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姉と弟  作者: 深江 碧
六章 それぞれの事情
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それぞれの事情5

 姉は安堵の息を吐き出す。

 見るからに安心した様子の姉に、弟は我慢できずにぷっと吹き出す。

「自分の体より、家具が壊れているかどうかの心配をするなんてね。姉さんも、ここでの生活に馴染んできた証拠かな」

 姉は口を尖らせる。

「しょ、しょうがないでしょう? この部屋は、わたしの部屋ほど広くはないし。それに、わたし達にはお金はないもの。家具だって買い替えるお金はないでしょう? だから、大事にしないと」

 この部屋の光熱費や貸し賃を弟が払っていると、姉は思っているようだった。

「うん、まあね」

 弟は曖昧に答える。

 姉は知らないようだったが、弟の銀行の口座には自分が今まで裏で稼いでいたお金と、母親が弟を心配して振り込んでくれた生活費とで、相当な額が貯まっていた。

 両親や姉の銀行の口座は叔父に差し止められてしまったが、弟の隠し口座にまでは手が届かなかったのが幸いだった。

 二人で生活していくのに困らないだけの額が、その口座には入っている。

 しかしいつ何時、大金が必要になるとも限らないので、姉にはあえて知らせないでいた。

 弟は声を立てて笑う。

 姉に手を差し出す。

「だから部屋まで送って行くと言ったのに。姉さんが一人で行こうとするから」

「だ、だって」

 姉は子どものように唇を尖らせる。

「わたしだって、いつまでもあなたの足手まといになりたくないの。一人で何でも出来るようになりたいの。あなたに、迷惑を、かけたくない」

 姉は弟の手を握り、立ち上がる。

 顔を赤くして恥ずかしそうにうつむいている。

「お互いに生き残った唯一頼れる家族なのに。姉さんは僕に遠慮しすぎなんだよ」

 弟は困ったように笑い、姉の手を引く。

 彼としては目の見えない姉の世話をするのも、彼の仕事の一つだと考えている。

 姉は大人しく手を引かれ、ついて来る。

「わたしは、昔からあなたがうらやましかったの」

 姉は弟に手を引かれ、ぽつりとつぶやく。

「あなたはわたしと違って、勉強も運動も出来て、ダンスだって上手で、人付き合いだって上手くて、親族からの評判も良くて。本当に非の打ちどころのない出来た弟だったわ。そう、目の見えないわたしの世話もよくしてくれて、家事も料理も一手に引き受けてくれて。わたしにはもったいないくらいの、出来た弟だと思っているわ」

 弟は目の見えない姉の手を引き、寝室まで連れて行く。

 部屋の扉を開け、ベッドの上に座らせる。

 姉は弟の手を握りしめたまま話し続ける。

「わたしね、昔、父さんと約束したの。二人で母さんを守って行こうと。あの家に戻ってから、母さんは体調を崩すことが多くなったの。お医者様の話によると、母さんは繊細な人だから、財閥のパーティーや人の多いところは不向きだとおっしゃっていたわ。それに母さんは財閥の総帥である父さんに相応しい身分じゃないと言われて、いつも親族の人達からひどく言われていた。だから、わたしは、母さんがこれ以上悪く言われないように、一生懸命財閥の令嬢としての役目を果たそうとした。財閥の令嬢として相応しい振る舞いをするように、心がけてきたの」

 姉の見えない目から一筋の涙がこぼれる。

「でも、駄目だった。わたしには、令嬢としての相応しい振る舞いはできない。ダンスも礼儀作法も苦手なわたしは、財閥令嬢に相応しくなかった。わたしにはその立場にいるのが苦しくてたまらなかったの。出来ることなら、あのまま家族で演奏旅行を続けたかった。あの頃は、貧しかったけれど毎日が楽しかったもの。財閥の跡取りという立場も、できることならあなたに譲り渡したかった。あなたはきっと優秀な経営者になるでしょうね。あなたが父さんと母さんの本当の子どもなら良かったのに」

