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ノッカー

作者: 四木高秀

 最近部屋が騒がしい。

 別に同居人がいるわけではない。私は現在腐れ大学生の一人暮らし二年目だ。淡い桃色の色恋沙汰などもなく、今となっては高校卒業と同時に袖にした恋人がたまらなく愛おしい。

 ポルターガイスト等のひどく抽象的なものが原因でもない。実のところを言えば、私が住んでいるアパートは幽霊屋敷さもありなんといった風貌で、この住まいでよくぞ金を求めてくるものだと大家の業の深さには今でも戦慄している。外見だけで判断してはいけませんと道徳の時間に優しい小学校教師は教えてくれたものだが、しかし幽霊屋敷はそのまま幽霊屋敷であり、中に住んでいる人々の有様もゾンビのそれで、ここに住めば生ける屍になってしまうと半ば信じ込んでいた。少なくとも、齢二十にもなる女性の一人暮らしには適していない事は確かだ。しかし、雨しのぎには十分な機能と楽のできる通学距離、そしてなによりリーズナブルな七畳間を見せられて、私は思わず判子を押してしまったのだ。住んでみればこれがなかなか、雨水は漏れない。ゴキブリは出ない。隣人はうるさくない。幽霊は出ないで、意外と住みやすいものだった。大枚をはたいて買ったお洒落なソファは、この部屋にこそ似合わないが住み心地を一層良くしてくれる。

 私はそのソファの上で寝返りをうつ。現在深夜零時。明日は一限がある。寝なければいけない時間である。しかしガタガタと部屋は鳴く。先も言ったとおり隣人がドンちゃん騒ぎを行っているわけではない。夜の営みをしようにも、このアパートに女性を連れてくる猛者はおらず、なんのルールもないのだが皆が自然と女子禁制の体制を取っている。私は別である。

 ここに、騒ぐ女は来ない。来るのは、男だけだ。私は、帰っているだけだ。

 では何故こうも煩いかといえば、なんてことはない。拍子抜けするような理由である。このアパートはいくら雨露を凌げるからといって、しかしその骨格はボロボロだ。人も家も時が経てば肉が削げ、骨が脆くなっていく。大きなノッポの古時計ではないが、この家も寿命間近なのは確実である。その寿命に追い打ちを掛けるように、現在、春の暴風がアパートをノックしている。ノックというより、右ジャブだ。左のストレートだ。一陣の風がアパートを襲うたびに、アパートはその侵入を許し、通り抜け、結果、緩くなったドアや窓がガタガタと鳴る。それこそノックのように、ゴンゴンと鳴る。アパートの建て替え予定を、一日一日と近づけていく。

 透明な来訪者が我が家をノックするたびに、私の睡魔は一人二人と打ちのめされていく。深夜零時にして、そのまぶたはヘリウムガスよりも軽く、上へ上へといくばかりだ。音だけならまだいい。この家、もはや地震と何ら変わり無い揺れを見せている。揺籃に身を預ける赤ん坊へとその意識をシフトさせようにも、幼少期など殆ど覚えておらず、疑似体験は失敗しこのまま家が崩れて死ぬのではないかという不安へと戻される。

 いやいや、夜の寝床で考え事をしてはならない。大抵それは良い方向へと向かうことがないのだ。私は無理矢理にでも目を閉じる。瞼の裏の肉皮を視界に写しつつ、そうしてもう四桁を超えた羊を再度数えなおす。零、一つ、二つ、三つ、四つ……。

 十七……十八……二十……二十……二十……。

 木々のざわめきと得体の知れない何かが転がるその音が、私に揺れを予感させる。

 直後、今までとは違う強烈な一撃が、ぐおんとアパートを揺らした。会心の左ストレートだ。借金の催促を彷彿とさせる轟音が鳴る。パン、と風船が膨れたような、もしくは破裂したような音を扉共々が立てる。私の瞼は磁石のように反発した。最後の睡魔が、やられたのだ。

 私は思い切り身を起こす。叫び出さなかったのは、二十年の人生が作り上げた温和な性格のおかげだろう。身を起こした勢いをそのままに、髪はとかず、服は着替えず、メガネはつけず、靴下を履かず、サンダルともスニーカーともわからない靴に足を突っ込み、財布と鍵と携帯電話に留守を頼んで私は家を出た。


 外は思いのほかいつも通りだった。少なくとも、家の中にいるよりも静かだ。音も、動きも。木々は揺れ、偶に転がるバケツは砕け、家々は窓ガラスで喉仏の真似事をしているが、それでもこのコンクリートの上の方が一万円のソファよりも安眠できそうだった。

 私は、見慣れた道を歩いていく。等間隔に置かれた街灯が月に対して出過ぎた真似をする。ここまで明るくして、一体何を映そうというのだろう。不審者か? 善良な通行人か? 幽霊か? 何を対象としているのか、現代の人々は答えられるのだろうか。車と答えるのだろうか。道路へと飛び出す猫だろうか。自分自身だと、そう答えるのだろうか。

 しかし現在、その街灯が映しているのは蛾だ。蛾だけだ。四匹五匹がヒラヒラと休まず羽を動かし、無闇な発光によって生まれた無駄な熱との攻防戦を繰り広げている。今晩に限れば、そこに慎ましくない夜風が時折横槍を入れている。

 少し歩いて帰ろうと思っていた。近くには線路があり、そこを超えた所にコンビニがある。コンビニで、適当に七百円程出費して帰ろうと、そう思っていた。しかし、警報の鳴ることのない線路を超えた所で、私はある物を目にして足を止める。

 箱だ。漫画や小説、そういったフィクションの世界にしかないようなコテコテなダンボール箱。街灯が照らす明かりの中で、少しも動かない所を見るとどうやら中身があるらしい。近寄ってみると、案の定「拾ってください」の文字が見えた。

 中身は赤ん坊だ。この暴風の中、バスタオル以外何も無い、金を取る大家すらも存在しない小さな一室で、赤ん坊は寝ている。揺れるはずだ。音を立てるはずだ。しかし、そういった苦労を微塵も見せない寝顔は、この上ないほど安らかで、ただ一つ立てる寝息が、恐ろしいことにこの世界の何よりも大きなもので、静かなものだった。

 私はしばらく足を止めてその赤ん坊の寝顔を眺めた。こうして、この場所で眠る彼は、どれだけ幸福なのだろう。思わずにはいられなかった。アンケートを取るまでもない。私立大学に通い、お気に入りの家具で眠れぬ私と、ダンボールとバスタオルを渡され暴風に晒され眠り続ける赤ん坊。どちらが幸せか。

 聞くまでもない。

 ズズ、と箱が動く。風に押され、転倒しないのが疑問に感じる程の勢いを出しながら、街灯の明かりから外れていく。ああして、赤ん坊は流されていくのだろうか。元は、別の場所で拾ってもらうのを待っていたのだろうか。歩くことのできない赤ん坊は、他にすることもない以上寝るしか無いのだろう。ズズ、ズズ、と、箱が動く。赤ん坊は、一向に動かない。私も動かない。この場で、自分から動こうとするものは一人もいなかった。

 徐々に徐々に明かりから外れたその箱は、数分かけて暗闇へと投げ出される。街灯の明かりの中には、私一人となった。ここからでは、箱の中身が見えない。光に慣れた私の目が、月明かりに照らされた赤ん坊を受け付けない。

 急激な睡魔が私を襲った。私は来た道を引き返す。透明なノッカーが鍵のかかっていないドアを叩く家へと、帰ることにしたのだ。


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