幸せな記憶があるから人は生きられる10
弟はふっと表情を和らげる。
「ありがとう、姉さん。僕もわがままを言って悪かったよ。でも、できれば姉さんの子守り歌が聞きたいな。歌ってもらえるかな、姉さん」
姉は小さな声で答える。
「そ、それくらいなら。で、でも、歌が下手だからって、笑わないでね」
弟は笑ってうなずく。
「もちろん」
姉が自分で言うほど歌が下手ではないことを、弟はちゃんとわかっていた。
「じゃ、じゃあ、わたしは部屋へ戻って着替えてくるから。食事がすんだら、大人しく安静にすることを忘れないでね」
姉はそう言って、自分の部屋へと戻る。
部屋へ戻って、眠り込む前のことを思い出す。
――そう言えば、ベッドへ運んでくれたことを聞きそびれちゃった。
眠り込む前、彼女は弟の看病をしていた。
熱がなかなか下がらず、彼女は口移しで弟に薬を飲ませた。
その後、安心した彼女は弟のベッドの隣で眠り込んでしまった。
そして目が覚めたら、自分のベッドだった。
彼女は考え込みながら、服を着替える。
下着を変え、手探りで服を探し、新しい服に袖を通す。
長い髪にくしを入れながら、眉根を寄せる。
――やっぱり、目を覚ました弟が、わたしが眠っているのを見て、ベッドに連れて行ってくれたことしか考えられないわね。
一度考え出したら、結論が出るまで考え込んでしまう癖は、姉自身も良く思っていないのだが。
身支度を整えた彼女が部屋から出ると、ちょうど朝食の準備が整ったのか、食堂から弟が呼ぶ声が聞こえた。
彼女が席に着くと、弟が湯気の立ったコーヒーを彼女の前に置く。
「砂糖とスプーンはソーサーのところに置いとくね。ミルクはこの壺に入っているから」
弟は朝食の皿を彼女の前に並べ、ナイフとフォークを手渡す。
「ライ麦のパンはこっちのかごに入っているから。バターはその隣だよ」
てきぱきと指示を出す弟に、彼女はお礼を言う。
「ありがとう。とてもおいしそうな匂い。早速、いただくわね」
彼女は祈りの言葉を唱え、朝の食事に感謝した。
ナイフとフォークを持って、皿の上にあるだろうベーコンエッグを探す。
ナイフで苦労して切り、フォークですくい上げ、口へと運ぶ。
もぐもぐと咀嚼し、ごくりと飲み込む。
「おいしい」
彼女は口を押え、笑顔を浮かべる。
病院での薄味の食事以外のものは、久しぶりに口にしたためだろう。
弟の作った朝食のおいしさに感動する。
弟は機嫌を良くして、彼女へとトマトスープの皿とバターを塗ったライ麦パンをすすめる。
「どんどん食べてよ、姉さん。姉さんはただでさえ小食なんだから、たくさん食べないと健康になれないよ」
彼女は素直に手渡されたパンを受け取る。
小さくかじり、時間をかけて食べる。
彼女がパン一枚を食べている間、パン三枚を食べ終え、弟はおおよその食事を終えてしまったようだった。
ゆったりと食後のコーヒーを飲んでいる。
彼女は朝から疑問に思っていたことを口にする。
「ねえ、――。あなたの隣で寝ていたわたしを、ベッドに運んでくれたのは、あなたなの?」
彼女はポテトサラダをフォークですくい、口に運ぶ。
弟はコーヒーを飲む手を止め、顔を上げる。
小さくうなずく。
「うん、そうだよ。あのまま姉さんが床で寝ていたら、姉さんまで風邪をひいてしまうといけないと思って。ベッドまで運んだんだ」
「そうだったの。ごめんなさいね。あなたは病み上がりなのに、迷惑をかけて」
「ううん、かまわないよ。姉さんは軽いから、そんなに大変でもないし」
弟は極力平静を装って答える。
姉が弟に薬を飲ませようとした時、熱にうなされていた彼の意識がぼんやりとあったこと。
