誰かに頼ることなしに、人は一人では生きていけない1
「オリガ、お前に話しておきたいことがある」
家族が交通事故に巻き込まれる前日、姉は夜に父親の部屋に呼び出された。
父親は書斎の机に向かい、書類に目を落としていた。
薪の燃える暖炉の赤い炎が部屋を照らしていた。
姉の立っているところからは影になっていて父親の表情が見えなかったが、声音から真剣な様子が聞き取れた。
「何でしょうか?」
姉は青い瞳で父親と部屋の様子を眺めていた。
その頃は、まだ目が見えたため、部屋の様子を克明に記憶している。
どうして姉一人だけが呼び出されたのか、母親に聞かせたくない話なのか、姉には何となくその理由がわかった。
財閥の話の時は、父親は母親や弟を同席させず、使用人を人払いして、こうして書斎に姉だけを呼び出した。
かつて母親が社交界の陰口に耐え切れず、精神を病んだ時も、父親は姉だけを呼び出し、話をした。
母親の代わりに、まだ幼かった姉が父親と共に社交界に出るようになった。
出来る限り母親に負担を掛けないように、ゆっくり静養してもらえるように、二人で努力した。
そのおかげで母親の病も徐々に良くなり、普通に笑えるようになっていった。
父親は固い口調で話す。
「私が財閥総帥になってずいぶんと経つことは、オリガも知っているだろう? 私は近々財閥での総帥の地位から退こうと思う。それを機に、財閥の人員の若返りを図りたい。ついては、次期総帥を指名し、オリガには彼の手助けをしてもらいたいと思っている」
姉は父親の財閥総帥から離れると聞いて、驚いたが、次期総帥の手助けをするように言われ、もっと驚いた。
不安げに視線を彷徨わせる。
「わたしが次期総帥の手助けを、ですか? わたしなどに、それが務まるのでしょうか?」
父親は穏やかな声で話す。
「大丈夫だよ、オリガ。私も総帥の地位から退いたと言っても、財閥のことは誰よりもよく知っているつもりだからね。オリガと共に、次期総帥に就いた彼を手助けするつもりだ」
それを聞いて、姉はほっと安堵の息を吐き出す。
「そうでしたら、わたしも安心です」
姉の顔に穏やかな笑みが広がる。
「でも、父様はどうして突然、わたしにこのような話を? それに父様は誰を次期総帥に指名するつもりなのですか?」
姉は父親を見、首を傾げる。
父親は困ったように笑う。
「オリガ、父さんは長い間財閥総帥の地位に就いてきたが、それは決してきれいな事ばかりして来た訳ではないんだ。時には汚いこと、人を罰したり、騙したりしたこともあった。父さんはそれがいい加減、嫌になったんだ。財閥は巨大で、この国の経済を左右するほどの力を持っている。良い面も悪い面もあり、父さんはその悪い面を少しずつでも直していきたいんだ。けれど、父さんが財閥総帥の地位に就いていては、色々な制約があって、それが出来ない。だから、父さんは別の人に財閥総帥の地位を譲り渡して、財閥の悪い面を告発することに決めたんだ」
一般的には内部告発、と言うのだろうか。
姉には黙って聞いていることしか出来なかった。
父親の話を聞いて、姉は静かに答える。
「わたしは、父様に従います。父様が正しいと思ったことならば、きっとそうなのでしょう。わたしにあまり難しいことはわかりません。けれど、父様の選ぶ方ならば、きっと確かな人だと思います」
燃え盛る暖炉の炎に目を向ける。
父親はふっと息を吐き出す。
「いつもお前には迷惑を掛ける。私も出来るだけ、家族に迷惑を掛けたくないと思ってきたが、オリガにだけは本当のことを話しておきたかった。オリガがそう言ってくれて安心したよ。これで私は財閥総帥の座を退くことが出来る」
父親は書斎の椅子から立ち上がる。
机の上の書類を持って来て、姉のそばまで歩いてくる。
「それともう一つ。これを見ておいて欲しい」
父親は姉に書類を手渡す。
姉は書類の文面にざっと目を通す。
数字と文字がびっしりと書かれている。
「これは?」
「これは、私がこれからしようとしていることだよ。告発の文書や証拠品は、すべてこの場所に保管してある。もしも私に何かあったら、オリガが私の代わりにこの場所に行って、私の成すべきことを受け継いで欲しいと思っている」
「父様、そんな不吉なことをおっしゃらないで下さい」
姉はぴしゃりと答える。
不安な気持ちになる。
「父様に何かあったら、わたしも母様も弟も、どうすればいいんですか? そんな悲しいこと、冗談でも言わないで下さい」
父親は暖炉の火を見たまま、笑っている。
「もしもの時は、もしもの時さ。その時は、母さんのお姉さんである隣国にいる伯母さんを頼りなさい。きっと良くしてくれるはずだから」
父親は泣きそうな顔をする姉の頭を撫でる。
優しく語りかける。
「この地図も、伯母さんに預けておこう。お前が伯母さんの元を訪ねるようなことはないとは思うが、念のため、な」
姉はその時の父親の笑顔を今でも忘れていない。
その笑顔の裏に、どれほどの辛い選択があったのか、その時の姉には気付けなかった。
父親がその時やろうとしていたことも、目指した道も何もわからないまま、父親は死んでしまった。
彼が目指した財閥の姿や、誰を次期総帥として指名したかったのか、それも口にしないまま逝ってしまった。
命を取り留め、視力を失った姉は、何をすればいいのか、誰を頼ればいいのか、まだわからないでいる。
その時、父親から無理に聞いておけば良かったのかもしれない。
そうすれば、次期総帥を誰か、誰を頼ればいいのか、父親がやろうとしたことが何なのか、誰が父親の命を狙っているのか、わかったかもしれない。
そうすれば、弟一人に頼ることなく、次男を巻き込むことはなかったかもしれない。