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姉と弟  作者: 深江 碧
二章 弟視点
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弟視点2

 そこで軽く頭を振り、弟が家に引き取られてから一緒に過ごす間に長年考えてきたことを素直に述べた。

「わたし、父さんと母さんにあなたを孤児院から引き取ると聞いた時、ある程度の心構えをしていたの。姉として、わたしに出来る限りのことをあなたにしてあげようと。もちろんわたしも良い子とは言えなかったから、あなたと喧嘩することやおもちゃを取り合うことももちろんあるだろうと覚悟していたわ。成長したらきっと姉弟同士で口も利かなくなったり、憎まれ口ばかり叩くこともあるだろうな、と思ったりもしたわ。でも、あなたと一緒に暮らすにつれて、その考えが杞憂であることがわかったの。あなたは完璧に近いほど良い子だった。父さんと母さんの言いつけは素直に従い、駄目と言われたことは絶対にしない。それはわたしに対してもそうだった。わたしがあなたのおもちゃを取り上げても、あなたに八つ当たりをしても、あなたは文句ひとつ言わなかった。ただ黙って、人形みたいにうろんな目でわたしを見つめているだけだった。今だから言うけれど、小さい頃、わたしはあなたが怖かった」

 彼女はそこで言葉を切り、小さく息を吐き出した。

 弟の様子をうかがったが、握った手を通しても弟の心の動きはわからなかった。

 ただ黙り込んで、目の前に立ち尽くしていることだけはわかる。

 彼女はベッドに腰掛けたまま話し続ける。

「でもね、ある日そんなあなたを見直すきっかけになる事件が起こるの。父さんと母さんと一緒に旅行に行ったとき、わたし達、迷子になったことがあったでしょう? あの時のことよ」

 彼女はその時のことを思い出す。

 あの時、弟は不安になる彼女の手をずっと握っていてくれた。

 泣きそうになる彼女を励まし、元気づけてくれた。

 大丈夫だと言い聞かせて、彼女を両親の元まで届けてくれた。

 幼い彼女が、その時どれほど励まされたことか、弟をどれだけ頼もしく思ったことか、おそらく彼は知らないだろう。

 彼女は柔らかく笑う。

「あの時、わたしはあなたを見直したの。あなたはとても優しい人なんだと。そんな怖い人なんかじゃ全然ないと。確かにぶっきらぼうで、感情表現が苦手な部分もあるけど、本当はとても心の温かい人なんだと、わたしはその時思ったの」

「僕は、優しい人間なんかじゃない」

 弟はぴしゃりと言い返す。

 静かだが、鬼気迫る声だった。

「姉さんは勘違いをしている。僕は優しい人間なんかじゃない。温かい人間でもない。確かにあの時、迷子になった姉さんを父さんと母さんの元に手を引いて連れて行ったのは僕だけれど、それだって父さんと母さんに怒られるのが嫌だったから。父さんと母さんを失望させたくなかったから、だから僕は」

 そこまで言って、弟は続く言葉をぐっと飲み込む。

 弟の怒りの気配を感じ取り、彼女は自分の言葉を取り下げる。

「ごめんなさい。あなたを怒らせるつもりはなかったの。ただ、わたしはあなたが無理をしているんじゃないかと、ずっと心苦しく思っていたの。わたしは今のあなたを怖いとも何とも思ってないし、あなたがわたしのために心を砕いていてくれることには十分感謝している。でも、これ以上わたしのためにあなたが無理をする必要はないし、あなたはもっと自分の思うように生きて欲しいの。あなたは軍学校での成績を優秀だし、きっと輝かしい未来があなたを待っていると思うの。叔父さんだって、あなたの将来に期待しているようだったから、あなたの命までは取らないと思うの。だから、もうこれ以上わたしに構わないで、自分のことを第一に考えて欲しいの。わたしのことは自分で何とかするから、もうわたしのことを気にしなくていいの。あなたにはあなたの道を歩んで欲しいの。それが姉としてのわたしの唯一の願いなの」