 姉は両手で顔を覆い、涙をこぼし続ける。

「ごめんなさい、あなたの気持ちも知らないで、わたしが勝手にこんなことを言ってしまって。あなたはあなたなりに苦しいことや悲しい体験があることは何となくわかる。あなたが家族にも言えない、大きな秘密を抱えていることも理解しているつもりよ。人には話せない秘密なんて、一つや二つ、誰にでも持っていることよね。わたしはあなたがそれを持っていたとしても、責めるつもりはないわ。あなたが孤児だった頃の辛い過去を聞かないのと同じで、過去よりも今現在が大切なのはわかっているつもりだもの。

でも、ここに来てから思うの。そもそも財閥総帥という立場にいなければ、父さんと母さんは死ぬことはなかった。わたしもこんな立場にいなければ、目が見えなくなってあなたの世話になることはなかったのに、と思うと、悔しくて仕方がないの。悲しくて、涙が止まらないの」

 弟は黙って立ち尽くし、ベッドの上に座り泣き続ける姉を見下ろしていた。

 姉は指で涙をぬぐいながら、笑おうとする。

「外ではきっと雪が降っているのでしょうね。駄目ね、冬の寒い時期は。色んなことが思い出されて、悲しくなってきちゃうから。さっきは変なことを言ってごめんなさい。今夜は温かくしてもう寝るわね。部屋まで送ってくれてありがとう。おやすみなさい」

 姉は顔を上げ、見えない目で弟を見上げる。

 弟はしばし躊躇っていたが、やがて諦めたように小さく息を吐き出す。

「おやすみ、姉さん」

 わずかに前かがみになり、姉の黒髪を押し上げその額に接吻する。

 それは二人が幼い頃、母親が寝かしつけるときにしてくれたおまじないだった。

 弟はゆっくりと唇を離す。

「良い夢を」

 寂しげに笑う。

 姉は泣き腫らした赤い顔で静かに微笑んでいる。

「あなたも、良い夢を」

 弟は部屋から出ると、音を立てずに扉を閉める。

 扉を背に、床に座り込む。

 膝を抱え、がっくりとうなだれる。

 後悔の気持ちが胸に押し寄せ、苛立たしげに銀髪をかきまわす。

 ――どうしてあの時、姉さんを慰めてあげられなかったんだ。姉さんは誰かにそばにいて欲しかったかもしれないのに。

 こんな雪も降りしきる寒い冬の夜は、誰でも心が弱くなってしまうものだ。

 引き取られる以前の一人ぼっちだった彼も、温かい窓の明かりをうらやましく思っていたものだ。

 一人でいる寂しさは、痛いほどよくわかるというのに。

 弟は夜会で言われた母の言葉を思い出す。

あの子は、あなたのことを嫌いではないと思うけれど、と母は言った。

もし母の言葉が真実なら、姉を抱いても拒絶はされないだろう。

それどころか喜んで受け入れてくれるかもしれない。

しかしそれをすればどうなるか、その先がわからない彼ではない。

ひと時の快楽に身を委ねて、取り返しのつかない状況になってしまう可能性もある。

むしろそちらの可能性の方が高い。

弟は短い銀髪をがしがしと指でかきまわす。

本能的な欲求と理性とを両天秤にかける。

膝を抱えてまんじりともせずに長い間考えて、弟は立ち上がる。

さっきまでいた居間へと向かう。

暖炉の火の始末をして、自分も休息を取ろうと考える。

今頃姉は死んだ両親のことを思って、ベッドの中で泣いているだろう。

繊細な母に似た心優しい姉は、財閥の苛烈な争いごとにはとてもついていけないだろう。

この先姉が生き残っていくには、叔父の追手を振り切るか、姉への追及を諦めてもらうしかない。

そのためにはどうすればいいのか、彼はあれこれと叔父に諦めてもらう手段を考えていた。

――やっぱり、叔父さんがどうして姉さんを執拗に狙うのか、その真意を探るしかないよな。

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