長男と次男の、はた迷惑な兄弟喧嘩3
「よかった。兄貴よりも先に君を見つけられて」
そんなに広くない車内、後部座席の隣に乗った次男が、姉の手を握りしめている。
――そうだわ。この人はこういう馴れ馴れしい人だったんだわ。
姉は次男との夜会での出来事を思い出し、頭が痛くなる。
「正直、兄貴より先に君を見つけられるかは、一種の賭けだったんだよね。君を無事に見つける確証もなかったし。場所だけ指定されても、君が本当に公園に来るのかわからなかったし。だから、君と合流出来ておれは運がいい。本当に良かったよ」
目の見えない姉には次男の表情はわからない。
声の調子から上機嫌なことはわかる。
――この人は、わたしを助けてくれた。この人が、弟の言っていた相手なの?
姉は隣に座る次男の様子をうかがう。
「兄貴も君を殺そうなんて、馬鹿なことをするもんだよ。財閥における君のご両親や、君の重要さを何もわかっていない」
姉は黙って次男の話を聞いている。
遠慮がちに問い掛ける。
「あの、幾つかお聞きしたいことがあるのですが」
「ん?」
「あなたは弟の言っていた、公園での約束の方ですか? 叔父さんのご子息であるあなたが、どうしてわたしを助けてくれるのですか?」
次男はあごに手を当てて押し黙る。
しばし考え込む。
「それに、さきほどからお兄さんのことを口にするのは、どうしてですか?」
次男はあごに手を当てて、深緑の目を細める。
「どうしてだと思う?」
からかうような物言いに、姉は言葉を失う。
けれど、これはわざと自分を試しているのだな、とすぐに考え直す。
今度は姉が考え込む。
今までの出来事や次男の言った言葉を思い出し、頭の中で整理する。
「恐らく、ですけど。わたしは、弟が言った相手は、あなたではないかと思います。夜会でのあなたは、弟と仲が良いようには見えませんでしたが、かといって仲が悪いようにも見えませんでした。だから、あなたが弟と何らかの繋がりを持っていて、わたしたちの窮地を見かねて助けてくれる、という可能性も十分に考えられます」
次男は興味深そうに首を傾げる。
金色の髪がさらりと揺れる。
「へえぇ、それで?」
「ええと、あなたがどういった目的を持って、わたしたちを助けてくれたのかは、理由はわかりません。でも、恐らくは弟と何らかの取引をしたものと思われます」
「へぇ、どんな?」
「それはわかりません。けれど、あなたが厚意だけで、わたしたちを助けてくれたのではないことは、確かです」
盲目の姉には見えなかったが、その言葉を聞いて、次男はわずかに肩を落とす。
姉はそれには気付かずに話し続ける。
「それからあなたの言う、兄貴、と言うのは、叔父さんの長男で、あなたの腹違いのお義兄さん、ですよね? あなたのお兄さんが、今回の件にどう関係しているのかはわかりませんが、もしかしてこの件で叔父さんと関わりがあるのは、お兄さんですか?」
姉の問いに、次男は何も答えなかった。
ただ静かに笑っているだけだった。
「他のことはさておき、弟君と公園で待ち合わせをした相手、ってのはおれだよ。けれど君と待ち合わせていることが兄貴にばれて、公園に着く前に君を確保しなければならなくなった。だから公園の手前で君を保護しなければならなくなった。弟君はずいぶんと前からおれに情報を流していてくれたんだけれど、おれは兄貴の監視もあってうかつに動くことは出来なかったんだ。辛い思いをしただろう? もっと早く来れれば良かったんだけど。ごめんな」
心底申し訳なさそうな謝罪に、姉は何も言うことが出来なかった。
ゆっくりと首を横に振り、涙をこらえるのが精いっぱいだった。
「いいえ、いいんです。あなたが謝る必要はありません。目は見えなくなったけれど、命のあったわたしは、幸運です。父さんと母さんは、二人ともあの事故で命を落としたのですから」
姉は唇を噛みしめて、悲しみをこらえる。
胸に悲しみが波のように打ち寄せてくる。
すぐそばから次男の声がかかる。
「おれの前で泣きたい時は、我慢せずに泣いていいんだよ」
次男の手が姉の肩にかかる。
そのまま抱き寄せる。
姉は驚きに息を飲む。
以前ならば、次男にキスされたり抱きしめられるのに抵抗があったが、今はそれほど嫌だとは思わない。
それは次男が姉を助けてくれたからだろう。
――弟が頼んだ相手だもの。この人は、きっといい人だわ。
警戒心が和らぎ、親しみがわいてくる。
「ありがとうございます。でも、わたしは大丈夫です」
姉は次男の胸に抱かれ、ささやく。
顔を上げ、柔らかに微笑む。
「そうか。――嬢は強いな」
次男は深緑の瞳を悲しげに伏せる。
「お袋が死んだ時、おれはずっと泣いてばかりいたのに」
「え?」
姉は驚きに息を飲む。
今まで次男の生い立ちを考えたこともなかった。
確かに記憶を手繰り寄せてみると、以前叔父の二番目の妻は若くして死んだと聞いたことがある。
「ご、ごめんなさい。わたし、あなたのことをちっとも知らなくて」
次男はゆっくりと首を横に振る。
「いいんだ。おれも君のことを知らないのは同じだから。出来ればこれから、君のことをもっと知っていきたい、と思っている」
次男は深緑色の瞳で姉を真っ直ぐに見つめる。
もうその言葉の意味がわからない姉ではなかった。
姉は顔を赤らめる。
「わ、わたしも、あなたに命を助けていただいたご恩を少しでも返せたら、と思っています」
耳まで真っ赤になりながら、口ごもる。
胸の鼓動がいつも以上に大きく聞こえる。
頭がぼうっとなり、冷静に物事が考えられなくなる。
次男は姉の耳元に顔を近付ける。
「もしも貴女が、少しでもおれのことを好ましいと考えているのなら。どうか貴女との再会を素直に喜ばせてもらえませんか。この口に貴女の接吻をいただけませんか?」
次男の甘いささやきは不思議に耳に心地よい。
姉の判断力を狂わせる。
「はい」
何の疑いも持たずに、姉は答える。
その時は小指の爪の先ほども、次男の行動に疑いを抱かなかった。
次男はにっこりと笑い、姉のあごに手を添える。
姉の腰に手を回し、体を引き寄せる。
息がかかるほど近くにその存在を感じながら、姉は次男の胸にそっと手を置く。
自分からも顔を近付ける。
二人の唇が触れ合う瞬間、それまで穏やかに走っていた車がブレーキを掛ける。