 彼女は弟の手を振りほどく。

 両手を胸の前で組み、祈るようにする。

 それが精一杯の彼女の虚勢だった。

 本当は一緒に逃げようと言ってくれた弟の言葉は、涙が出るほどうれしかった。

 目が見えなくなって、両親が事故で亡くなったことを告げられ、彼女は闇の中に一人で取り残されたような心細さに苛まれた。

 そんな彼女の元へ毎日のように通い、元気づけてくれたのは弟だったし、唯一生き残った家族である彼がいたからこそ、彼女は明るさを取り戻せたとも言える。

 しかしだからこそ、弟と一緒に逃げることはできなかった。

 大切な弟を、彼女の都合に巻き込んでしまうことはできなかった。

 正面に立つ弟がどんな顔をしているのか、祈る彼女には想像もつかなかった。

 目の前に立つ弟は、黙って彼女を見下ろしていた。

 その表情には先ほどの優しさなど微塵もなく、氷のような冷たい瞳で彼女を見下ろしていた。

 彼女の家に引き取られたばかりの頃のように、その顔には人間らしい感情は少しも浮かんでいなかった。

 彼女が話の中で形容したように、人形か何か、機械か何かのような、感情の抜け落ちたぞっとするような表情を浮かべていた。

 弟は冷淡に何とかして姉に言うことを聞かせる方法を考えていた。

 もしも言うことを聞かせる相手が姉でなければ、指の一本や手の一本へし折れば、大体の相手は大人しく言うことを聞くはずだった。

 現に今まで彼は命令とあらばそうしてきたし、人を傷つけることに何のためらいも持たなかった。

 しかし相手が彼の主人の家族である姉である以上、手荒な真似はできなかった。

 何とか言いくるめて、姉が自発的に逃げ出すように仕向けなければならない。

 姉の身の安全を最優先事項ととらえる彼にとって、どう姉の意志を変えるかが問題だった。

「どうかしたの?」

 黙り込んでいるのを怪訝に思った彼女は弟に尋ねる。

 尋常ではないその気配を感じ取ったのか、彼女は不安に思い弟を見上げる。

 弟はすぐに優しげな表情を浮かべ、姉に語りかける。

「何でもないよ。ただ少し驚いただけ。昔から姉さんは強情だな、と思って。一度決めたことは、意地でも覆さないんだもんな」

 彼女は頬を膨らませる。

「悪かったですね」

 不機嫌にそっぽを向く。

「でもそう言うあなただって強情じゃない。父さんが決めた軍学校への進学だって、母さんとわたしがいくら反対しても意見を変えなかったじゃない」

 彼女の反論に、弟は口ごもる。

「あれは」

 弟はその時のことを思い出す。

 軍学校への進学を勧めたのは養父だった。

 養父は彼の力量を見込み、国のため、人々のために働くように軍学校へ進学を勧めた。

 特に将来の進路も考えていなかった彼は、養父の提案に賛同した。

 養母と姉の反対を押し切り、軍学校への入学を決意した。

 特に姉の反対はすごかった。

 家で顔を合わせるたびに、姉には文句を言われたものだ。

「あなたの成績なら軍学校じゃなくても、他の優秀な学校に入学することができるでしょう? どうしてそんな危険な道を行こうとするの。軍に入隊して戦いになれば、下手をすればあなたが命を落とすのよ?」

 姉ににらまれるたびに、弟は困った顔で笑うしかなかった。

 弟はその時のことを思い出し、目を細める。

「でも、あれは、姉さんや、父さんと母さんを守りたいと思ったからであって」

 ベッドに座る姉は、まだ納得していないかのように口を引き結び、黙って聞いている。

 嘘は言っていない。

 彼はその時、強くなることを望んでいたし、家族を守りたいと考えていた。

 そしてその技術や知識を身に付けたいと、強く望んでいた。

「軍学校に入れば、今回のような事故からも、父さんや母さんを、守れると思ってたんだ」

 姉の顔が歪む。

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