夜会にて6
次男は姉に微笑みかける。
「もう大丈夫です。ありがとうございます。痛みはすっかり引きました」
普通の女性ならばうっとりと見惚れるような笑顔だった。
姉は次男の笑顔をじっと見つめる。
「ね、姉さん?」
次男に見惚れていると考えた弟は、見るからに慌てる。
姉は次男の笑顔を見ながら、違うことを考えている。
――さっきの女性たちは、この笑顔を見て、彼のことをすっかり好きになってしまったのだろうけど。でも、わたしは彼を見ても何も感じない。わたしって、女性としてどうなのかしら。
まだ恋愛には疎い姉は、次男の笑顔から視線を逸らす。
小さく溜息を吐く。
悲しげに目を伏せる。
次男は姉の憂い顔を見て、笑顔を引っ込める。
コップをテーブルの上に置き、姉の両手を握りしめる。
「――嬢、何か、心配事ですか? おれで良ければ、相談に乗りますよ?」
部屋に弟がいることも忘れて、姉の方に身を乗り出す。
姉は青い目でぼんやりと次男を見上げる。
「ご心配、ありがとうございます、――様。でも、わたしは大丈夫ですから」
姉は力なく笑い、次男の手を振りほどく。
まさか先程の女性とのやり取りを、正直に次男に話す訳にはいかない。
それにこのことを話し出したら、愚痴になってしまうのはわかっている。
弟には話せても、赤の他人である次男には話すことは出来ない。
それにここが社交界である以上、自分の漏らした言葉がいつ何時ゴシップとして取り上げられてしまうかわからなかった。
「そうですか」
姉の言葉に、次男は悲しげな顔をする。
次男を傷つけてしまったと思い、姉は慌てて手を振る。
「あの、――様に相談するほどのことではないのです。これはわたしの問題ですから、やはり自分で解決をしないといけないと思いまして。――様が心配してくれる、お気持ちはうれしいとは思いますが」
姉は目を伏せ、照れくさそうに笑う。
きっと次男の女性に対する優しさが、多くの女性を惹きつける魅力となっているのだろう。
姉はぼんやりとそう考える。
「本当に、お心遣い、ありがとうございます」
姉はその時だけは次男の厚意を素直に受け取ることが出来た。
ひと時、次男に対する不信感が拭われ、柔らかな笑みを浮かべる。
次男は面食らう。
わずかに目を細め、照れくさそうに首の後ろをかく。
「あなたは、ずるい人ですね。これだけ人を振り回しておいて、そのまま突き放しておいてくれればいいものを。あなたにそんな人懐っこい笑みを向けられたら、こちらも諦めることが出来なくなるじゃないですか」
「諦める?」
頬を染める次男の言葉に、姉は首を傾げる。
言葉の意味を理解した弟は、さっと表情を変える。
「姉さん、そいつから離れて」
弟は姉に駆け寄る。
壁際にいた弟が駆け寄る間もなく、次男は自然な動作で姉の顔に手を添える。
姉の唇を奪う。
それはほんの一瞬のことで、姉がキスを理解した時には、次男の顔はもう離れていた。
黙り込んだままでいる姉を前に、次男は立ち上がる。
姉に向かってウインクする。
「まあ、あなたを諦めるつもりは、おれには毛頭ないのですが。――嬢、今度は二人きりでお会いしたいものですね」
弟の殺気を受けて、次男は顔をひきつらせながら、そそくさと早足で部屋から出ていく。
静かに扉が閉められる。
姉は放心したように、椅子に座っていた。
「姉さん、大丈夫?」
弟が心配そうに姉の顔を覗き込む。
姉の目がなければ、すぐにでも次男を叩き出してやるところだった。
弟は次男の消えて行った扉を忌々しげに見つめる。
姉はまだキスされたショックから立ち直れていないようだった。
ぼんやりとする姉の横顔に胸が痛む。
「姉さん、あんな奴のこと、気にすることないよ。どうせ姉さんをからかっているだけだよ」
そう言いつつも、弟は次男が姉に対して本気ではないのかと疑っていた。
姉と次男が目の前で二度もキスしているのを見せられ、弟としても気が気ではなかった。
「姉さん」
弟が声を掛けると、姉がのろのろとこちらを振り返る。
ぼんやりと青い瞳が弟を見つめている。
つい魔が差した。
次男に対しての嫉妬の炎が燃え上がった。
気が付けば、姉の口にキスしていた。
姉が息を飲む気配がする。
弟はすぐに姉から離れ、仏頂面で言い放つ。
「ほら、キスなんて、全然たいしたことないよ。だから姉さんも、あいつのことなんかそんなに気にする必要はないよ」
弟の不機嫌そうな物言いを、姉は真っ赤な顔をして聞いている。
その場にいづらくなった弟も、部屋から出ていく。
後には、姉一人が取り残された。
姉は指で自分の唇に触れる。
「一体、何だったの?」
不思議そうに、ぽつりとつぶやいた。
その後、姉の立ち直りは早かった。
次の日の朝には前日の夜会の出来事は、頭の隅に追いやっていた。
自分の部屋でせっせとコンクールの歌の練習に励んでいる。
一方の弟は、すぐには立ち直れなかった。
朝から体調が悪いと言って、自分の部屋から出てこようとしなかった。
ベッドで頭から枕を抱えて、ぶるぶると震えていた。
昨夜姉にキスをした恥ずかしさと、このことがばれたら伯母に殺されるという恐怖で、その日は部屋から一歩も出ることが出来なかった。
久しぶりの家族水入らずの休日に、父親は母親と姉の三人で広い庭でティーカップを傾けていた。
「――は、どうして部屋から出て来ないんだ?」
父親の問いに、姉は首を傾げる。
「昨夜の夜会では、普通だったのだけれど。きっと、――さんを殴ったことを、気に病んでいるのよ」
勘の鋭い母親は、そんなことではないと思ってが、弟から直接理由を聞くことも出来ず、あえてそのことには触れないでいた。
話題を変える。
「そう言えば、あなたは――さんから、気に入られているようだけれど、あなたの気持ちはどうなの? ――さんのこと、どう思ってるの?」
母親の質問に、それを聞いていた父親は動揺する。