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姉と弟  作者: 深江 碧
二章 弟視点
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弟視点1

 弟は彼女の手を取って言った。

「姉さん、一緒に逃げよう。このまま病院に留まっていても、いつ叔父さんの手が伸びてくるかもしれない。いつ姉さんの命が危険にさらされてしまうかもわからない。大丈夫、僕が姉さんを守るから。僕が命を懸けて姉さんを守るから、一緒に逃げよう」

 ベッドに座った彼女は黙っていた。

 彼女は目が見えないため、目の前にいる弟の表情がわからなかった。

 ただ弟の声音から、その真剣さは感じ取っていた。

 弟の言葉はまるで映画の一場面のような歯の浮く言葉だった。

 これが映画の中の恋人同士の男女であれば、そのまま結ばれてハッピーエンドを迎えただろうが、現在置かれている状況を知る彼女は、とてもそんな幸せな気持ちにはなれなかった。

 彼女は叔父に命を狙われている。

 こうして入院している間にも、叔父は彼女の主治医を買収し、彼女を殺そうと狙っている。

 彼女はうつむいて、小声で答える。

「そんな、命を懸けてなんて言わないで」

 彼女はゆっくりとかぶりを振る。

 弟の彼女を心配してくれる気持ちは痛いほど伝わってくる。

 しかしだからこそ、彼女は大切な弟を危険にさらすことも、その真摯な気持ちを受け止めることもできかねていた。

「あなたがわたしを心配してくれていることは十分わかるわ。でも、あなたはと一緒に逃げたら、あなたにまで迷惑がかかってしまう。わたしと一緒に逃げるということは、あなたまで命を狙われることになるのよ? それでもいいの?」

 彼女の手を握る弟の手は固く、冷たかった。

 目の見えない彼女には弟の姿はわからなかったが、握った手を通してその存在を感じる。

 彼女は弟が真剣な面持ちで立っている姿を想像した。

 背が高く、線の細い優しげな感じのする弟。

 しかしその実、運動が得意で軍学校で優秀な成績を収めている。

 銀色の美しい髪に、整った顔立ちで、同じ家族ながらどうして自分は銀色の美しい髪ではないのだろう、カラスのような真っ黒なちぢれた髪なのだろうと、幼い頃は嫉妬したりもした。

 彼女が不機嫌そうにしていると、顔を合わせた弟は眉を寄せ、小さな少年のように困った顔で笑うのだった。

 恐らくは今の弟はそんな気弱な様子ではないことは、彼女にもわかっていた。

「かまわないよ」

 弟ははっきりした声で答える。

 彼女はさらに言い募る。

「でも、わたしと一緒に逃げることは、もう学費の援助も受けられないし、軍学校も辞めなければならなくなるかもしれない。あなたの今までの生活を捨てて、ずっと叔父さんに命を狙われ続けることになるかもしれない。わたしと逃げてもあなたにはまったく得にはならない。それどころか、あなたには苦労ばかりかけてしまうかもしれない。本当に、それでもいいの?」

 弟の手が彼女の手を強く握り返す。

「うん、それでもいいんだ。僕は姉さんと一緒に行く。そう決めたんだ」

 彼女は弟が困ったように笑う姿を思い浮かべた。

 目が見えなくなってから、弟には迷惑をかけてばかりだった。

「ごめんなさい」

 彼女は蚊の鳴くような声でささやく。

「どうして姉さんが謝るの?」

 弟が聞き返してくる。

「だって、わたしのせいであなたは今までの生活をすべて失ってしまうから。せっかく学校で優秀な成績を取っても、将来の進路が決まっていても、あなたはそれをすべて手放してしまうことになるのよ?」

 すると弟は軽やかな声を立てて笑う。

「それはお互い様だよ。それに、すべての元凶は叔父さんなんだよ? 姉さんが謝ることなんて一つもないんだ」

「でも」

 彼女は口ごもる。

 そしてわずかに顔を赤らめ、声をひそめる。

「でも、あなたには付き合っている人がいたんじゃないの?」

「は?」

 弟が素っ頓狂な声を上げる。

 彼女は顔を真っ赤にして話し続ける。

「だ、だって、あなたから時々女物の香水の匂いがするから。あなたも年頃だし、付き合っている人の一人や、二人いたって不思議じゃないから」

 彼女は目が見えなかったので気が付かなかったが、その時弟はとても奇妙な顔をしていた。

 悲しいような、呆れるような、怒ったような、憮然とした表情だった。

 思わず姉の前で取り繕うことなく、怒気のこもった低い声でつぶやく。

「姉さん、それ本気で言ってるの?」

 弟の好意に気が付いていない彼女は、弟に付き合っている人がいないことをもちろん知らなかった。

 それどころか彼女は目が見えないので、最早自分の姿を見ることもかなわないのだが、目が見えた頃から鏡に映る自分の姿をよくは見ていなかった。

 ゆるく波打った豊かな黒髪も、雪のように白い肌も、ほっそりした体つきも、笑うと白百合が咲いたかのように清楚で優しげな雰囲気を漂わせるのも、目が見えた頃から彼女はまったく自分の魅力に気付かなかった。

 鏡とは服や小物、髪の乱れを直すために使うのであって、本来の自分の魅力を見ることにはまったく役に立っていなかった。

 そんな姉に弟が好意を持っていることを知らない彼女は、弟が恋人のことに触れられ素直に怒ったのだと受け取った。

「ご、ごめんなさい。あなたの私生活を詮索するつもりはないのだけど。やっぱりあなたには自分のことを第一に考えてもらいたくて。ほら、あなたって昔から優しいから。つい他の人に同情して入れ込んでしまうところがあるから。だ、だから、わたしのことは二の次に考えて、自分のことを大事に考えてくれないと、わたしも心配なのよ」

 彼女は素直に弟のことを心配していた。

 思えば家に引き取られた頃から、両親の言いつけに素直に従う弟だった。

 思春期を迎えても反抗らしい反抗もせず、成長してしまったような印象がある。

 彼女でさえ、一時期は父親とまったく口を効かなかった時期があると言うのに。

そんな父娘を心配した母親が気を効かせて旅行に連れ出したのが、今回の事故につながった。

彼女は反抗期のない弟をとても心配していた。

姉としては弟が少しぐらいわがままを言ってくれた方がいいと感じていた。

彼女はずっと心に引っかかっていたことを口にする。

「ねえ、――。何かわたしに隠していることがあるんじゃないの?」

 その言葉をかけた瞬間、彼女には見えなかったが、弟はわずかに目を伏せてとても悲しげな表情をした。

 悲しそうな、悔しそうな、その瞳には底知れない闇が宿っている。

握った手を通して目の見えない彼女にも、弟の心の動揺は伝わってきた。

「どうして、そう思うの?」

 弟はすぐに落ち着きを取り戻し、尋ねる。

「それは」

 今度は彼女が困る番だった。

 自分の胸に手を当ててじっと考える。

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