは陰鬱な気持ちになる。
しかし、このまま放っているわけにもいかないだろう。少年はどう見ても飢え死に寸前で、わたしよりもさらに庇護を必要としているように見えたからだ。なんとかしなければならないと思った。
少年が逃げ出さないことを祈りながら、わたしはゆっくりとした歩調で湖に近づく。そして手でひとすくい。
両の手でつくった器を少年の前に差し出す。
「その水飲んだら、仲間になれって?」
わたしは首を振った。もちろん否定の意味だ。
水をこくりと飲みこみ、安全だと主張する。
少年はいぶかしげな表情になりながらも、渇きを我慢できなかったのだろう。湖に近づいていった。わたしは少し離れたところで見守っておく。
ずいぶんと長い時間をかけて、湖のふちにたどり着き、わたしのことをちらりちらりと気にしながらようやく水を口に含んだ。
最初は恐怖のためかちびちびと飲んでいるようだったが、すぐに安心したのか、ごくごくと喉を鳴らして飲み始めた。
渇きが消えて、すこしは回復したのか、少年のわたしに対する警戒も緩んだように見える。
わたしが手招くと、今度は警戒しながらもヨタヨタと近寄ってきた。
いい傾向だ。
わたしは少年を教会まで誘った。
「悪魔なのに、教会に住んでるの?」と少年が言ってきたので、さすがに苦笑するしかなかったが、それでもとりあえず逃げ出す心配はなさそうだった。
それからわたしは、教会の裏でハトが何匹か群生しているのを見つけた。ほとんど人間と接したことがなかったのか、緩慢な動きしか見せなかったので、わたしでもどうにかつかまえることができた。
そして、わたしはハトを殺した。
躊躇がなかったかといえば嘘になる。
正直なところ、殺すという行為ははじめてだったので、それなりにショックを受けたが、それでも飢えをしのがなければ自分が死ぬし、しかもわたしには少年を庇護しなければならないという使命感のようなものが芽生えていたので、なんとかやりきることができた。
生のままというわけにはいかないだろう。どうするか。
「よければ、火をつける道具ぐらいは貸してあげようか」
驚いて振り返ると、そこには森の影に隠れるようにあいつの姿があった。
昼間だからと油断していたが、別に夜昼関係なく現われるらしい。ただ陽光を嫌っているらしいのはなんとなくわかる。
「まあ、日光が嫌いっていってもそれは人間の好き嫌いのレベルといっしょだよ。そんなことより、火をつける道具持ってないでしょ?」
持ってないが、おまえに力を借りるつもりはない。
「そう。別にいいよ。聖なんたらちゃんじゃなくて、あの子に貸すからね」
少年のことか。
悪魔は楽しそうに頷いた。
あの子に手をだすな。
「まあ直接的に何かをすることはないよ。むしろ逆さ。彼に死んでもらったら困るんだよ、僕としてもね」
どうしてだ?
人間はただの石ころにすぎないのだろう。
「もちろん、そのとおり。しかし、彼はただの人間ではない。簡単なことさ。彼はね、実は悪魔の子なんだ」
適当なことを言うな。
「嘘かどうかは君には確認しようがないだろう。教えてあげるよ。信じるか信じないかは君次第。彼は成長すると立派な悪魔になるんだ。そして君みたいなかわいい女の子をいじめて遊ぶのが大好きな悪魔になるだろうね。君がもしも神の子どもであるというのならさ。彼を殺したほうがいいよ」
それこそ欺瞞の証だ。
どうして悪魔が悪魔を殺させようとする。
「悪魔にとっては、仲間ですらどうでもいいんだよ。究極的な個人主義の社会だからね。他人がどうなろうと知ったこっちゃない。それでもまわっていける。それでも生存が可能なほどに強靭な体制なんだよ。なにしろ無限に等しい世界に散らばっているのでね」
言葉をどう尽くしたところで、所詮、悪魔との会話は成り立たない。
わたしは少年のことが気になって教会に舞い戻った。
教会で、彼は無邪気に遊んでいた。手に持っているのはよくわからないが四角い細長いガラスのようなものだった。
悪魔の道具かもしれない。
「あ、お姉ちゃん」
さほど警戒心を見せずに、少年は寄ってきた。
「これすごいんだよ。さっき、知らないお兄ちゃんがくれたんだけど簡単に火がつくんだ。ライターって言うんだって」
手元をわずかに動かすと、確かに小さな炎がついた。
悪魔のマジックアイテムなのだろう。こんなに簡単に火がつくなんて、通常の自然法則に反している。
手を差しだして、持っているものを渡すように要請する。
少年はしぶしぶながらもわたしに手渡した。
すぐに、それを床に叩きつけて踏み潰した。
「なにするのさ」
少年は怒っていた。危険なアイテムだと言い聞かせたところでわかるようなものでもないだろう。
少年をなだめつつ、わたしはとりあえず散乱した瓦礫の山をどかしていって、火打ち石が落ちてないか探した。
