姉に事情を話し、二人で逃げる4
山のような着替えを抱えて自分の部屋へと戻る。
扉を閉めた姉は、弟に手渡された着替えの山を前に途方に暮れる。
「最初は、これに着替えればいいんだったかしら?」
伸縮自在の鋼鉄で出来た下着を手に、姉は首を傾げていた。
姉が部屋に引っ込んでから、弟は大きなため息を吐いた。
眉を寄せ、いらいらとして銀髪を指でかきまわす。
――やっぱり、姉さんを無事に逃がすには、あいつの助けを借りるしかないのか。
弟はある人物の顔を思い浮かべる。
その人物のことを思い出すたびに、弟の心に怒りが込み上げてくる。
弟としては、極力その人物に関わりたくなかったが、こんな事態に陥ってしまっては仕方がない。
叔父に居場所を知られてしまい、組織の協力も得られないとなると、最早弟には他に選択肢もない。
せめて彼の主人である伯母に直接連絡を取ることが出来れば、話は別なのだが。
それは情報屋のワタリガラスが黙っていないだろう。
――まいったな。これじゃあ八方ふさがりだな。
ワタリガラスが敵に周った今、これほど厄介な相手はいない。
こちらの行動は叔父に筒抜けなのだろう。
弟はワタリガラスの顔を思い浮かべる度に、はらわたが煮えくり返るようだった。
苛立たしげに早足で居間を歩き回る。
先ほどから電話を掛けるべきか考え込んでいる。
――確かに、あいつに連絡を取れば、姉さんの命は助けてくれるかもしれない。けれど、交換条件として、高い代償を払わされるかもしれない。命の保証はされても、身体の保証はされないかもしれない。
それを考えるたびに、弟は決断が出来ず、迷っているのだった。
――でも、交渉次第では、こちらも有利な条件を取り付けることが出来るかもしれない。相手も大人である以上、姉さんに手荒な真似はしないと思うし、これがビジネスの契約であれば、相手も一定の譲歩をするはずだろう。
あまり期待は出来ないと思いつつ、弟は一縷の望みを掛けて電話を手に取った。
盗聴されている可能性を考えつつも、これしか他に方法を思いつかなかった。
コール音が二度ほど鳴って、すぐに秘書らしい女性の声がする。
弟は慎重に言葉を選び、素性を明かし、彼に取り次いでもらえるように頼んだ。
姉は自分の部屋で、苦労して弟に手渡された服のすべてを着込んだ。
重くて動けないかとも思ったが、存外に軽く、動きやすく出来ていた。
さすがに銃やナイフは重くて動きにくいので外していたが、着込んだ割には重くは感じなかった。
居間で待っていた弟に確認する。
「これで、どうかしら?」
けれど弟はどこか上の空だった。
「あぁ、いいんじゃない?」
気のない返事が返ってくる。
姉はそんな弟の態度を見て、不安に思う。
――きっと弟も不安に思っているのよね。無理もないわ。目の見えないわたしはただでさえ足手まといになってしまう。弟はそんなわたしを連れて逃げるなんて、とても無理な事だと思うわ。
姉は身だしなみを確認し、不安に思いながら弟を振り返る。
弟は力なく笑う。
「準備は整ったみたいだね。じゃあ出かけようか」
弟は姉の手を引く。
仕上げとばかりに姉の頭に帽子をかぶせる。
「その帽子の中に、髪を入れておくといいよ。そうすれば邪魔にならないだろう?」
弟は力なく笑う。
言われて姉は長い黒髪をまとめ、帽子の中に入れる。
弟は扉に鍵をかけ、アパートの階段を降りていく。
手を引かれる姉は、不安になる。
――やっぱり、どこか体の調子が悪いのではないかしら。病院を抜け出した時に受けた傷が、また悪化したのかしら。
弟の態度が気にかかる姉は、かぶった帽子を手で押さえながら歩く。
道端に避けられた雪の山に注意しながら足を運ぶ。
目の見えない姉にはわからなかったが、弟は姉の手を引いて、市場とは反対方向に歩いていた。
どれくらい歩いただろう。
不意に弟が立ち止まる。
「やっぱり、駄目か」
弟はぽつりとつぶやく。
「え?」
早足になり、姉の手を引いて狭い路地に入る。
入り組んだ路地を進む。
弟は歩きながら、努めて明るい声で話す。
「ごめん、姉さん。叔父さんの追手がついて来ているみたいだ」
「えぇ?」
歩きながら明るい声で話す弟に、姉は呆気に取られる。
そしてすぐに思い出す。
――そうだった。弟は長年わたしたちを守ってくれた、護衛、だったんだわ。
護衛、と言ったのは、まだ弟が姉や両親を守るために人を手に掛けたとは思いたくなかったからだ。
弟の立場を受け入れつつも、姉はまだ弟が人殺しだとは思いたくなかった。
姉は声の音量を落としつつ、尋ねる。
「そ、そんなことが、わかるの?」
弟は姉の手を引きつつ、歩く速さは変わらない。
「わかるよ。僕たちがアパートを出てから、三人の足音が一定の距離を保ったままずっと着いて来ている。僕はわざと人通りの少ない路地を選んで歩いているんだけど、距離を変えずに相変わらず着いて来ているよ。姉さんにもこの足音が聞こえるだろう?」
そう言われて、姉は背後に意識を集中する。
耳を澄ませてみる。
かすかだが足音が聞こえる。
「そう、みたいね。叔父さんも、わたしたちを見逃してはくれないのね」
姉は弟に手を引かれ、うなだれる。
「残念ながら、ね」
弟は苦笑する。
姉の腕を引き、体を引き寄せる。
「姉さん、少し走るよ」
「え? えっ?」
姉は弟に抱えられ、足が地面を離れる。
「ちょっとの間だから、我慢してね」
弟は姉を小脇に抱え、細く薄暗い路地を走り出した。
――えええぇぇぇ?
小脇に抱えられた姉は、声を上げないように手で口を押えている。
悲鳴を上げたいのを必死に我慢している。
一定の距離を保って後をついていた足音も、二人を見失わないように走り出したようだった。
抱えられた姉に出来ることは、弟の走るのに邪魔にならないように体を縮めていることしか出来なかった。
ただでさえ地理を知らず、目の見えない姉には、自分たちがどこをどう走っているのか皆目見当もつかなかった。
声を出さないように口を押え、大人しく弟に抱えられていることしか出来なかった。