長男と次男の、はた迷惑な兄弟喧嘩4
車体全体が軽く揺れる。
姉は次男の方に倒れ、次男は座席の方へと倒れる。
車はブレーキを掛けて止まる。
そこへ運転席から声がかかる。
「若、お楽しみ中のところ失礼いたします。少しご相談したいことがあります」
次男は座席からのろのろと起き上がる。
「まったくその通りだよ。折角――嬢と良い雰囲気になってたってのに」
その声には先ほどまでの甘い響きなどなく、不機嫌な口調で答える。
次男は前を向いて、乱暴に金髪をかき上げる。
姉も軽く頭を振って起き上がる。
先ほどの自分の行動を思い出し、急に恥ずかしくなる。
――わ、わたし、何をしようとしたの? いくら命を助けてくれた人だからって、そんな簡単に心を許していいの? そ、そもそも、わたしはこの人のことを何も知らないのに。
両手で顔を覆い、耳まで真っ赤になって黙り込む。
次男は運転席の方へと身を乗り出す。
「それで、何だ?」
「道の前方に検問所があります。恐らく――嬢を見つけ出すための検問所かと思われます」
「検問の名目は?」
「市場であった爆発事件の犯人、その関係者を探しているようです」
「街の外に出るための迂回路は?」
「それが他の道に配置している部下とも連絡を取ったのですが、街に出るための道すべてに検問所がありまして。街の外に出る人間を一人一人入念に調べているようです」
「それはそれは。ずいぶんと手回しが良いことで。この手回しの良さは、さすが兄貴だな」
軽く舌打ちし、次男は肩をすくめる。
次男と部下とのやり取りを聞いて、姉はぶるりと震える。
先ほどの浮足立った気持ちから、一気に現実に引き戻される。
――もし検問所の人たちがわたしを探すのが目的なら、わたしがここにいたら、助けてくれた――さんたちにも迷惑がかかってしまう。
姉は座席に背中を預け、ぼんやりと窓の方を見ている。
視力を失った姉には、明るさがかろうじて感じ取れるくらいだった。
――わたしがここで降りれば、一人で逃げれば、彼らにも迷惑はかからない。わたしが一人で車から降りれば、もう誰も傷つかないで済む。
姉は車の扉を探す。その取っ手をつかむ。
幸い車は止まっている。
ここで姉が車外へ降りても、怪我は負わないだろう。
姉はそう思い、扉の取っ手を引っ張る。
鍵がかけられているのか、取っ手を引いても扉は開かない。
「何してるんだい?」
すぐ隣から声が掛けられる。
姉の取っ手をつかんでいた手の上に、次男の手が重ねられる。
はっとして姉は次男を振り返る。
「まさか、おれたちに迷惑がかかるからって、今更一人で逃げようとは思ってないよね?」
次男の優しい口調に、姉はうつむく。
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「もしあの検問所が、あなたの言う通りお兄さんのしたことだとしたら、わたしがここにいるだけであなたも罪に問われてしまいます。わたしはこれ以上誰かに迷惑を掛けたくないんです。わたしのせいで傷ついて欲しくないんです。弟は、わたしを逃がす時に銃で撃たれました。幸い命に別状はないようですが、その後高熱を出して寝込みました。その時、わたしは弟がそのまま死んでしまうんじゃないかと、とても不安でした。いっそわたしが代わってあげられたらいいのに、と何度も考えました」
次男は沈痛な面持ちで姉の独白を聞いている。
「わたしのせいで、これ以上誰かが傷つくのは嫌なんです。だから、どうかわたしをここで降ろしてください。そうすれば、後は自分一人で逃げます。これ以上、あなた方に迷惑をかけるわけにはいきません」
姉は努めて平静を装った。
捕まったらどうなるのか、今度こそ命はないかもしれない、という予感が頭に浮かぶ。
しかしそれでも構わないという強い気持ちも同時に沸いてくる。
