幸せな記憶があるから人は生きられる9
しかし、もしかしたら上手くいくかも、と考え直する。
彼女の頭の中で、様々な考えがぐるぐると円を描く。
彼女の思いついた方法とは、口移しで弟に薬を飲ませる方法だった。
人工呼吸の方法を応用すれば、弟に薬を飲ませることが出来るかも、と考えついたのだ。
しかしそんな馬鹿な方法は、試すだけ無駄なのかもしれない。
彼女は何錠か残った痛み止めの薬を前に、悩む。
弟の苦しそうな様子と、自分の気持ちとを天秤にかける。
小一時間考え込む。
恥ずかしさに顔を赤らめながら、ぶんぶんと顔を振る。
――わたしのことはどうでもいいの。とりあえず、弟を助けることが最優先なの。薬を飲んでもらえれば、きっと良くなるはずだから。
彼女は意を決して、薬と水を口に含む。
――し、失敗したら、失敗しただけのことなんだから。薬が無駄になるけれど、薬はまだあるんだから。
そう心に念じ、彼女は立ち上がる。
弟の火照った頬に手を添え、かがみこむ。
触れた頬は熱く、玉のような汗がたくさん浮かんでいる。
彼女は弟のわずかに開いた口に、自分の口を重ね、薬を流し込んだ。
気が付けば彼女は弟のベッドの隣で丸くなって眠っていた。
彼女はぼんやりとしながら起き上がり、隣に寝ている弟の様子をうかがう。
弟の寝息は穏やかで、彼女はとりあえず安堵した。
ずっと看病していたせいか、お腹は空いていたが、疲れと眠気の方が勝っていた。
再び固い床の上に横になると、すぐに眠気が舞い戻ってきた。
次に目が覚めたのは、固い床の上ではなく、自分のベッドの上に寝かされていた。
彼女が驚いて飛び起きると、隣の台所から料理をする音が聞こえてきた。
――あれ? わたし、いつの間にベッドまで戻ったの?
自分でベッドまで行った記憶はない。
弟が運んでくれたのだろうか。
彼女がベッドから降りて、部屋の入口へと向かう。
隣の台所を覗くと、肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
「姉さん、おはよう」
弟の元気そうな声が返ってくる。
彼女のお腹がくうと鳴る。
「お、おはよう」
彼女は戸惑いながらあいさつする。
本当に弟が元気になったのかと、疑わしげに眺めている。
弟はそんな姉の視線に気付いたのか、にっこりと笑いかける。
「朝食は、姉さんの好きなベーコンエッグだよ。それにトマトスープに、付け合せにポテトサラダとレタスとトマト、ライ麦のパンにはバターを用意しているけれど。朝食の準備が出来るまで、もう少し待ってて」
明るい声が返ってくる。
彼女はまだ混乱している。
「ね、ねえ、もう熱は下がったの? 起きて大丈夫なの?」
かろうじてそれだけを聞いてみる。
いくら弟が体が頑丈だと言っても、昨日一日弟が熱で苦しんでいるのを見ている。
そんなすぐに動けるはずはないと思ったのだ。
それに銃で撃たれた脇腹の傷はまだ完治していない。
十分な安静が必要だった。
「姉さんは心配性だなあ。僕はもう大丈夫だよ」
弟は笑いながら答える。
「本当に?」
彼女は手探りで壁を伝い、弟のところまで歩いていく。
弟の前に立つと、相手の肩に手を置いて顔を上げる。
「本当に熱が下がったか確認するから。あなたの額をわたしの額に当てて」
彼女は不安になって弟を見上げる。
弟は肩をすくめ、ベーコンを焼いていたフライパンの火を止める。
「はいはい」
姉に言われた通り、弟は大人しく姉の額に額をくっつける。
すぐに離し、姉は難しい顔でつぶやく。
「まだ、微熱があるわね。大人しく寝てなきゃ駄目じゃない」
姉は弟をたしなめる。
弟は困ったような顔で笑う。
「これぐらい平気だよ」
「駄目よ。あなた、お腹の傷だってまだ治ってないのに」
「じゃあ、朝食を食べ終わったら休むよ。姉さんだって、お腹減っているんだろう?」
弟の言葉に、姉は返す言葉もなかった。
お腹は正直なもので、空腹を訴えている。
しぶしぶといった様子で、彼女はそっぽを向く。
「わかったわ。じゃあ、朝食が終わったら、ちゃんとベッドで休むのよ?」
「わかってる」
それから少し考え、弟は姉に顔を近付け、意地悪く笑う。
「どうせ寝るなら、姉さんも一緒にどう? 姉さんに添い寝してもらえると、僕としてももっとよく眠れると思うのだけれど」
姉の白い頬が紅潮する。
「わ、わたしは」
とっさに言葉に詰まる。
昨夜、弟の看病のために、口移しで薬を飲ませたことを思い出す。
姉は耳まで赤くして、恥ずかしそうにうつむいている。
「ほら、小さい頃みたいに、一つのベッドで一緒に寝ようよ。姉さんが子守唄を歌って、夜にぬいぐるみを寝かしつけていた時みたいに」
弟が家に引き取られて間もない頃、幼い彼女は夜が怖くて一人で眠れない時があった。
そんな時彼女は、たくさんのぬいぐるみを持って、弟の部屋へ行くのだった。
広いベッドに弟とぬいぐるみをたくさん寝かせて、子守唄を歌い、自分もその隣に眠る。
そうすれば幼い彼女も夜の怖さが和らぎ、安心して寝つけるのだった。
「そ、そんな昔のこと、いまさら引き合いに出されても」
彼女は顔を両手で覆う。
顔から火が出そうなくらい、恥ずかしかった。
そんな昔の記憶、いっそ忘れて欲しかった。
弟はこれ以上姉をいじめても可哀想と思い、言い添える。
「冗談だよ。家の広いベッドならいざ知らず、こんな小さなベッドで二人が一緒に眠れるわけがないだろう? 姉さんはすぐに僕の言ったことを真に受けるんだから」
姉の方から彼にそう望むならいざ知らず、彼の方から姉に迫ることはできなかった。
普段から姉のことをからかっている彼だが、伯母にそんなとことを見られでもしたら、姉を溺愛する伯母が黙っているはずはない。
すぐに彼は施設に連れ戻され、再教育を受けるか、そのまま処分されるか、どちらかの道を辿るだろう。
姉は顔を赤らめたまま、蚊の鳴くような声でささやく。
「同じベッドで添い寝は出来ないけれど、昔風邪で寝込んだ時に母さんがしてくれたように、あなたのそばについていてあげることはできる。あなたの手を握っていることはできる。そ、それじゃあ、駄目かしら?」
姉としては精一杯の提案なのだろう。
恥ずかしさに身を震わせている。
姉はどこまでも人が良い。
彼としてはどこまでも本気なのだが、冗談半分に聞こえる軽口にも真剣に答えてくれる。