弟視点3
彼から視線を逸らすようにうつむく。
「ごめんなさい」
姉は事故で亡くなった両親のことを思い出したらしい。
口元を手で覆い、青白い顔で震えている。
彼はそんな姉を冷たく見下ろしている。
彼の心には、最早過去の両親の死を悲しむ気持ちはなかった。
彼にとっては目の前に残された唯一の家族、姉の命をどうしたら守れるかが最優先事項だった。
どうしたら姉の意志を変えることができるのか。
どうしたら姉が自分と一緒に逃げてくれるのか。
そればかり考えていた。
恐らく姉は、このまま彼が何度一緒に逃げようと言っても、弟の迷惑になると断るばかりで言うことを聞いてくれないだろう。
一度決めたらてこでも動かないことを、弟はよく知っていた。
ならば姉の弱いところ突けばいい。
姉の気持ちに寄り添うふりをして、意見を変えさせればいい。
こちらに絶対に従うような選択肢を与えればいい。
弟はそう考えた。
「そうだよ。僕は父さんや母さんを守りたかった。だから軍学校へ進学する道を選んだ。軍学校へ行けば、父さんの命を狙う奴らから、みんなを守れると思ったんだ」
彼女の顔は青を通り越して蒼白に近かった。
弟は淡々と話し続ける。
「僕の話を聞いた父さんは賛成してくれた。頼りにならない警察に代わって、母さんや姉さんを守って欲しいと言っていた。お前が軍に入隊して、上の地位に就くことによって、いずれはこの国が良くなっていくことを望んだんだ」
彼は姉が見えていないことがわかりつつ、悔しげに表情をゆがめる。
「でも、駄目だった。僕がそういった力を手に入れるより先に、欲に目のくらんだ叔父さんが父さんと母さんを殺すのが早かった。僕は何もできなかった。父さんと母さんが叔父さんの手に掛かって死ぬのを見ていることしか出来なかった」
弟は震えている姉の顔をのぞきこむ。
「姉さんに僕の気持ちがわかるかい? 父さんと母さんの命が奪われて、その上に唯一生き残った姉さんの命まで奪われようとしている。僕の悔しさが姉さんにはわかるのか?」
弟は姉の肩に手を置く。
姉の肩がびくりと跳ね上がる。
弟は姉の顔を正面から見据える。
「僕は叔父さんを絶対に許さない。たとえどんな手を使ってでも、叔父さんへの復讐を成し遂げてみせる。それがひいては死んだ父さんと母さんの無念を晴らすことになるんだ」
姉はただただ震えている。
弟は口元をゆがめ、笑う。
それは普段ならば家族の前では絶対にしない、獲物を狙う獣のような獰猛な笑みだった。
「もしも姉さんがこのままここに留まると言うのなら、僕はすぐにでも叔父さんの元に行くよ。姉さんが殺されるのを黙って見ているくらいなら、せめて叔父さんに一矢でも報いたいんだ」
姉はゆっくりと首を横に振る。
か細い声でささやく。
「や、やめて」
青くなった唇をかすかに動かす。
「そ、そんなことは、やめて。せっかくあなたは生き残ることができたのに。こうして無事な姿でわたしの前にいるのに、無暗に命を捨てようとしないで。あなたの人生はこれからでしょう? 軍学校を卒業して、父さんの期待に添うんじゃなかったの? 偉い人になって、この国をより良くするんじゃなかったの?」
姉は震える手で肩に置かれた手に触れる。
弟の手に自分の手を重ねる。
「お願いだから、そんな無茶なことはやめて。あなたが命を落とすことは、死んだ父さんも母さんも望んでいないわ。わたしは、大丈夫だから。自分の命を粗末に扱わないで」
姉はすがるように弟に訴える。
弟は薄ら笑いさえ浮かべて、そんな姉を見つめている。
「その頼みはたとえ姉さんであっても聞けない。姉さんには姉さんの考えがあるように、僕には僕の考えがある。姉さんがあくまでここを動かないと言うのなら、姉さんを守るためにも僕は叔父さんのところへ行く。たとえ命を失うとわかっていても、僕にとっては両親の復讐が一番重要なことなんだ」
肩から離れようとする弟の手を、彼女は必死につかもうとする。
その手を離したら、永遠に弟と離れ離れなってしまうような不安に突き動かされて、彼女は手を伸ばして弟の姿を探した。
「や、やめて。行かないで」
彼女は必死に叫ぶ。
少し離れた場所で弟の靴音が聞こえる。
「ま、待って、待ってよ」
彼女はベッドから立ち上がり、弟の後を追いかける。
おぼつかない足取りで、手探りで病室の様子をうかがう。
目が見えないためか何もないところでつまづき、つんのめって床に倒れる。
靴音は病室の扉の前で立ち止まったようだった。
「待って、――。わたしを一人にしないで」
両手をついて起き上がった彼女は、病室の扉に向かって叫ぶ。
見えない両目から涙がこぼれる。
両手で顔を覆い、子どものように泣きじゃくる。
弟は病室の扉の前で佇んでいた。
小さい子どものように床に座り泣いている姉の姿を黙って見下していた。
両親の死と光を失ったショックのせいで心が弱っている彼女には、これ以上家族がいなくなるのに耐えられなかった。
両親の死から後、彼女はちょっとした物音にも驚いたし、夜の闇を何よりも怖がった。
普段弟の前では気丈に振る舞っているが、本当はまだ両親の死から立ち直れていなかった。
行かないで、行かないで、と同じ言葉を繰り返す姉を、弟は憐みの表情で見下ろしていた。
ややあって、弟は泣きじゃくる姉に近寄る。
「姉さん」
床に膝をつき、姉と目線を同じくする。
「――」
姉は弟の名を呼び、その首に抱き着く。
「よかった、思い留まってくれたのね」
彼の耳元で姉のしゃくり上げる声が聞こえてくる。
彼は姉の背中に手を回し、そっと抱きしめる。
姉の耳元にささやく。
「姉さんが僕の死を望まないのと同じように、僕も姉さんに死んで欲しくないと思ってるんだ。それはわかるね?」
今度は姉は素直にうなずいた。
「うん」
彼は諭すように話し続ける。
「父さんと母さんの死が悲しいのは僕も同じだし、叔父さんが憎いのも姉さんと同じ気持ちだと思う。僕だって姉さんに死んで欲しくないし、姉さんだって僕に死んで欲しくないだろう? その気持ちと同じだよ」
姉は涙声で小さく答える。
「うん、うん」
彼は幼子をあやすように姉の背中をさする。
「だから、今二人にとって一番いい方法は何なのか、二人とも生き残る道は何なのか、僕は考えたんだ。それは僕と姉さんが二人でこの病院から逃げ出すことだ。叔父さんの手の届かないところまで逃げ出せば、姉さんは命を狙われなくなるし、叔父さんも追っては来れない。僕も姉さんも生き延びることができる」