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姉と弟  作者: 深江 碧
五章 幸せな記憶があるから人は生きられる
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幸せな記憶があるから人は生きられる10

 弟はふっと表情を和らげる。

「ありがとう、姉さん。僕もわがままを言って悪かったよ。でも、できれば姉さんの子守り歌が聞きたいな。歌ってもらえるかな、姉さん」

 姉は小さな声で答える。

「そ、それくらいなら。で、でも、歌が下手だからって、笑わないでね」

 弟は笑ってうなずく。

「もちろん」

 姉が自分で言うほど歌が下手ではないことを、弟はちゃんとわかっていた。

「じゃ、じゃあ、わたしは部屋へ戻って着替えてくるから。食事がすんだら、大人しく安静にすることを忘れないでね」

 姉はそう言って、自分の部屋へと戻る。

 部屋へ戻って、眠り込む前のことを思い出す。

 ――そう言えば、ベッドへ運んでくれたことを聞きそびれちゃった。

 眠り込む前、彼女は弟の看病をしていた。

 熱がなかなか下がらず、彼女は口移しで弟に薬を飲ませた。

 その後、安心した彼女は弟のベッドの隣で眠り込んでしまった。

 そして目が覚めたら、自分のベッドだった。

 彼女は考え込みながら、服を着替える。

 下着を変え、手探りで服を探し、新しい服に袖を通す。

 長い髪にくしを入れながら、眉根を寄せる。

 ――やっぱり、目を覚ました弟が、わたしが眠っているのを見て、ベッドに連れて行ってくれたことしか考えられないわね。

 一度考え出したら、結論が出るまで考え込んでしまう癖は、姉自身も良く思っていないのだが。

 身支度を整えた彼女が部屋から出ると、ちょうど朝食の準備が整ったのか、食堂から弟が呼ぶ声が聞こえた。

 彼女が席に着くと、弟が湯気の立ったコーヒーを彼女の前に置く。

「砂糖とスプーンはソーサーのところに置いとくね。ミルクはこの壺に入っているから」

 弟は朝食の皿を彼女の前に並べ、ナイフとフォークを手渡す。

「ライ麦のパンはこっちのかごに入っているから。バターはその隣だよ」

 てきぱきと指示を出す弟に、彼女はお礼を言う。

「ありがとう。とてもおいしそうな匂い。早速、いただくわね」

 彼女は祈りの言葉を唱え、朝の食事に感謝した。

 ナイフとフォークを持って、皿の上にあるだろうベーコンエッグを探す。

 ナイフで苦労して切り、フォークですくい上げ、口へと運ぶ。

 もぐもぐと咀嚼し、ごくりと飲み込む。

「おいしい」

 彼女は口を押え、笑顔を浮かべる。

 病院での薄味の食事以外のものは、久しぶりに口にしたためだろう。

 弟の作った朝食のおいしさに感動する。

 弟は機嫌を良くして、彼女へとトマトスープの皿とバターを塗ったライ麦パンをすすめる。

「どんどん食べてよ、姉さん。姉さんはただでさえ小食なんだから、たくさん食べないと健康になれないよ」

 彼女は素直に手渡されたパンを受け取る。

 小さくかじり、時間をかけて食べる。

 彼女がパン一枚を食べている間、パン三枚を食べ終え、弟はおおよその食事を終えてしまったようだった。

 ゆったりと食後のコーヒーを飲んでいる。

 彼女は朝から疑問に思っていたことを口にする。

「ねえ、――。あなたの隣で寝ていたわたしを、ベッドに運んでくれたのは、あなたなの?」

 彼女はポテトサラダをフォークですくい、口に運ぶ。

 弟はコーヒーを飲む手を止め、顔を上げる。

 小さくうなずく。

「うん、そうだよ。あのまま姉さんが床で寝ていたら、姉さんまで風邪をひいてしまうといけないと思って。ベッドまで運んだんだ」

「そうだったの。ごめんなさいね。あなたは病み上がりなのに、迷惑をかけて」

「ううん、かまわないよ。姉さんは軽いから、そんなに大変でもないし」

 弟は極力平静を装って答える。

 姉が弟に薬を飲ませようとした時、熱にうなされていた彼の意識がぼんやりとあったこと。

彼の床で眠ってしまった姉をベッドに運んだ時に、こっそりと悪戯したことなどは、口が裂けても言えなかった。

「そんなことより、早くトマトスープを食べないと冷めちゃうよ。食事は温かいうちがおいしいんだから、食べて食べて。姉さんは目が見えないから、何なら僕が食べさせてあげようか?」

