それぞれの事情11
彼女はベッドのそばの椅子に座り、心配そうに次男を見つめている。
「何か飲み物でも持ってきましょうか? もしご家族の方が一緒であれば、言っていただければその方を呼んできましょうか」
次男は笑って返す。
「いえいえ、お気づかいは有難いのですが、おれはまだ独り身ですよ。それに家族と言っても大学に通っているんで、今は家族と離れて一人で暮らしています」
「そうだったのですか。それは申し訳ありませんでした」
彼女は素直に頭を下げる。
弟がいらいらとした口調で口を挟む。
「姉さん。そろそろ広間に戻らないと、父さんと母さんが心配するよ? こんな奴の世話は使用人に任せておいてさ。どうせただの捻挫だろう? さっさと広間に戻ろうよ」
彼女の弟は、どうやら次男と彼女が一緒にいるのに気に入らないようだった。
次男のことを、まるで彼女についた悪い虫とばかりに蔑んで見ている。
彼女は弟を振り返る。
「ただの捻挫だと言っても、本人は動けなくて辛いのよ。それにわたしをかばって足を捻挫してしまったのだもの。わたしがそばについていてあげるのが筋だと思うわ」
口にしてから、次男を見て頬を赤らめる。
「で、でも、わたしがそばについているのが迷惑でしたら、部屋から出て行きますけれど」
うつむいてしまった彼女を見て、次男は満面の笑みを浮かべる。
「もちろん、あなたのような美人にそばにいてもらえるのでしたら、大歓迎ですよ」
彼女はほっと安堵の息を吐き出す。
弟が不機嫌そうに舌打ちする。
「こんな奴、ほっとけばいいのに。どうせ下心があって、姉さんに近付いたに違いないよ」
「もう、あなたって、どうしてそう物事を悪い方向に考えるの」
彼女と弟との言い合いは続く。
「男はみんな獣だとよく言うだろう? 姉さんはさしずめ獣の群れの中にいる、無防備でおいしそうな子羊と言ったところだよ」
彼女はむっとして言い返す。
「あなたこそ、早く広間に戻った方がいいんじゃないの? どうせ女の子達を待たせているんでしょう? わたしが行くよりもあなたが戻った方が、女の子達はきっと喜ぶでしょうね」
次男は姉弟の言い合いを黙って見ている。
二人とも一歩も譲らず言い争っていたが、結局は弟の方が折れた。
「そんな男とこんな部屋で二人きりで、姉さんがどうなっても知らないよ」
そう言って、弟は鼻息荒く部屋から出て行った。
部屋の中は静かになり、次男と彼女の二人だけになった。
「申し訳ありません、弟はどうも人を疑い過ぎるところがあって」
彼女はベッドに座り上半身を起こしている次男に頭を下げる。
次男はこれは彼女を口説く絶好の機会だととらえた。
椅子に座った彼女の手をつかむ。
「お姉さん思いのいい弟さんじゃないですか」
「え、えぇ」
彼女の方に身を乗り出して、その青い瞳を覗き込む。
「いや、姉弟仲が良くてうらやましいですね。うちは弟が一人いるのですが、これがわがままな弟で」
「あ、あの」
彼女は戸惑いつつも、手を振りほどくこともできず、困ったように次男を見つめている。
これまで次男は整った顔立ちとその地位のために、彼の要求を断った女性は一人もいなかった。
そのため彼女に財閥総帥の甥だと言えば、次男に対してすぐに心を開いてくれると信じて疑わなかった。
「今夜の予定は空いているでしょうか? このそばにある良い店を知っているのです。もしよろしければ、夕食をご一緒して、その後は」
松葉杖をついての高級レストランの来店は、次男としても気が引けたが、目の前の美人と夕食を共にできるのであれば、恥も外聞もなかった。
彼女は青い目を伏せる。
その赤い唇から小さな声が漏れる。
「申し訳ありません。お誘いいただいたのはうれしいのですが、今夜は久しぶりに父や弟の家族が集まって家で夕食を一緒にできると、母もわたしもずっと楽しみにしていたのです。大変、申し訳ないのですが、今夜は」
彼女は次男に対して低く低く頭を下げる。
それにはさすがの次男もそれ以上強くは誘えなかった。
「そう、ですか」
毒気の抜かれた次男は彼女の手を握ったまま、肩を落とす。
「わたしに出来る事で、別のことでしたら、受けた恩をお返しいたします」
がっくりと肩を落とす次男に、彼女は慌てて言い添える。
次男は落ち込んだものの、まだ彼女に脈はあると考えた。
身を乗り出し、彼女に顔を近付ける。
「では、せめてあなたのような美しい女性と出会った思い出に、その頬にキスをしてもよろしいですか?」
彼女は青い目を見開く。
「キス、ですか?」
白い頬が見る見る赤くなり、彼女は次男から恥ずかしそうに視線を逸らす。
目を伏せる。
次男は恥じらう彼女の耳元にささやく。
「軽く、でいいのです。時間もそう取りませんし、すぐに済みますから。せめて、あなたを助けた思い出にしたいのです」
次男は極上の笑みを浮かべる。
彼女はしばし戸惑い、迷っている様子だった。
「わたしは婚約者もある身ですが、ここでお断りしては助けていただいたあなたにも申し訳が立ちません」
うつむき、じっと考え込んでいる。
結局は了承する。
「頬に、軽く、でしたら」
彼女は耳まで赤くなり、小さくうなずいた。
「では」
次男は彼女の頬に手を添え、唇を近付ける。
彼女はじっと青い目を伏せ、大人しくしている。
彼女の赤くなった頬に唇を近付ける。
しかし次男は最初から頬にキスするつもりはなかった。
頬も唇もキスをするのに大きな差はないと思っていた。
むしろ自分のような地位も権力もあって顔も良い男にキスされれば、女は誰であれ喜ぶだろうと考えていた。
次男は彼女のわずかに傾いだ頬を引き寄せ、その赤い唇をふさぐ。
彼女の青い両目が驚きに大きく見開かれる。
次男は彼女の柔らかい唇を味わう。
数瞬後、次男は思い切り横っ面をはたかれた。
目の前には青い両目に涙を浮かべ、口元を手で押さえた彼女が悲しげに立ち尽くしていた。
「わたしには、婚約者がいると、お伝えしたはずですが」
次男は女性に叩かれたことも初めてで、その時は訳も分からず彼女を見上げていた。
彼女は涙をぽろぽろとこぼし、次男を見下ろしている。
「あなたに助けていただいたことには感謝しています。出来る限り、あなたに恩返しもしたいと思っていました。ただ、婚約者がいながら、他の男性に唇を許すほど、わたしは不誠実な女ではありません。あなたがわたしをそんな不誠実な女だと受け取っていたのなら、それはわたしにとって耐えがたい屈辱です!」
彼女は溢れる涙をぬぐい、次男に背を向ける。
何も言わずに部屋の扉へと走っていく。