それぞれの事情3
弟が内心では、姉のダンスの相手を務めることにこの上なく喜んでいることも、彼が一途に思いを寄せていることも、姉は何も知らなかった。
弟の心中を知らない姉は、ダンスの練習相手が見つかったくらいにしか思っていなかった。
上機嫌で弟の手を取り、庭の緑の芝生の上に導いた。
「まずは、基本的なステップから教えて欲しいの」
姉はそう言って、彼の肩にそっと手をかける。
「それには、まずは体を寄せて、基本の型を作らないと」
姉は弟の手を取り、自分の腰へと回す。
体を寄せ、もう一方の手で弟の手を握りしめる。
彼は姉の細い腰に手を回し、抱き合うような格好になる。
ダンスでは基本的な形なのだが、相手が心を寄せている姉である以上、彼はこれ以上ないほど緊張していた。
姉の腰に回した手が、つい汗ばんでしまう。
しかも姉の顔が彼の眼下にあり、姉は背中の開いたドレスを着ていたので、その白いうなじや丸い肩、あらわになった背中がすぐそばに見えた。
彼は緊張のあまり、頭が真っ白になった。
まともなステップも踏めずに、姉に笑われたほどだった。
「わたしが相手をするのだもの。正式なパーティーの時のように、固くならなくたって大丈夫よ。失敗したってかまわないわ」
姉は笑ってそう言い、練習を続けた。
「ほら、落ち着いて。順番にステップを踏みましょう」
これではどちらが教えているのかわからなかった。
彼は姉の言葉に従いながら、徐々に落ち着きを取り戻して行った。
「ほら、1、2、3。1、2、3」
姉の声がすぐ耳元で聞こえる。
ほのかに漂う花の香りは、姉のつけている香水の匂いだろうか。
暗闇に照らされる姉の闇色のドレスが広がり、彼をこの出来事が現実のものではないという錯覚に陥らせた。
夢の中でさえ、彼はこんなに姉の姿を間近では見たことがないだろう。
彼のぎこちない動作も徐々に解きほぐれ、姉をリードするようになっていった。
姉の手を引き、彼女が踊りやすいように動く。
夜の空気は静まり返り、屋内の喧騒はここまで聞こえてこない。
まるでこの庭に二人だけしか存在しないかのようだった。
二人はけっこうな時間、踊っていた。
姉は白い息を吐き出し、頬を赤らめ、息が上がっている。
それでもやめようと言わすに、弟に練習に付き合ってもらった。
弟にとってはそれぐらいの運動量では、息が上がることはなかった。
ターンをしたところで、疲れのために姉がつまずき、弟の胸に倒れ込んだ。
「ご、ごめんなさい。少し、休んでもいいかしら」
姉は息を切らし、赤い顔で尋ねる。
彼はうなずく。
「もちろん」
弟としてはもっと踊っていたかったが、姉の体力を考えてそこでやめる。
姉の腰に回した手を離す。
「あ、ありがとう」
そう言ったものの、姉は息が切れてすぐには動けないようだった。
依然として弟の胸にもたれかかっている。
「ご、ごめんなさい。ちょ、ちょっと待ってね」
姉は弟にもたれかかったまま、うまく立てないようだった。
踊り過ぎたために、足が震えてすぐには立てないようだ。
弟の胸にすがりついて、必死に立とうとしている。
「大丈夫? 姉さん」
「え、えぇ」
姉はうなずくものの、うまく足に力が入らないようだった。
見ると膝が笑っている。
姉は弟の胸にすがりつき、困ったようにしている。
「ほら、僕が肩を支えているから、膝に力を入れて」
弟はそう言って、姉の体を支える。
脇を支え、背中に手を回す。
姉の白い首筋に顔を寄せる。
首筋からふわりと良い香りが漂う。
花の香りが彼の気持ちを惑わせる。
彼は胸の奥が締め付けられるような気持ちとともに、姉を抱きしめたい衝動に駆られる。
姉の腰に回した手に、ほんの少しだけ力を込めれば、抱きしめることが出来るだろう。
その形の良い顎を引き寄せ、姉の青い瞳をのぞきこめば、唇を奪うことが出来るだろう。
しかしそれは、彼には許されていないことだ。
姉の意志でそう望んだならともかく、彼の方から手を出すことは許されていない。
彼が姉に手を出したことが知られれば、どんな処罰を受けるか。
伯母の恐ろしさを知る普段の彼ならば、とてもそんな勇気はないだろう。
しかしこの夜ばかりは、彼も夢見心地でいたせいもあり、花の香りに酔っていたせいもあるだろう。
彼の心につい魔が差した。
背中に回した手に力を込め、姉の華奢な体を抱きしめる。
その顎を引き寄せ、姉の青い瞳をのぞきこむ。
「姉さん」
姉は驚いた様子で彼を見つめていたが、やがて何かに気が付いたように横を向いた。
「二人とも、こんなところにいたのか」
突然声をかけられ、彼は硬直した。
「父さん、母さん」
屋内に通じる扉の方を向く姉が、弾んだ声で叫ぶ。
弟の心にやましい気持ちが押し寄せ、顔から血の気が降りていく。
冷たい汗が背中を流れる。
扉の方を見ると、父親と母親がそろって立っている。
「こんな暗いところに二人でいて、どうしたんだい? 外は冷えるから、早く中へ入りなさい」
父親の問いに、姉は弟の体にしがみついたまま少し恥ずかしそうに答える。
「そ、その、弟にわたしのダンスの練習に付き合ってもらっていたの。そうしたら、練習のし過ぎで足が痛くなって、動けなくなってしまったの」
姉は父親に向かって苦笑いをする。
「まあ、それは大変だったわね。でも、ダンスの練習なら、言ってくれれば別に部屋を用意したのに」
母親が口元に手を当て、驚いた様子で話す。
「ごめんなさい、母さん。でも、父さんと母さんはお客様のお相手で、忙しそうだったから、言いにくくて」
ようやく動けるようになった姉は、もたれかかっていた弟の体から離れ、深い青色のドレスの裾をつまみ、芝生の上を横切って両親の元へと歩いていく。
「弟には無理を言って悪かったと思ってるわ。彼もパーティーで令嬢たちのお相手があったでしょうに。でもわたし、どうしてもダンスが上手になりたかったの。上手になって、みんなを見返してやりたかったの」
姉は必死に両親に訴える。
一方の弟は動けないまま、両親の顔色をうかがう。
両親は二人とも笑顔で姉と話している。
「それよりも、弟ったらダンスがとても上手なのよ? ずっとダンスの相手をしてもらっていたのだけれど、ちっともばてないの。わたしの方が先に音を上げてしまったわ」
「ほう、それは」
「あらまあ」
両親は共に驚いた顔をする。