これだけ大きな教会だから、ひとつぐらいは残っているだろうと思ったのだ。
その予測は的中した。
三十分ぐらい瓦礫の山と格闘した結果、ようやくみつけだした。
「でも、そんなのよりずっと便利だったのに」
確かに便利だっただろう。
しかし悪魔の道具を使ってどんな悪いことが起こるか予測できない。
何度か失敗を繰り返して、ようやく火をつけることに成功し、ハトを焼いて二人で食べた。少年もようやく餓死の恐怖から解放されたようで、安らかな眠りについた。
火を起こしているから死にはしないと思うが、念のため、わたしの羽で覆っていたほうがいいだろう。
あるいはわたしも人のぬくもりが欲しかったのかもしれない。
そんなわけで、少年のそばでわたしは眠りに落ちた。
☆
明け方にふと目が覚めると、少年の姿がどこにもなかった。
両腕にあったぬくもりが感じられないだけで、胸をしめつけられるような不安を覚える。こんなにもわたしは弱くちっぽけな存在だった。
わたしはすぐに駆け出して――。
「どこに行くつもりかな?」
と、そこで思いがけずやつに遭遇した。
いや思いがけずというよりはすこしは予想していたことだ。
こういうふうにわたしの心をかき乱すことに無上の喜びを感じるようなやつだ。
むしろ現れないほうがおかしいともいえる。
「それはあんまりな言い方だね。まあいいや。今日もまたかわいい聖なんたらちゃんのためにいいことを教えよう」
おまえの戯れにつきあっている暇はない。
どけ。
「いやいや。聞いたほうがいいよ」
悪魔は悪魔らしくニヤニヤと笑っている。
あいかわらずむかつく顔だ。
しかし力ではかないそうもないので、結局わたしは動けずにいた。
「聖なんたらちゃんらしからぬ言葉使いだね。さてさて、彼がいなくなってしまった理由を教えようね。なーに、単純なことなんだ。どういう理由でここから逃げ出したと思う?」
悪魔はもったいつけて、たっぷりと時間をかけてわたしを焦らすつもりらしい。
――言いたいことがあるならさっさと言え。
「もしかすると君のことが怖くなったのかな。これはいかにもな話だよね。とってもかわいい君だけど、背中の羽と瞳の色は隠しようもない異形の姿だ。夜中にふと目を覚ますと、君に抱きかかえられていて、驚いて逃げ出してしまうなんてことは考えようと思えば考えることができるよね」
その可能性は低いだろう。
第一、怖くなってしまったのならすぐに逃げ出してしまえばいい。
「そうだね。じゃあ、ふと森の中を探検したくなってしまって……。そう、これは意外にもありえる話だよ。人間を駆動しているのは頼りない理性だけではなく、ランダムで発生する気まぐれもまた人を動かす要因だからね。だから彼が急に、ふとした理由で、わけもなくふらりと森の中に迷いこむなんてことはありえる話だと思わないかい」
それも考えにくい。
少年の脅えようはわたしも知っている。
彼は慎重なタイプだ。まがりなりにもわたしに信頼を寄せてくれたなら、わたしの指示にしたがってくれるはずだ。急にいなくなったりはしない。
「確かに確かに。じゃあ彼はなんでいなくなったんだろうね。くっくっく」
笑い方がいやらしい。
爬虫類のような気味の悪さだ。
――いい加減、はっきりとしたらどうだ。
「ではズバリ正解を教えてあげよう。彼はね。家族の元に帰りにいったんだよ」
バカな。
彼は家族に捨てられたんじゃないのか。
「まあね。確かに彼は家族に捨てられた。そして君に拾われたわけだが。仮初の家族よりは本当の家族の元に帰りたいはずだよ」
それは当たり前だろう。考えるまでもない。
「しかし、彼自身もそれが不可能に近いことはよく知っているんだよ。なぜ捨てられたのか。端的に言えば、金だよ。金が足りなかった。だから彼は捨てられたんだ。本当は人買いとかに売っちゃえばよかったんだろうけどね。そういうのにもまた金がいるんだよね。どうしようもなくなって捨てられたんだ」
そういう現実があるのは知っている。
「だからね。逆に考えればわかるだろう。金さえあれば、そう、ほんのわずかなお金さえあれば、彼は家族のもとに帰れるわけだよ」
悪魔はこらえきれないというふうに口元を押さえて哄笑した。
「魔女を見つけ出したものには、銀貨十枚。これは君のいまの値打ちだ」
おまえが吹き込んだのか。
「選択したのは彼だよ。君はこのあと魔女狩りの対象になる。そして火あぶりにされて死ぬわけだ。そして彼の魂は聖性のある無垢なる魂を――つまり君を火刑台に送ることで、悪魔へと昇格する。愉快だと思わないか」
わたしはもう聞いていなかった。
このままではわたしにとっても彼にとっても非常にまずいことになりそうだ。
悪魔の哄笑を背中で聞きながら、わたしは森の中へと走り出す。