自分のために誰かが傷つくよりも、自分が傷ついた方がいい、と言う気持ちは、姉の胸の中に常にある。
両親が亡くなってから、その気持ちはさらに強くなっていた。
――せっかく弟に逃がしてもらったのに。ごめんね、――。
姉は扉の取っ手をつかんだまま、うつむいている。
弟に対する罪悪感でいっぱいになる。
姉の手の上に置かれていた次男の手に力がこもる。
優しい声で語りかける。
「――嬢は、ひどく心が傷付いている。ご両親が亡くなったばかりで、目の見えない慣れない生活を強いられ、自分の命も危険にさらされて、ひどく心が弱っているようだ。今のあなたには心の休息が必要だ」
次男は駄々をこねられた子どもをあやすように、困ったように笑う。
運転席に向けて指示を出す。
「という訳で、――嬢の頼みは聞けないし、検問所は強行突破ね。おれ、兄貴に捕まって、その前に跪かされるのなんて、想像するのさえ嫌だからさ」
あっさりと言い放つ。
「え? えぇ?」
次男の決断の早さには、姉の方が驚いてしまう。
しかし運転席と助手席にいた部下二人は慣れたものなのか、冷静に応じる。
「承知いたしました。他の車両にも、そう伝えます」
「うん、よろしく」
「――嬢、少々乱暴な運転になりますが、ご容赦ください」
「え? は、はい」
訳が分からないながら、姉はうなずく。
姉が戸惑っていると、すぐそばから次男の声が聞こえる。
「大丈夫だよ。おれが――嬢を守るから。兄貴も街のあちこちに部下を配置しているみたいだから、一か所の人員はそれほどではないはずだ。おれたちだけでも十分振り切れる」
そう言いながら、次男は馴れ馴れしく姉の肩に手を回してくる。
「それよりも、さ。さっきの続きをしようよ。さっき、キスしそびれただろう? どうせなら濃厚なのを一つ」
次男は姉に顔を近付ける。
姉はびくりと肩を震わす。
「い、いえ、今はとてもそんな気持ちでは」
座席の隅に逃げつつ、話題を変える。
「そ、それよりも、本当に検問所を突破するつもりですか? この車で、本当に逃げられるのですか? もし万一、逃げられなかったら」
表情を暗くする姉に、次男は明るく笑いかける。
「大丈夫だよ。この車は特別製だからさ。そんじょそこらの銃弾では傷一つ付かないように出来てるからさ。ガラスも装甲も軍隊で使われている特別製でさ。エンジンだってジェット機のものを積んでるんだよ」
「は、はあ」
次男の説明を聞いても、姉にはぴんとこない。
不安な気持ちを拭い去ることは出来ない。
次男は明るい声で話し続ける。
「検問所を突破する間、君が怖くないようにおれが抱きしめていてあげるから、安心してよ。おれが抱きしめていれば、君も安心できるだろう?」
次男は姉の返事を待たずに抱き着く。
「い、いえ、そう言う意味では、なくてですね。わっ!」
姉は訴える間もなく、そのまま座席に押し倒される。
下手に頭を上げていたら危険なことは姉にもわかったが、だからと言って抱き合っている必要はない。
「は、離れてもらえませんか? わ、わたしなら、大丈夫ですから」
「そんな強がりを言っちゃって。本当は怖いくせに」
「だ、大丈夫ですってば」
姉は次男の腕から何とか逃れようとする。
その時、運転席の音が聞こえてくる。
「こちら、一号車。準備は整った。これから東部地区の検問所を突破する」
それに応じるように、くぐもった声が聞こえてくる。
早口で一言二言やり取りをしている。
助手席の部下がこちらを振り返る。
手には拳銃を持っている。
「若、準備が整いました。どうか安全のためにそのままの姿勢でいてください」
「わかってる。後はよろしく頼むよ」
次男は姉を押し倒したまま、わずかに顔を上げる。
「――嬢も、お辛いでしょうが、しばらくのご辛抱です。検問所を通過するのに、それほどの時間はかからないと思います」