それぞれの事情2
彼は自分のグラスに口をつける。
視線を階段の上で財閥の重役と談笑している両親へと移す。
このパーティーに集まった人々はほとんどと言っていいほどの人間が、財閥の総帥やその家族のことを良く思っていなかった。
すべてビジネス上の付き合いだけで、知り合いと呼べる人間は少なかった。
そして彼が心許せる人間も、引き取ってくれた家族以外に数えるほどしかいなかった。
そんな時、広間の中心部からざわめきが起こる。
見ると、姉が大理石の床に座り込んでいた。
傍らには困った様子の婚約者の姿が見える。
離れた位置にいる彼からは、彼らが話している声までは聞こえなかったが、周囲の人々がどよめき、婚約者が姉を助け起こそうとしていることはわかった。
姉は婚約者の手を取って立ち上がったが、うなだれたままだった。
ややあって婚約者に頭を下げ、その場を離れる。
早足で、広間の入口へと歩いていく。
彼は無意識のうちに姉の姿を目で追っていた。
「失礼します」
飲み物のグラスを手に、姉の後姿を追う。
姉は人の多い広間を出て、廊下で話す人々の間をすり抜け、明かりの灯る庭へと出た。
明かりの灯る芝生の庭には人の姿はほとんど見えなかった。
高い庭木が闇の中に暗い影を落としている。
姉は大きな階段に腰かける。
明かりの灯る庭をぼんやりと眺めている。
彼は建物の中から姉の姿を眺めていたが、遠慮がちに姉に近寄る。
「姉さん」
姉の背に話しかける。
姉はゆっくりと振り返る。
「あぁ、あなたなの」
弟の姿に気が付いた姉は表情を和らげ、彼に笑いかける。
「さっきはごめんなさいね。格好の悪いところを見せてしまって。昔から、どうもダンスは苦手でね」
姉は肩を落とし、庭木へと視線を戻す。
小さく息を吐き出す。
白い息がゆらゆらと暗い空へと昇っていく。
「あの人が、あぁ、あの人と言うのは婚約者のことね。彼が踊って欲しいと言うから踊ったのだけど、やっぱり駄目だったわ。途中で彼の足につまづいて、転んでしまった。彼は笑っていたけれど、わたしは申し訳なくて仕方がなかった。そばにいた女友達にも笑われてしまった。それで、あの場から逃げてしまったの」
姉は白い息を吐きながら、暗い空を見上げる。
「こういった場に来る女友達からは、財閥令嬢ならばお嬢様学校へ行けばいいのに、とは言われるけれど。わたしはどうしても、彼女たちの通う学校へ行きたくなかったの。そこならば、礼儀作法やダンスは授業の一環としてあるし、召使いの扱い方や貞淑な妻であるにはどうすればいいかとか、そう言ったことも教えてもらえたでしょうね。でも、わたしは母さんの勧める、普通の学校に通いたかったの。音楽科のある今の学校に通いたかったのよ。そして母さんがしたように、音楽の勉強がしたかった。父さんには無理を言って通わせてもらっているけれど、今の学校に不満はないもの」
姉はそこで言葉を切り、肩を落とす。
「でも、ね。こういう場に出るとわかるけど、やはりダンスや礼儀作法を、もっとしっかり勉強しないといけないな、と思うの。最低限のことが出来ないと、わたしじゃなくて、婚約者の彼に迷惑をかけてしまうんだ、と」
彼の心がずきりと痛む。
姉の婚約者に対する嫉妬の気持ちが、彼の気持ちをかき乱す。
そこでつい、彼は言ってしまった。
「姉さんを笑う女友達なら、二度と笑えないようにすればいい。姉さんがそう願えば、父さんの財閥の力で、どうにでもなるはずだよ」
「え?」
このパーティーの出席者は、父親の財閥と関係がある者ばかりだ。
父親の権力を使えば、姉を笑った彼女だけでなく、その一家もただでは済まない。
明日から路頭に迷うことになるだろう。
姉は一瞬弟の言っていることがわからないと言った様子で彼を見つめていたが、彼の言っていることがのみ込めたらしく、眉をひそめる。
「そんなこと、出来る訳ないでしょう? それに財閥の力は、そんなことに使うべきではないわ。誰かを貶めて平気でいられるほど、わたしは無神経じゃないわ」
姉の怒った顔を見て、彼は口を押えて閉口する。
彼がひた隠しにしている本音が、ついこぼれてしまった。
基本的に、彼は本質的に人間を信じていなかった。
それは彼がこれまで生きて来て出会ってきた人間が、信じられない人間ばかりだったためもある。
姉は頬を膨らませる。
小声でささやく。
「わたしがダンスが下手なことは、自分でもわかっていることだし」
姉は悔しそうに口を尖らせ、そっぽを向く。
白い頬に赤みが差す。
「ごめん、姉さん」
彼は姉の機嫌を直してもらおうと、許しを請う。
姉の顔を見、言いつくろう。
「姉さんは今まで練習する機会があまりなかっただけだよ。練習すれば、ダンスだってすぐに上達するし、みんなを見返すことが出来るようになるよ」
彼は内心の動揺を隠し、何気ない態度を装う。
姉は彼を振り返り、微笑む。
「ありがとう」
深い青色のドレスに身を包み、髪を上げた姉は、普段よりも大人っぽく見えた。
彼は頬に血が上がるのを感じ、視線を逸らす。
姉はじっと彼を見上げている。
「そうね。ダンスだって、練習すれば上達するわよね。今までは練習相手がいなかっただけだもの」
姉は独り言のようにつぶやき、ゆっくりと立ち上がる。
顔を背けている弟の前に立つ。
白いスーツで着飾った弟の姿を、じろじろと眺めまわす。
「ねえ、――。その、お願いがあるんだけど」
姉は手を合わせ、上目遣いに弟を見つめる。
どきりと弟の心臓が跳ね上がる。
「な、何?」
声が裏返ってしまう。
出来るだけ何気に様子を取り繕うとするが、無理だった。
心臓が早鐘のように打ち、肌寒い屋外にいるにも関わらず体中が熱く感じる。
「あなたには悪いと思っているのだけど。どうか、わたしのダンスの相手になって欲しいの。あなたなら身長もちょうどいいし、ダンスだってわたしより上手でしょう? お願いよ、――。わたしを助けると思って」
姉は手を合わせ、必死の様子で頭を下げる。
もちろん、両親や姉に頼まれればどんな理不尽な要求であろうとも、応じなければならないと命令されている弟だ。
ダンスの相手をしろと頼まれれば、彼に拒否する権利はない。
「し、仕方がないなあ。僕の他に練習相手がいないのなら、姉さんのダンスの相手を務めてあげないこともないよ?」
彼は腕組みをして、世間一般的な弟らしく渋々といった顔を作る。
「ありがとう、――」
姉は素直に喜んでいる。