彼の床で眠ってしまった姉をベッドに運んだ時に、こっそりと悪戯したことなどは、口が裂けても言えなかった。
「そんなことより、早くトマトスープを食べないと冷めちゃうよ。食事は温かいうちがおいしいんだから、食べて食べて。姉さんは目が見えないから、何なら僕が食べさせてあげようか?」
弟の軽口に、姉の頬が赤く染まる。
「そ、そこまで、わたしもあなたの世話になるわけにはいかないわ。自分で食べられるから、だ、大丈夫よ」
そう言って、姉はたどたどしい手つきでトマトスープを口へと運ぶ。
目が見えないため、何度もスプーンを皿にぶつけながら、苦労して食べる。
普通の人の倍以上の時間をかけ、姉はようやく朝食を食べ終わった。
コーヒーを飲みながら、姉は息を吐き出した。
流し場で皿を洗う弟の背に呼びかける。
「ありがとう、――。わたしはあなたのおかげで、こうして生きていられる。あなたには言葉で言い尽くせないくらい、感謝しているわ」
姉はそう言って弟の背に微笑む。
弟は振り返って、姉の笑顔を眺めていた。
流し場に向き直り、皿をゆすいでいる。
「僕も、姉さんに感謝しているよ。姉さんがいなかったら生きていられないのは、僕も同じだよ」
弟は小声でささやく。
その言葉は水音にかき消されて、姉の耳に届かなかった。
彼は流し場を見下ろし、寂しげに笑う。
「父さんや母さん、姉さんが、僕にどれだけかけがいのない物を与えてくれたか、きっと姉さんは知らないだろうね。僕に生きる意味を与えてくれたことも、人を信じること、人を好きになることを教えてくれたのも、すべて姉さんのおかげなんだ」
ひっそりとつぶやいた言葉は、水音に溶け消えた。
「ほら、約束通り、ちゃんと安静にするのよ?」
食事の片づけをした後、弟は約束通り、ベッドにもぐりこんだ。
「わかってるよ」
大人しく横になる。
「姉さんこそ、約束を覚えてるよね?」
弟に言われ、椅子に座った姉は差し出された彼の手を握る。
恥ずかしそうに咳払いをする。
「じゃ、じゃあ、昔母さんがよく歌ってくれた」
彼女はゆっくりと歌い出す。
姉の澄んだ歌声が部屋に響き渡る。
その曲は美しい音階だけれど、どこか寂しげな子守唄だった。
母親が故郷の子ども達を思う歌だった。
小麦畑の中にある小屋の四季を歌った曲だった。
母親が子ども達を思う優しげな歌詞と旋律が耳に心地よい。
弟は姉の手を握り、穏やかな気持ちで目を閉じる。
黄金色に染まった小麦畑の小屋にいる母親の姿が、姉と重なって見える。
この子守唄の謎めいたところは、父親の名が歌われていないことだった。
母親がここにはいない父親を思う歌詞はあるが、父親の姿は歌われていない。
父親は働きに出ているのか、戦争に出兵しているのか、判断のつかない曲だった。
やがて冬が来て、春を待ちわびるところで、この曲は終わる。
子守唄を歌い終えた姉は、弟の安らかな寝息を耳にして、静かに微笑む。
「おやすみなさい」
わずかに身をかがめ、弟の銀色の髪に手を伸ばす。
額にかかった前髪をどかし、そっとキスする。
部屋の窓から、ひと時だけ雲の隙間から太陽が差し込み、部屋を明るく照らし出した。
姉が彼から離れ、椅子に座ると、太陽は再び雲に隠され、辺りは薄暗くなった。
弟が寝入った後も、彼女はずっと弟の手を握っていた。
この先のことを考え、不安に胸を押しつぶされそうになりながら。
不安な未来に震えながらも握った手を離さないでいた。
二人の行く末を暗示するように、灰色の雲が空に広がりつつあった。
いつの頃からだろう。
薄暗い空に雷鳴が轟きだしたのは。
西の空に閃光が走ったのは。
この先二人がどうなったのか。
この姉弟の話の続きはまたいずれまたの機会に。




