壱
蒸気船の汽笛の音が鳴り響き、出港の合図をだす。黒い煙が天に昇っていくのを甲板の上で見上げているのは、軍服を着た青年である。
その青年、雛鶫呉中尉は軍帽を深く被り直しながら後ろに佇む猫柳冬治少尉に向き直る。
「今日は晴れてよかったなぁ、呉。大荒れだと、島に行けなかったかもしれない」
「猫柳……ここでは下の名で呼ぶなと言っているだろう」
「これは失礼いたしました、雛鶫中尉殿!」
猫柳は戯けたように敬礼し、それを見た雛鶫はやれやれと肩を落とす。
「時雨大佐に見られたら事だ。気を引き締めろ」
雛鶫はそれだけ言うと歩き出し、猫柳は後ろをついて歩く。
コツコツと靴が床に打ち付けられる音を聞きながら、雛鶫は船首に立つ男の元へ向かう。
その男、時雨天馬大佐は船の進行する方向に見える小さな孤島を見つめていた。
「時雨大佐、人員と武器の配備が整いました。いつでも動かせます」
雛鶫の報告にゆっくりと時雨が振り向き、表情を変えぬまま鋭い目つきで答える。
「ご苦労、雛鶫中尉。島に着くまでは待機だ」
「はっ!」
雛鶫と後ろにいる猫柳は時雨の言葉に姿勢を正して敬礼する。
「時に雛鶫中尉、今回の孤島への派遣の目的をなんと心得ている?」
急な時雨の質問に対して、雛鶫は動揺する事なく敬礼して答える。
「はっ! 今回の派遣の目的は孤島の花街の状況把握と治安維持、そして適切な商売が行われるようにする事で効率的に資金を調達できるように支援する事であります!」
雛鶫が言い終えると、時雨は頷きながら進行方向を向く。
「そうだ。やはり君は優秀だな、雛鶫中尉。今我々が向かっている孤島にある花街と言う場所は無法地帯……。我々が暮らしてきた世界の常識や法律は通用しない。よって、今回国の一部として統一することが政府の目的だ」
「はっ! 心得ております」
「それなら良い。下がれ」
雛鶫と猫柳は「失礼します」と敬礼しその場を去る。
「なぁ、呉……雛鶫中尉。お前はあの島に行ったことあるか?」
「あるわけないだろう。金持ちや要人しかいけ行けないほど大金を払わないとならないと聞くぞ」
「そうだよな〜。吉原も良いって聞くけど、あの島は異色らしい。なんでも、女同士の死闘が見られるそうだ」
「死闘?」
雛鶫は怪訝そうに猫柳に向き直る。
「あれ、知らないのか? あの島の一番の見所は闘技だ。世界でも珍しい女の闘技場があって、誰が勝つか観客が賭けをして戦いを見るのが名物なんだと」
「女の闘技なんて、そんなに面白いか? 見るほどのものになるとは思えないが」
「それが、噂だと侍同士の剣術を見るより面白いらしいぞ。っと、部下たちに島についてからの動きを指示しないと。ほら、早くいくぞ!」
「……あぁ」
雛鶫は納得できないような、苛立ちにも見える表情を切り替えた。
***
島に着き、船を降りるとそこには立派な港が築かれていた。
雛鶫たちが乗ってきた船以外にも多くの船が停泊し、異国人の姿も確認できる。
「花街しかない孤島にしては、随分立派な港があるんですね」
雛鶫は船を降り、先に地上に降りていた時雨に話しかる。
時雨は振り返らずに答えた。
「ここは他国からの客も多い上に掃いて捨てるほどの金があるからな。これくらいの港を造るのは造作もないだろうな」
時雨は後ろを振り返り、部下に点呼を取らせる。
「時雨大佐! 全員の下船を確認しました!」
猫柳が敬礼し、時雨を先頭に花街の入り口まで進む。
時雨は入り口に差し掛かり、全員を振り返った。
「これより、我々は政府の指令によりこの孤島の花街の治安維持に徹する! 本日は花街について知ることを目的とし、これから闘技場に向かう!」
「はっ!」
時雨の指示に全員が揃って敬礼する。時雨は表情を変えることなく前進を始めた。
***
港から花街の中心へ続く大通りは、孤島とは思えないほど活気付いていた。今や煉瓦造りの建物が蔓延る東京とは違い、朱色を基調とした遊郭が建ち並んでいる様子は、一昔前の江戸や京都を思い起こさせる。
昼間でも人通りは多く、軍服を着た軍人は悪目立ちしていた。大通りの中心を歩いていることもあり、こちらを睨みながら客の男や遊女たちがヒソヒソと小声で話している。
「なぁ、雛鶫中尉。煉瓦造りの建物ばかり見てたから、木造造りの建物は懐かしいな」
猫柳が後ろから話しかけ、全く同じことを思いながらあたりを見回していた雛鶫はバツが悪そうに咳払いをし、話題を変えた。
「猫柳少尉、花街というのは夜に見世を出すんじゃないのか? 昼間なのに随分人が多い」
猫柳は雛鶫の質問に対し、「知らなかったのか?」と続ける。
「ここの花街は吉原なんかとは違って、女を売り物にしているわけじゃないんだよ。ここにくる客は遊女の闘技が目的で、見世は飲み屋と宿屋をしてるって感じだ。遊女を指名することはできるけど、闘技で人気のある遊女は高いらしいぞ」
一通り猫柳が説明し終えると、雛鶫は違和感を感じる。
「おい、猫柳。何故お前はそんなにこの花街に詳しいんだ。お前のことは幼い頃から知っているが、花街に来たことはないだろう?」
猫柳は、「それは……」と言いながら手を頭の後ろに持って行く。猫柳が困ったときにする昔からの癖である。
「実は前から興味はあってな……。此処に来たことのある友人から話をよく聞いていたんだ」
それを聞いた雛鶫は溜息をつきながら軍帽を深く被り直す。
「まぁ、此処に就くことになったなら、その知識も少しは役に立つだろう。くれぐれも仕事であることを忘れるなよ」
猫柳は怒られずに済んだために安堵し、「もちろんだ!」と大きい声で返事をした。