いつのまにか雪がちらちらと降っていた。
霧よりは視界はマシだったが、それでも、真っ白い空気で周りが満たされていき、視界がさえぎられていく。
思ったよりも体力の消耗も激しい。
早く見つけなければ、寒さのほうで先に参ってしまうかもしれない。
すべては時間との戦いだ。そうであるのに、わたしといえば視界に頼るだけの最悪に効率が悪い探し方しかできない。
向こうが仮に悪魔の言うようにわたしを告発しようとしているのだとすれば、わたしから身を隠そうとするはずで、そうだとすれば、彼を見つけるのは至難だ。
いや、その思考は危険だ。
いつのまにか悪魔にまるめこまれている。
悪魔の言うことはすべて虚偽だと考えていたほうがいい。
だとすれば……、わたしは彼を信じて、彼を呼ぶべきなのかもしれない。
声を発して、彼を呼ぶ。
それは同時にわたしの信仰にひびをいれることになるが、教義には生命を大切にすることも書かれてあるから、要は優先順位の問題だった。
わたしはどうすべきなのだろう。
このようなとき、いつもなら与えられた指示どおりにうごけばよかった。
いまは自分ですべて決めなければならない。
決めることは――選択することはこんなにも苦しいことなのか。
吐く息から力が抜けおちていくのを感じた。
真綿のようなふわふわとした雪が澄空に舞っている。
ヤバイ。本当に時間がなさそうだ。わたしでさえ、この調子なら、小さな身体のあの子はもっと体力を失っているに違いない。
意を決した。
「あ、あー」
はじめはかすれるような声。
長い間使ってこなかった喉は思ったような音を出せない。
それでも、おなかに力をいれると徐々に発生できるようになってくる。
花が開くようなスピードで徐々に。
わたしは走りながら、声にならない声で叫んだ。
がむしゃらだった。
少年の名前も知らないから、ただひたすらに『わたしはここにいる』とだけ叫び続けた。そうするしかなかった。
やがて澄んだ湖のそばで少年の姿を見つけた。
安堵のため息で、わたしは体中の力が一気に抜けるのを感じた。
「どうしたの?」
と。わたしは祈るような気持ちで聞いた。
少年が何を思ってここまで来たのか、そんなことを聞くつもりはなかった。
けれど、少年の方はそうではないらしかった。
不審と不安の表情になって、あとずさっている。
沈黙の存在がいきなり声を発したからだろうか。それとも悪魔が言うように、少年はわたしを本当の悪魔だと思いこんで?
「だいじょうぶ、だから」
「なにが大丈夫なんだよ。お姉ちゃんは僕を殺すつもりなんだ!」
「そんなことはない。あの男に何を吹き込まれたかわからないけど、そんなことしないよ。だって、わたしはこう見えても聖職者だから」
少しずつ彼に近づいて間合いをつめていく。
からまった糸を解きほぐすように……。
ゆっくりと距離をつめていく。
相手はこちらをじっと見つめていた。
やがて指先が触れた。
あとはただ抱きしめるだけだった。
――よかった。
「いいや。よくないよ。君はこれから彼を殺さなければならない」
背後には悪魔の気配があった。
しかし姿はどこにも見えない。
雪化粧された地平のどこかに潜んでいるのかもしれない。
「ほうら。聖騎士どもがやってきたぞ。おまえを殺すためにな」
悪魔の声色が変わった。
わたしは言う。
「おまえは怖い声を作っているつもりだろうが、わたしにとってはその声のほうが虚勢を張っているように聞こえるぞ」
「いいや。事実だよ。あの炬火の群れが見えないか。おまえを蝶々のようにはりつけにしたがっている連中は五万といる。信仰を捨てて声を発したお前にはもはや身を守るべき神の恩恵はない。死ぬがいい」
「おまえはそうやって虚偽を真実であるかのように語ることしかできないんだ。いくらなんでも早すぎるんだよ。この少年がわたしと同じ足の速さだとして。どうやってそいつらを呼べるんだ。まだ半日も経ってないのに」
「はっはっは。さすがにすこしは頭がまわるらしいな。いいだろう。茶番はもう終わりだ」
悪魔はわたしの目の前に姿をあらわした。
悪魔の瞳が赤く光り、人差し指が何かを探るように空中をかき乱すと、わたしの身体は自由が効かなくなった。
「さっきからどうしたの、お姉ちゃん」
胸元では少年が困惑の表情になっていた。
彼には何も聞こえていないらしい。
そして目の前にいる悪魔の姿も見えていない。
しかし、わたしにはありありと見える。
悪魔の悪意が、抗いたい細い糸になってわたしの四肢を動かしていくのを。
動けない。うご、け、ない。
「……げて」
逃げてと声を出そうとしたが、すでに封じられていた。
「すこし予定が狂ったが、予定どおりだな。これでいい。さてやれ」
悪魔の声に命じられるがまま、わたしは少年の細い首に手をかける。
やめて!
