長男と次男の、はた迷惑な兄弟喧嘩1
路地裏でじっと佇んでいた姉は、弟の足音が遠ざかるのを聞いていた。
――行かないで!
その言葉が何度口をついて出そうになったか。
本当ならば大声でそう叫びたかった。
泣いて弟に追いすがりたかった。
しかし同時に言っても仕方がないとわかっていた。
そんなことをしても弟を困らせるだけだとわかっていた。
そのため、あえて口にはしなかった。
――わたし、目が見えなくなってから、ずっと弟に頼ってばかり。
弟がいなくなった途端、悲しみや寂しさ、心細さがないまぜとなって、胸に押し寄せてくる。
自己嫌悪の気持ちが大きくなる。
――目の見えないわたしのために、あの子がどんな犠牲を払って来たか、知らないはずはないでしょう? 今まであの子がどんな辛い思いをしてきたか、知らないはずはないもの。わたし、何てひどい姉だろう。
事故に合い、目が見えなくなってから、ずっと抱いてきた思いがどっと胸に押し寄せる。
――ごめんね、――。ごめんね。
膝を両手で抱えて座り込む。
いくら弟のことを思っても、すぐそばに彼はいない。
姉を守るために、叔父の追手を引き付けるために、どこか遠くへ行ってしまった。
弟の身を思うと、暗い気持ちになる。
足が重くなる。
――駄目ね、わたし。落ち込んでも仕方がないのに。こんなところにいても、何の解決にもならないのに。
姉は気持ちを切り替え、軽く頭を振る。
頭にかぶった帽子を手で押さえる。
――いつまでもこんなところにいても仕方がないわ。あの子のためにも、わたしがしっかりしないと。
勇気を奮い立たせ、姉は建物の陰から出ていく。
壁に手を当て、そろそろと大通りの方へと歩いていく。
大通りからは人々の足音や楽しげに話す声が聞こえる。
姉は勇気を出して、大通りに一歩踏み出す。
杖を手に、注意深く歩いていく。
――弟はこの道を真っ直ぐ行けば、公園に着くと言っていたわ。その噴水の前で待っていれば、約束の相手と会えると。約束の相手と会えれば、わたしの身の安全は保障されると言っていたのだけれど。
姉はこつこつと杖で石畳を叩き、慎重に進む。
――でも、約束の相手とは誰のことかしら? わたしの知っている相手? それとも弟の知り合い? 本当にその人と会えれば、わたしの身の安全は保障される、と言っていたけれど。
弟に示された通りに道を歩みながら、姉は考える。
コートを引き寄せ、黙々と歩く。
――わたしのせいで、その人に迷惑が掛かってしまうのではないの? わたしのせいで、その人まで危害を加えられるとしたら。
そう考えるとぞっとする。
全身を寒気が襲う。
――わたしが命を狙われるなら、まだいいわ。わたし一人の問題で済むもの。でも、もし親切にしてくれたその人にまで迷惑が掛かったら。
石畳を歩く靴音、杖の先からの感触に姉は意識を集中する。
――わたしは、その人やその家族に、どう償えばいいの?
再び胸に暗い気持ちが舞い降りる。
事故に合ってからと言うもの、姉の心には常に暗雲とした暗い気持ちが淀んでいた。
それを振り払おうと努力しても、姉自身どうしても出来ないことだった。
不意に、背後から爆発音が聞こえてくる。
その音は周囲の空気をびりびりと震わせ、突風を巻き起こす。
――な、何?
姉は慌てて振り返る。
少ししてから、通りを歩く人々の間から悲鳴が上がる。
「おい、あの煙、何だ?」
「あっちは、市場の方じゃないの?」
救急車やパトカー、消防車のけたたましいサイレンの音が聞こえる。
辺りは騒然となり、人々のささやき合う声が耳に届く。
「市場で爆弾が爆発したそうだぞ」
「犯人は、まだ捕まっていないとか」
「怖いわねえ」
姉は通りにぼんやりと立ち尽くしている。
何が起こったのかまだ頭が理解できない。
「見つけたぞ」
男の低い声が聞こえ、姉の腕が強引につかまれ、路地に引っ張り込まれる。
「きゃっ」
引っ張り込まれた路地は狭く、周囲に何人かの人の気配がある。
ごろつきらしいしゃがれ声が聞こえる。
「こいつだ。こいつが探していた奴だ」
「散々手こずらせやがって」
姉はごつごつしたコンクリートの壁に背中を押しつけられる。
どうやら追手を引きつけるために別れた弟の努力は、あまり功を奏さなかったらしい。
姉の細い首に男の手がかかる。
胸元には固い物が押し当てられている。
形からして棒のような鈍器だと姉は思った。
――わたし、逃げられなかったんだ。ごめんね、――。折角わたしを逃がしてくれたのに。
諦めが胸の中に広がる。
最早悲しみや辛さは感じられない。
弟と別れた時に、一緒に失くしてしまったかのようだった。
「わたしに、何の用です?」
口をついて出たのは、姉自身、自分の言葉とは思えないほど落ち着いていた。
「わたしをここで殺すつもりですか?」
姉は淡々と尋ねる。
目の見えない姉にはわからなかったが、男たちは街のごろつきだった。
叔父の長男に雇われて、姉弟のことを探していたのだ。
ごろつきの男たちは姉に問われて動揺する。
「て、抵抗すれば、痛い目にあってもらうが。俺たちの役目はあんたを探して、引き渡すだけだ」
「その先のことは知らねえが、命まで取ろうとは思ってねえよ」
男たちの言葉を聞いて、姉は重ねて尋ねる。
「わたしを捕えるように、あなたたちに命令した人は誰です? 叔父さんですか?」
姉はそう言って、叔父の名前を口にする。
「それは言えねえな」
男たちは叔父の名前を聞いても、動揺しない。
姉はその反応を見て、男たちが叔父に命令されたのではないと判断する。
――わたしを追っているのは、叔父さんではないの?
自分の身が危険にさらされているにも関わらず、冷静に考えを巡らす。
――じゃあ、一体誰が?
姉がそう考えた時、別の声が掛けられる。
「おいおい、むさくるしい男五人に、美しく可憐な女性が一人だなんて、これは一体どういう状況だい? 女性を口説くなら、もう少し手順を踏まないといけないよ」
「誰だ!」
ごろつきの男が叫ぶ。
それは若い男性の声だった。
姉は以前にその若い男性の声に聞き覚えがある。
「誰だ、と言われてもね」
ごろつき五人に睨まれても、若い男性の穏やかな口調は変わらない。
「どうせ名乗っても、君たちの貧相なおつむでは覚えることが出来ないだろう? だったら、名乗るだけ時間の無駄さ」
挑発とも取れる言葉を平然と発する。
「てめえ!」
姉は息を飲む。
街のごろつき相手にこんなことを言ってはただでは済まないだろう。
「わたしのことはいいから、逃げて下さい!」
姉はその若い男性に向けて叫ぶ。
若い男性は姉の言葉を受けても動じない様子だった。
「そうはいかないよ。おれも君のことをずっと探していたんだから」
若い男性は軽く手を上げる。