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姉と弟  作者: 深江 碧
五章 幸せな記憶があるから人は生きられる
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幸せな記憶があるから人は生きられる8

 気が付けば、女の子の手を振り払っていた。

 女の子は青い目を丸くして、彼を見つめていた。

「あ、えっと、ご、ごめんなさい。男の子は、髪に触られること、あまり好きじゃないよね。わたし、ひどいことしちゃった」

 女の子は手を引っ込め、しょんぼりとする。

 黙り込んでうつむいてしまった女の子を前に、彼は心の中で動揺する。

 家族の要求にはどんなことでも応じなければいけない、という伯母との約束事をさっそく破ってしまった。

 もしこんなことが伯母にばれたら、彼は折檻を受けるどころか、欠陥品として処分されるかもしれない。

 彼は必死に謝罪の言葉を探す。

 女の子の機嫌を取ろうとする。

「そ、その、ごめん」

 彼はたどたどしく話し、女の子に頭を下げる。

 女の子は悲しげに微笑みながら答える。

「ううん、わたしこそごめんなさい。よく考えたら、わたしはあなたの迷惑を全然考えてなかったね。これからは、あなたの髪に触ることは、出来るだけしないようにする。これからは一緒の家族として暮らすことになるんだものね。他にも嫌なことがあったら、遠慮なく言ってね」

 女の子はにこにこと笑っている。

 彼は面食らう。

 誰かの迷惑という言葉など、こんな小さな女の子の口から出るとは思わなかった。

 彼も含め、彼の周囲の人間は自分のことばかり考え、他人のことなどどうでもいいと考えていると思っていた。

 だから彼は女の子の言葉に驚き、どう返事をすればいいかわからなかった。

「――、――?」

 不意に部屋の外から母親の声が聞こえてくる。

「あ、母さん」

 女の子は絨毯の上から立ち上がり、部屋の扉へ走っていく。

 扉を開けると、母親が顔をのぞかせる。

「――、こんなところにいたの? これから伯母さんたちと一緒にその子の歓迎会をするから、早く食堂へいらっしゃい」

「はあい」

 母親は扉の前で待っている。

 女の子は返事をして、彼を振り返る。

 彼のそばまで戻ってきて、手を差し出す。

「ほら、食堂へ行きましょう? あっ」

 何かに気が付いたように手を引っ込める。

「手を繋ぐのも、嫌?」

 女の子はおそるおそる聞いてくる。

 彼は小さく息を吐き出した。

「別にいいよ」

「そ、そう?」

 女の子は自信がなさそうにそろそろと彼に手を差し出す。

 彼は女の子の手を握って絨毯の上から立ち上がる。

「よかった」

 女の子はにこにこと笑っている。

 彼の表情がふっと和らぐ。

 女の子の笑顔を眺めていると、自然と心の中が温かくなるようだった。

 気が付けば口元に優しい笑みを浮かべていた。

 そんな二人を見た母親が、頬に手を当てる。

「あらあら、二人ともいつの間にか仲良くなったのね」

 女の子は満面の笑みで上機嫌で答える。

「うん。わたし、――が家族になって、とっても良かったと思ってるの」

「それは良かったわね。お父さんとお母さんも、周囲の反対を押し切って、子どもを引き取ったかいがあるというものだわ」

 女の子と母親の会話を聞いて、彼は自分の頬に触れる。

 奇妙な気持ちになる。

 ――僕が誰かと仲良くなるなんてあるのか? 他人のことなんて考える余裕のなかった僕が?

 彼は自分の心に問い掛ける。

 彼の口元に浮かんでいた笑みは、すぐに消えてしまったが、彼の心には不思議な温かさが残った。

引き取られてから徐々に、彼は護衛対象である家族の優しさに心を開いていくことになるのだが、表向き家族との距離を置いた態度に変わりなかった。

その態度に怒った姉が癇癪を起したのは、前述の通りだ。

 それ以来、彼が引き取られたその冬の季節、彼の家族は毎年、彼の誕生日会を行った。

 彼は自分の生まれた日を知らなかった。

 本当の母親が生きていた頃でさえ、彼は自分の誕生日を祝ったことがなかった。

 そこで家族は彼を引き取ったその日を、彼の誕生日としたのだ。

 街が華やかになる頃になると、家族は彼の誕生日を祝った。

家族に祝われる誕生日会を、彼は毎年楽しみに待つようになった。

 もう彼は、冬のこの季節が嫌いではなくなった。

 華やかな街を歩いて心が痛むことも、あまりなくなった。




姉は弟のそばから片時も離れず看病したが、熱はなかなか下がらず、彼が意識を取り戻すこともなかった。

 朝方から熱の出た弟は、下がるどころか熱が上がる一方だった。

 彼女に出来ることは、弟の汗をぬぐうことと水で濡らした額の布を取り換えること、弟に寄り添ってその手を握りしめてあげることだけだった。

 夜になって、姉は弟の容体が不安で泣きたい気持ちになった。

 もしも弟がこのまま命を落としたら、彼女も生きていけないだろう。

 その時は彼女も最悪の決断をしなければならなくなるだろう。

 暗くなる気持ちを振り払い、彼女は必死に考える。

 ――わたしが、怪我の後遺症で熱を出している時、先生は何をしてくれたかしら。何の薬を飲ませてくれたかしら。

 病院で彼女に親切にしてくれた主治医である女医の言動を思い出す。

 姉は時々事故の傷が痛んで、熱を出す時があった。

 そんな時、女医は痛み止めの薬と抗生物質の薬を彼女にくれたのだった。

 ――そ、そうだ。痛み止めと抗生物質だわ。

 彼女は立ち上がり、自分の部屋へと戻る。

丁寧に折りたたんでとっておいた、病院服のポケットに手を入れる。

 そこには以前、女医にもらったままポケットに入れておいた痛み止めと抗生物質の薬が入っていた。

 ――これを飲めば、少しは熱が引くかもしれない。

 彼女は立ち上がり、台所にコップを取りに行く。

 コップに水を注ぎ、それを持って弟の部屋に戻ってくる。

 弟のわずかに開いた口から、痛み止めの薬と抗生物質の薬を入れ、水を含ませる。

 もちろん熱にうなされる弟が薬を飲んでくれるはずもなく、水と一緒に吐き出される。

吐き出された薬を探し、彼女はうなだれる。

 ――やっぱり、駄目よね。意識のない弟が薬を飲んでくれるわけないわよね。

 彼女は床にこぼれた水を雑巾で拭き、手探りで薬を拾い上げる。

 悲しい気持ちで、弟の苦しそうな息遣いを聞いている。

 それを聞いているうちに、ふと彼女の頭にある考えがひらめく。

 それを思いついた瞬間、彼女はその考えに思い至った自分が恥ずかしくなった。

 これは非常事態なんだから、と自分に言い聞かせ、そんな上手くいきっこないと、考えを訂正する。

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