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姉と弟  作者: 深江 碧
六章 それぞれの事情
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それぞれの事情16

 弟の頭にある出来事の顛末が思い浮かぶ。

 義姉に本心を打ち明け、その気持ちを拒絶されたために弟が起こした殺人だった。

 思いが届かなかった弟は、逆上し、嫌がる義姉に強引に迫った。

 弟の心は義姉への長年の愛情が、拒絶された時の憎悪に取って変わり、持っていたナイフで彼女の胸を刺し貫いた。

 ことの顛末は振られた男が振った女を刺し殺す、そんなどこにでもあるような事件だった。

 義姉の死体を前にして立ち尽くしていた弟は、正気に戻り絶叫した。




 弟は毛布をはねのけ、ソファから飛び起きた。

 全身にびっしょりと汗をかき、心臓が早鐘のように打っている。

 体は小刻みに震え、まだ姉の体を刺し貫いたナイフの感触が腕に残っている。

 こと切れた姉の姿が脳裏に焼き付いている。

 ――ゆ、夢?

 弟は早鐘のように打つ心臓をなだめ、早い呼吸を整える。

 あの光景が夢だとわかると、全身から力が抜ける。

 ――夢で、良かった。

 心の底からそう思う。

 夢の前半ならばまだしも、後半が現実の出来事になったのならば、弟も生きてはいられない。

 主人である伯母に八つ裂きにされるか、叔父の手にかかって死ぬか、二つに一つだろう。

 ふと姉の無事が気にかかり、弟はそっとソファの上から降りる。

 足音を殺して廊下を歩き、姉の部屋の前に立つ。

 扉を開けて中を覗くと、ベッドの上で毛布にくるまり、姉は安らか寝息を立てて寝入っていた。

 弟は姉の無事を確認し、小さな安堵の息を吐き出す。

足音を殺して居間へと戻る。

カーテンを押し開け、窓の外を覗くと、まだ雪は降り続いていた。

辺りは暗く、建物の明かりもまばらだった。

起きるには早い時間だったが、一度目覚めてしまった弟はまた寝入る気にもなれず、居間の本棚の裏側にある隠し部屋へと向かう。

その部屋には武器弾薬や食料が保管されており、いざと言う時は籠城戦も出来るように設計されていた。

その部屋はかなり広い造りになっており、隣の部屋ではトレーニング機器も置いてあり、鍛錬も出来るようになっていた。

最近は姉と一緒にいる時間が長く、一人の時間がほとんど取れなかった。

体も随分と鈍ってしまったように思う。

体を動かして気を紛らわせていないと、先程の夢の恐怖が蘇ってくるようだった。

弟は一通りの機器を使い、体力づくりに励んだ。

ふと気を抜くと、あの時の夢が頭に蘇り、涙がこぼれ落ちそうになる。

弟は涙をぬぐい、鍛錬をして朝が訪れるのをじっと待った。




「今朝はどうしたの? 随分と口数が少ないみたいだけど、具合でも悪いの?」

 朝食を終えた弟が居間のソファで本を読んでいると、編み物をしていた姉にそう尋ねられた。

 目の見えない姉は、そういった気配には鋭い。

 弟は肩をすくめる。

「ちょっと、ね」

 返事をはぐらかす。

 姉に夢のことを素直に話す気にはならなかった。

 所詮夢の出来事だ。

 まともに取り合うだけ無駄なことだ。

 弟は自然と姉から目を逸らす。

 何となく気まずくなって、本を閉じ、ソファから立ち上がる。

 別の本を探そうと、本棚へと向かう。

 姉は眉を寄せる。

「本当に何でもないの? もしかして、昨晩わたしのせいで眠れなかった? ごめんなさい、わたしのせいで」

 弟は姉に背を向けて、その言葉を聞いていた。

「姉さんのせいじゃないよ」

 弟は振り返らず答える。

 本を本棚へ戻し、別の本を探す。

 姉はソファに座り、編み物をしていた手を止める。

 弟の背に顔を向ける。

「無理しないで。あなたは優しい子だから。わたしのことにつき合わせてしまって、本当に申し訳なく思ってるの。本当なら、叔父さんとの遺産相続のことは、あなたには何の関係もないことなのに。今では伯母さんがあなたを財閥の遺産相続から外すように言ってくれたことに、感謝しているのよ」

 口にしてから、姉は口を手で押さえる。

「と、ごめんなさい。もうあなたの前で弱音は吐かないと決めたのに。いつまでもあなたに頼ってばかりでは、わたしもいけないものね」

 姉は恥ずかしそうに微笑む。

「ねえ、だからあなたも、こうして二人で生き残ることが出来たのだから、素直に喜ばないといけないわ。こうして生き残れた幸運に、感謝しないと」

 姉は胸に手を当て、柔らかに微笑んでいる。

「ねえ、――。わたしはこうして目が見えなくなってしまったのだけれど、音楽は続けられるような気がするの。わたし、母さんのように音楽家になって、世界中で演奏するのが夢だったの。貧しい人たちも、裕福な人たちも、音楽の前には関係ないでしょう? みんなが音楽を聞いて、幸せな気持ちになってくれればいいな、と思うの」

 弟はソファに座る姉をゆっくりと振り返る。

 姉は恥ずかしそうにはにかむ。

「子どもっぽい夢だと、あなたは言うのでしょうね。でも、夢はあくまでも夢だもの。それに近付こうとする努力が大切なのであって、それが叶うかどうかは別の問題よ」

姉は弟に向け小首を傾げる。

「あなたの夢は?」

 とっさに聞かれ、弟は言葉に詰まる。

「僕の夢は」

 あんな悪夢ではない、自分のこの先の夢だ。

 頭にふっと浮かんだこうなって欲しい未来を言葉にする。

「僕の夢は、家族を持って平凡に暮らすこと。普通に仕事に就いて、好きな人と結婚して、子どもを持って、成長する子どもを見守って、夫婦で年を取っていくこと」

 口に出したら、ひどく凡庸な夢になってしまった。

 弟は苦笑する。

 何て今の自分の状況とかけ離れた夢だろうか。

 明日の命さえ分からない現状なのに。

 弟は口元に笑みを浮かべ、顔を上げる。

 口をぽかんと開け、感動した様子の姉と目が合った。

「わたしも、あなたの夢がいいわ。素敵な夢ね。そうね、音楽家になるよりも、わたしも家族を持って平凡に暮らすことが目標ね。でも、わたしは目が見えないから、旦那さんになる人は色々と大変ね。そういった理解を持ってくれる人と結婚しないとね。だからと言って、音楽家になる夢を諦めたわけではないのよ。それは別の夢よ」

 姉は頬を赤らめ、熱心に語る。

 ――それじゃあ、僕と。

言いかけた言葉を飲み込み、弟は軽く頭を振る。

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