プロローグ
コトリ
湯気を立ち上らせる、最後の一品をテーブルに置く。
「…できた」
目の前には、自らが丹精込めて作った豪勢な料理の数々が、ひとつ残らず胸を張って鎮座している。じわり、と達成感が身体に染み、思わず会心の笑みを漏らした。
料理にはもともと自信があるけれど、今回のはそれを差し引いても格別のものだった。
料理好きの自分が、腕を存分に奮って作ったそれは、一つ一つが輝くような、いかにも美味しそうな匂いを立ち上らせている。
色とりどりの料理は、まさに宝石さながら。
疑う余地のない、最高の出来だった。
時計を見る。5時25分。そろそろ駿が帰ってくる。
後は待つだけ、かな。
「あなた、出来たわ。」
「ああ…って、凄いな」
軽く目を見張る夫を見て、胸中にあった僅かな不安も吹き飛んでしまった。
しかし、部屋で明滅するテレビを見て、自分は眉を寄せた。
『…より、2025年に韓国を併合した北朝鮮はアメリカの経済封鎖と軍事介入を受け、国内の疲弊がより一層深刻な状況に陥っています。また近年の連続した異常気象によって、年間の餓死者は100万人規模にまで近づいており…』
自分の息子の誕生日になんと禍々しい。
「……あなた」
「ん?」
怪訝な顔に気付く素振りもない。
『…そうですね。しかし北朝鮮はノドンというミサイルを300基近く日本に向けていましてね、その上、核や化学兵器などという大量破壊兵器を非常に多く保有していまして、日本だからといって決して安心はできないわけなんで…』
テレビの中では、評論家が、行ったことも無いであろう国の事を訳知り顔で話している。
「こんな日までそんな番組見ないでよ」
本当に軍隊ものが好きなんだから。
「"こんな日"って、どうせ毎年恒例だろ」
「……記念日を大切にしない男は、嫌われるわよ。」
「…」
彼は苦笑いをして、チャンネルを変えた。その顔ににっこり笑いかけると、彼は参ったなという表情で目を背けた。
どうせ毎年恒例、と言いつつも、今日は平日。ちゃっかり会社を休んでくれている。
その時、ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。
自分と彼は互いに目配せをし、クラッカーを手に取った。
今日、7回目の誕生日を迎えた我が子へのサプライズ。
誕生日おめでとう、駿。
夕暮れの赤い光が眩しい。
吹く風にはほんのりと桜が香っている。
路傍の一輪のタンポポが、丸くて黄色い花を太陽さながらに輝かせつつ、桜の香りに首を振っている。
「じゃーな、駿。」
「また明日な」
「誕生日おめでとー!」
サッカーボールを脇に抱えながら、友達の声に手を振る。
やがて友の姿も見えなくなると、年に一度の大イベントに胸を踊らせつつ、家路についた。
この春、駿は小学2年生になった。
何の変鉄もないいつもの帰り道も、今日はいつもと違う道に見える。
花の香りが香しい。春風に背を押されるように、駿は足を速めた。
家までは相当の距離があった。
一歩一歩が焦れったい。それだけに、踏み出すたびに、心が高揚した。待ちきれない思いから、あれやこれやと想像が膨らんで止まらない。
プレゼントは何だろうか。母さんと何を話す?父さんにも遊んでもらいたい。
母の優しい笑顔が目に浮かび、ついつい、顔がにやけた。
あっという間に家に着いてしまった。
急く心が成した現象だ。
家の戸口が見えたとたん、期待のあまり駿は駆け出した。
そのままの勢いで、戸に手をかける。そして、勢いよく引いた。
「ただいま!」
………
あれ?
「父さん?母さん?」
テレビの音は聞こえる。しかし、それだけだった。
予想に反する静寂に戸惑いつつも、靴を脱ぎ、廊下を曲がり、居間に続く戸に向かう。
居間を目前にして、二階に続く階段前を通りすぎたとき、二階から物音がした。
「母さん?」
呼び掛けても応答は無い。
頭上に疑問符を浮かべつつも、駿は居間に続く戸に手をかけた。
ギィ、と音をたて戸が開く。
ゴン
ピシャリ
居間に入った途端、足に球体の重いものが当たってごろりと転がった。水音と共に、靴下が生暖かく濡れる感触。
当然、下を見る。瞬間、頭の中でバリッと音がした。
駿はもう、動けなかった。
眼前のものが信じられなかった。
真っ白い靴下は深紅に染まり、球体のものは…
「………う……ぁ…」
母の、無惨な姿だった。
「…うそ…かあ…さ…」
今まで全く気にしなかったテレビの音が、急に現実感を伴い、駿の意識に迫る。
『…繰り返します。先ほど、北朝鮮より実質的な宣戦布告があり、すでに60を上回るノドン弾道弾が日本に向け発射されました。また、各地で朝鮮人によるものと見られる民家、政府機関、軍事基地を狙った殺人事件が非常に多く確認されており、これにより、対空ミサイルPAC-3の展開に大きな影響が…』
ニュースの意味は分からない。けれど、駿は本能的に全てを悟った。
自分の側には、もう、誰もいないのだと。
そして、父と母を殺したのは、朝鮮人なのだと。
立ち尽くす駿の足元で、母さんは、優しい笑顔をしていた。
階段を踏む音が背後に響く。
漆黒の駿の瞳孔に、赤い光が灯った。