 弟の軽口に、姉の頬が赤く染まる。

「そ、そこまで、わたしもあなたの世話になるわけにはいかないわ。自分で食べられるから、だ、大丈夫よ」

 そう言って、姉はたどたどしい手つきでトマトスープを口へと運ぶ。

 目が見えないため、何度もスプーンを皿にぶつけながら、苦労して食べる。

 普通の人の倍以上の時間をかけ、姉はようやく朝食を食べ終わった。

 コーヒーを飲みながら、姉は息を吐き出した。

流し場で皿を洗う弟の背に呼びかける。

「ありがとう、――。わたしはあなたのおかげで、こうして生きていられる。あなたには言葉で言い尽くせないくらい、感謝しているわ」

 姉はそう言って弟の背に微笑む。

 弟は振り返って、姉の笑顔を眺めていた。

 流し場に向き直り、皿をゆすいでいる。

「僕も、姉さんに感謝しているよ。姉さんがいなかったら生きていられないのは、僕も同じだよ」

 弟は小声でささやく。

 その言葉は水音にかき消されて、姉の耳に届かなかった。

 彼は流し場を見下ろし、寂しげに笑う。

「父さんや母さん、姉さんが、僕にどれだけかけがいのない物を与えてくれたか、きっと姉さんは知らないだろうね。僕に生きる意味を与えてくれたことも、人を信じること、人を好きになることを教えてくれたのも、すべて姉さんのおかげなんだ」

 ひっそりとつぶやいた言葉は、水音に溶け消えた。

「ほら、約束通り、ちゃんと安静にするのよ?」

 食事の片づけをした後、弟は約束通り、ベッドにもぐりこんだ。

「わかってるよ」

 大人しく横になる。

「姉さんこそ、約束を覚えてるよね?」

 弟に言われ、椅子に座った姉は差し出された彼の手を握る。

 恥ずかしそうに咳払いをする。

「じゃ、じゃあ、昔母さんがよく歌ってくれた」

 彼女はゆっくりと歌い出す。

 姉の澄んだ歌声が部屋に響き渡る。

 その曲は美しい音階だけれど、どこか寂しげな子守唄だった。

 母親が故郷の子ども達を思う歌だった。

 小麦畑の中にある小屋の四季を歌った曲だった。

 母親が子ども達を思う優しげな歌詞と旋律が耳に心地よい。

 弟は姉の手を握り、穏やかな気持ちで目を閉じる。

 黄金色に染まった小麦畑の小屋にいる母親の姿が、姉と重なって見える。

 この子守唄の謎めいたところは、父親の名が歌われていないことだった。

 母親がここにはいない父親を思う歌詞はあるが、父親の姿は歌われていない。

 父親は働きに出ているのか、戦争に出兵しているのか、判断のつかない曲だった。

 やがて冬が来て、春を待ちわびるところで、この曲は終わる。

 子守唄を歌い終えた姉は、弟の安らかな寝息を耳にして、静かに微笑む。

「おやすみなさい」

 わずかに身をかがめ、弟の銀色の髪に手を伸ばす。

 額にかかった前髪をどかし、そっとキスする。

 部屋の窓から、ひと時だけ雲の隙間から太陽が差し込み、部屋を明るく照らし出した。

 姉が彼から離れ、椅子に座ると、太陽は再び雲に隠され、辺りは薄暗くなった。

 弟が寝入った後も、彼女はずっと弟の手を握っていた。

 この先のことを考え、不安に胸を押しつぶされそうになりながら。

不安な未来に震えながらも握った手を離さないでいた。

 二人の行く末を暗示するように、灰色の雲が空に広がりつつあった。

いつの頃からだろう。

薄暗い空に雷鳴が轟きだしたのは。

西の空に閃光が走ったのは。

この先二人がどうなったのか。

この姉弟の話の続きはまたいずれまたの機会に。

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