夜会にて4
次男は笑っている。
「無理に口にしてもらおうとは思いません。嫌がる女性に、無理矢理にキスするのは失礼に当たりますから。おれもそのくらいはわきまえています」
それからわずかに目を細め、自分の手を見る。
「まあ、確かにおれとしてはあなたに口にキスしてもらえたら、どんなにうれしいでしょうか。しかし、あなたの心の準備が出来ていない今、無理には要求しませんよ」
弟は隣に立つ姉は不安そうに見つめる。
「姉さん、ごめん」
姉は意を決したようだった。
「わかりました」
短くつぶやくと、次男の横たわるベッドのそばへ歩み寄る。
わずかに腰をかがめ、次男の顔を覗き込む。
姉は厳しい表情で次男を見下ろしている。
腰をかがめ、顔を近付ける。
次男の頬に手を添え、唇を近付ける。
緊張した面持ちの姉を、次男はぼんやりと見上げていた。
その美しい黒髪を、夜空のように深い青色の瞳を見つめている。
その整った容貌に見とれている。
――こうして彼女の顔を間近で眺めていられるだけでも、殴られたかいがあると言うものだよな。
近付いてくる姉の顔を見上げながら、自然と顔がほころぶ。
だらしなく頬がゆるんでしまう。
次男の顔に姉の影が落ちる。
――痛い思いはしたものの、結果的に彼女とお近づきになれたし、これで今回は十分だ。
ベッドのそばに立つ弟の視線は氷のように冷たかったが、天にも昇る心地の次男は気にしなかった。
ふわりと彼女の甘い香りがして、柔らかな唇が押し当てられる。
――ん?
次男は思わずまばたきする。
焦点が定まらないほど間近に、彼女の整った顔が見える。
それはほんの一秒にも満たない時間だった。
次男の唇に柔らかい感触がして、すぐに離れる。
目の前には口元を押さえ、顔を真っ赤にした彼女が立っている。
姉は潤んだ青い瞳で次男を見下ろしている。
「このことは、どうか、彼には、婚約者には、秘密にしておいてください」
蚊の鳴くような声でささやく。
泣きそうな顔をしている姉を見て、次男はようやく合点がいった。
次男は破顔する。
「もちろんですよ。このことは、口が裂けても誰にも言いません。二人だけの秘密です」
姉の背後で絶句して立ち尽くしている弟を、次男はあえて無視した。
伏し目がちの姉に笑いかける。
「あぁ、おれは何て幸せなんだろう。まさか愛しのあなたから、こうしてキスしてもらえるなんて。天にも昇る心地とは、きっと今のおれの心境を言うのでしょう」
姉は恥ずかしそうに笑う。
「まあ、お上手ですこと。でも、お気持ちだけいただいておきますわ。わたしには、婚約者がいます。あなたのご好意を、受け取ることは出来ません」
姉は態度を取り繕い、社交辞令を述べる。
次男に軽く礼をする。
「何か冷たい飲み物を取ってきますね。ここでしばらくお待ちください」
姉はいそいそと部屋を出ていく。
扉が静かに閉められる。
次男は満面の笑みで姉の後姿を見送った。
「あの、初々しい反応。恥じいの表情。伏し目がちの憂いを含んだ顔がたまらないよな」
次男は独り言のようにつぶやいて、一人で悦に入っている。
ベッドに横たわっていると、枕元に影が落ちる。
「お前は、さっきの一撃じゃ、まだ足りないようだな?」
凄味のある低い声が聞こえてくる。
次男が顔を上げると、仁王立ちの弟が目に入る。
口元は笑っているが、目は笑っていない。
全身から静かな怒りが立ち上っている。
「今度はどこを殴って欲しい? 頭か、顔か? それともそのお得意の口を、しばらく効けないようにしてやろうか?」
弟は拳を握りしめ、恐ろしい顔でベッドに横たわる次男を見下ろしていた。
――きっと、あの人にとっては、キスはあいさつみたいなものなのよ。
化粧室の鏡の前に立っていた姉は、自分の顔を見つめながら考えた。
白い肌、ふっくらした頬はわずかに赤みを帯び、青い目は恥ずかしさに潤んでいる。
頬が熱い。まだ胸の鼓動が収まらない。
姉は鏡に映った自分の顔をじっと眺める。
そこには憂い顔の自分が立っている。
――わたし、馬鹿みたい。あの人の挙動一つ一つに、あんなに緊張して。あの人も深い意味があるわけじゃないのに。ただのあいさつに、あんなに驚いたりして、まるで子どもみたい。
姉は先ほどの次男の行動を思い出し、また顔を赤らめる。
次男に対する怒りがふつふつと込み上げてくる。
――どうせわたしは、子どもっぽい女性ですよ。でもだからって、いつも夜会で付きまとったり、からかったりしなくてもいいのに。あの人は、どうしていつもわたしに意地悪するのかしら? わたしって、そんなにからかいがいがあるのかしら?
姉は次男のことを思い出す。
ずいぶん前に夜会で出会って、あんなことがあって以来、次男には顔を合わせる度に付きまとわれているような気がする。
あの一件以来、姉は次男と会わないように極力避けていたが、次男は姉を見つけるたびに、何かと声を掛けてくる。
その度に姉は何かと口実を見つけては、次男の前から逃げ出しているのだった。
――あの人も、どうしてわたしに好んで話しかけたりするのかしら。他の女性と話している方がずっと楽しいでしょうに。
夜会の度に、次男の隣には違う女性がいる。
多くの女性と楽しげに話している姿を見かけている。
そのため姉は次男が自分をからかっているだけで、まさか自分に気があるとは、夢にも思っていなかった。
――きっと、あの人は女性なら、誰でもいいのね。女性を口説くのが趣味なのよ、きっと。そこへたまたまからかいがいがありそうなわたしを見つけたから、付きまとうようになったのよ。
そして次男にとって、姉も口説く女性の一人に入っているのだろう。
男性慣れしていない姉をからかって、楽しんでいるのだろう。
――よしっ!
姉は自分の頬を両手で叩く。
――あんな人のからかいに、わたしは負けないんだから!
姉は胸の前で両手を握りしめる。
そこまで意気込んだところで、姉は急に虚しくなる。
――わたし、何してるんだろう。本当は今夜は、音楽学校の仲間とコンクールの練習があったのに。
姉は財閥令嬢であることを隠し、音楽学校に通っている。
音楽学校では姉は声楽中心に学んでいたが、音楽学校の友人たちは彼女が財閥令嬢であることを知らなかった。
近くにとり行われる音楽のコンクールに向けて、音楽学校の友人たちは練習に励んでいた。