どれだけ叫んでも無駄だった。精神的に悪魔に勝利したところで、結局物理的な力の前では無力だ。
神は不在なのか。
それともこれほどにちっぽけな存在には見向きもしないのか。
少年の首を絞める力はどんどん強くなっていく。
はじめは抵抗していた少年から力が抜けていく。
「っざけるな……」力をこめて、わたしは唯一できる抵抗をする。「ふざけるなぁ。このバカ野郎っ!!!!」
すると、驚いたことに悪魔の指先からすっと力が抜けるのを感じた。すぐにわたしの身体に自由が戻ってくる。
声に聖性があるということなのだろうか。
いや、自分にそんな力があるとも思えない。
ただ少年は、無事のようだ。それだけで十分だった。
「なぜだろうな。ここまで追いつめてもなお、おまえの声に恐怖してしまうよ」
悪魔は力弱くうなだれていた。
まるで死刑執行される前の囚人のような顔つきだった。
そのとき、わたしの視界をなにか大きなものが横切った。
わたしはアッと息を呑む。
大きな背中がわたしの目の前に立ちはだかっていた。驚いたことにその顔つきは悪魔と同じものだった。
悪魔がふたりいる?
☆
「どうかお気になさらず。僕はこいつとケリをつけにきただけでしてね。こいつが悪魔を名乗っているのであれば、そうですね。少し恥ずかしいですが、あえて名乗るとしましょう。わたしは、いわば天使ですよ」
と、そいつは名乗った。
なんのことかさっぱりわからないわたしは、ただ呆然と見守るのみだ。
「事態を完全に説明するとなると、かなり専門的になってしまうので概要のみ説明しましょう。簡単に言いまして、わたしとそこにいる悪魔と、気を失っている少年は同一の存在です。この湖の底には存在を分化させる機械が眠ってましてね。あなたに殺されるバージョンの僕は時代をめぐるなかで人間を恨んで悪魔と化し、あなたに救われたバージョンの僕は、そんな悪魔の諸行を止めるためにいろんな可能性世界を巡っているわけです」
「よくわからない」
時計のような巨大な機械らしい。
異なる時空からこの時空へと降りてきて、人の運命を分岐させるという。
正直なところ理解の範疇を超えていた。
「わからなくても大丈夫ですよ。少なくともこの世界での僕のあり方はもう決まっています。悪魔にはならない。なりようがないですよ。あれだけあなたに愛されて悪魔になれるわけがありません。したがって、悪魔よ退けです。わかったな。おまえ」
天使は悪魔に対して力強く宣言した。
「ああ、わかっているさ。この世界では確かにオレは敗北したようだ。ただ別の可能性世界では必ずオレがオレであることを獲得しようじゃないか……」
悪魔は最後まで悪魔らしくニヤケタ笑いのまま虚空へと消えていった。
それからわたしは天使に羽と瞳の色を戻してもらった。天使の羽をつけてあげようかとも言われたが、わたしは慌てて辞退した。
わたしはただの無力な人間で、天使に――天上におわすお方に救われた存在にすぎない。願わくば、わたしも誰かを救いたい。
ただそれだけだ。
そう伝えると、天使は笑いながら
「君は立派な聖者だよ。リーベルティア」
わたしは天使の口から、久方ぶりに自分の名前を聞くことになった。
雪が降っていた。
やわらかな雪。
周りの音が消えていく。
わたしは雪がしんしんと降り積もるのを見守っている。
不思議なことに寒くはない。どうやら天使の力らしい。エンセキガイセンとか言っているが、意味はわからない。わからなくても大丈夫らしい。
ただ、ひとつだけ聞きたいことがあった。
わたしの長い信仰の中で、このような問いかけを誰かに投げかけたことはない。
そもそも沈黙のみが尊ばれていたからだ。
けれど――、わたしは聞きたかった。
それはこういう質問だ。
「神さまはどこにいらっしゃるのですか?」
すると天使はわたしの手をとり、軽く口づけてこう言った。
「あなたの腕、あなたの声、あなたの笑顔。すべてが僕にとって太陽のように必要なものでした。僕にとって、あなたは神さまでしたよ」
タイトルはしょうがなかった。