幸せな記憶があるから人は生きられる7
彼は新年も近い冬のその時期が大嫌いだった。
街に色とりどりの明かりが灯り、人々が華やいだ表情を見せるその時期、彼はいつも憂鬱な気分になる。
母親が生きていた頃はそうでもなかったが、母親が死んでからはその時期が大嫌いになった。
この国では、路地に住む貧しい人々の間で凍死者も出るほど冬の寒さは厳しい。
家族のある人間は、日の短くなった冬の道を家路へと急ぎ、暖かな暖炉を家族や親しい人々と一緒に囲むのだった。
彼は家の窓から見える、その暖かな明かりが嫌いだった。
この国の冬はただでさえ長く、大量に降り積もる雪が、暗く陰惨な印象を与える。
そんな中この時期だけは、人々の顔が笑顔に満ち、街が色とりどりの明かりやにぎやかな音楽で溢れるのだった。
その街の様子は、彼が幼い頃から何度となく見てきた光景だったが、彼にとっては何も感じなかった。
それは彼には遠い世界での出来事だった。
その街の窓に灯る明かりの一つ一つにある、喜びや希望、温かさは、彼には無縁の事柄だった。
明かりに映し出される彼らの顔は、笑顔であったし、喜びに満ち足りているように彼には思えた。
まるでこの世の不幸などいっさいないかのように。
いつまでも無上の幸せが続くかのような顔で、彼らは笑い合っていた。
その明かりを見るたびに、彼は胸の奥が締め付けられた
みじめな気持ちになった。
唯一の家族である母親が死んでから、彼は日々を生きるのに精一杯だった。
伯母に引き取られ、生きるためにその手を汚さなければならなかった。
施設の中で彼に手を差し伸べてくれる者はほとんどいなかった。
彼の主人である伯母は、彼のことを嫌っていたし、日々の訓練は厳しく、彼は毎日を何の楽しみもなく必死に生き延びていた。
その頃の彼は、毎日をただ生き延びるために生きていた。
同じ頃に施設に引き取られた子ども達は仕事に失敗して、次々と命を落とした。
子ども達の死は、身寄りのない浮浪児の死として処理され、誰も不審がる者はいなかった。
彼自身もいつか仕事に失敗して、街の裏路地で雪に埋もれて冷たくなっているに違いない。
子ども達の死は、明日の彼自身かもしれない。
毎日そんな気持ちに苛まれつつ、彼は仕事を淡々とこなしていた。
幼い彼は、そんな不安な毎日がずっと続くと思っていた。
自分が生きるために他人の命を奪うこと以外、彼は自分の生きる術を知らなかった。
ある日を境に、幼い彼の生活は一変する。
ある巨大財閥の総帥の養子となることが決まったのだ。
彼が選ばれた理由は、外見が良かったことと、体に目立った外傷が少ないことだった。
数いる子ども達の中から、彼が選ばれた理由はそれだけだった。
周囲の子ども達は彼をうらやましがり、羨望の目を向けた。
その施設では、お金持ちの家族と身寄りのない子どもとの養子縁組をしていたが、引き取られた子ども達がどうなったかは知らなかった。
家族を守るために死んだとか、引き取られてから家族の虐待を受けて死んだとか、いいように家族に利用されているとか、嫉妬の意味を込めて子どもは好き勝手に噂していた。
彼はお風呂に入れられ、体を石けんで丁寧に洗われた。
髪をきれいに切りそろえられ、上等な服を着せられた。
普段の厳しい訓練の代わりに、最低限の礼儀作法を徹底的に教えられた。
伯母の元に来てから、他の子ども達と同じ冷たい泥水のようなスープとカビの生えた固いパンしか食べたことのなかった彼は、初めて温かい食事というものを口にした。
湯気の立ち上るじゃがいものスープを銀のスプーンですくい、口に入れた時の彼の驚きは大きかった。
銀のスプーンを口に入れたままそのおいしさに感動して、動けなくなったほどだ。
伯母に怒鳴られ、ようやく我を取り戻したほどだった。
その温かい食事を食べるためにも、彼は一生懸命礼儀作法を頭に入れた。
彼は頭の悪い子どもではなかったので、一ヶ月も経つと何とか様になるようになった。
伯母に連れられて、男たちに囲まれて、彼は財閥の総帥の屋敷へ向かった。
既に書類上の手続きは済み、総裁の家族との顔合わせだけだった。
もし家族と仲良くなれなければ、施設に送り返されることもあるという。
総裁の屋敷に向かう車の中で、彼は新年も近い街の華やいだ景色を眺め考えた。
引き取られた家族のために道具として死ぬのはまだわかるけれど、虐待を受けて殺されるのは嫌だな。
彼は新しい生活に何も期待していなかった。
ただ、今よりも悪い生活になるのは嫌だな、と考え、暴力を受けず、毎日温かい食事を与えられることだけを望んだ。
主人である伯母から彼に命じられたことは、財閥の総帥とその家族を守り、命をつけ狙う輩は容赦なく殺せ、と言うことだけだった。
彼の乗った車は雪道を走り、高級な住宅の立ち並ぶ区域の大きな屋敷の前で止まった。
伯母と数人の男たちに連れられ、子どもだった彼はその屋敷の門をくぐった。
玄関の扉を叩くと、内側から扉が開かれた。
最初に顔を出したのは、使用人ではなく小さな女の子だった。
その女の子の後ろに、困った顔の使用人が立っている。
黒髪の彼と同じ年ごとの女の子がじっと青い瞳で彼を見つめた。
女の子はすぐに視線を上に向け、スカートのはしをつまみ、伯母に元気よくあいさつした。
「伯母さん、お久しぶりです。こんな寒い日にわざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
伯母は普段彼に向けている厳しい顔からは想像もつかないような穏やかな顔で答える。
「あぁ、――。大きくなったね。ますます母親に似て、将来はきっと美人になるだろうね」
女の子は伯母の言葉がうれしいのか、恥ずかしそうに笑う。
「やだ、伯母さんったら。それよりもいつまでもそんなところにいらっしゃらないで、どうぞ中に入ってください。父さんも母さんも首を長くしてお待ちです」
女の子はレースやリボンでふんだんに飾られたドレスを揺らし、くるりときびすを返す。
玄関の扉を開け、家の中を案内する。
伯母と彼と数人の男たちは家の中へと入る。
彼が家の中に入ると、高い天井に輝くようなシャンデリアが据えられ、目の前にはきれいに磨かれた床と、豪華な造りの広い階段があった。
彼はそんなものを見るのは初めてだったので、自分の姿の映る床と、シャンデリアに灯された明かりとも見比べ、ぽかんと口を開けていた。
「ほら、はしたない真似をするんじゃないよ」
頭上から伯母の厳しい声が降ってくる。
女の子はそんな彼を見て、くすくすと笑う。
「シャンデリアを見るのは初めて? あなたの名前は何て言うの?」
女の子は彼に顔を寄せ、好奇心いっぱいの青い瞳で彼の顔をのぞきこむ。
彼の代わりに伯母が答える。
「――だよ。せいぜい厳しくしつけてやっておくれ」
女の子はじろじろと彼の姿を見回す。
「ふうん、――と言うの。わたしは、――。これからよろしくね」
女の子は笑顔で彼に手を差し出す。
彼の手を取って、引っ張る。
「ねえ、伯母さん。これから父さんと母さんと大人たちで難しいお話をするんでしょう? だったらその間、この子と遊んでいてもいい? わたし、この子に屋敷の中を案内したいの」