幸せな記憶があるから人は生きられる6
「姉さん。これから僕は怪我の治療で悲鳴を上げるかもしれないけれど、だからと言って、僕に近付いたら駄目だからね。僕がいいと言うまで、声を上げることも、僕に触れることも、しちゃ駄目だからね」
姉は声を上げずに、こくこくと何度もうなずく。
「約束だからね」
弟は尖った針先を、血のにじむ脇腹の傷に突き立てた。
「ぐ、うっ」
弟の悲鳴に、姉の両肩がびくりと震えたが、口に手を当てて声を上げることはかろうじてしなかった。
弟は痛みを我慢しつつ、針を動かす。
額には痛みのために脂汗が浮かぶ。
一針一針慎重に傷を縫合していく。
脇腹の傷は七針にも及んだ。
傷を縫合し終えた弟は、ナイフで糸を切る。
血で汚れた針をぬぐう。
針と糸をコートにしまい、脇腹の血を白い布でふき取る。
縫合し終えた傷を見て、弟は長い息を吐き出した。
包帯を取り出し、傷口に巻きつける。
体はひどく疲れていたが、とりあえず傷の手当をすることはできた。
「姉さん、もういいよ」
姉は傷の治療中、心配そうに弟を見守っていたが、弟と約束した通り、一言も声を上げなかった。
そのおかげで、弟は傷を縫うのに集中できた。
姉は両手を口から離す。
「本当に、大丈夫なの?」
姉は弟のそばに寄り、そろそろと手を伸ばす。
「本当に?」
手で脇腹の包帯に触れ、弟の頬に触れる。
弟は微笑み、うなずく。
「うん、もう大丈夫だよ」
頬に触れる姉の手に自分の手を重ねる。
姉は安堵したように息を吐き出す。
手探りで弟の体に触れる。
「よかった。あなたが無事で、本当によかった」
姉は弟の胸に顔をうずめる。
目の見えない姉が、どれほど弟を心配していたか。
目が見えないからこそ、姉が不安で仕方がなかったことを、弟はおぼろげに理解していた。
同時にここまで自分のことを心配してくれる姉のことを、うれしく思った。
「姉さんは、大げさだなあ」
弟は姉の肩に手を置こうとした。
そこでふと、自分がまだ上半身裸なのを思い出した。
急に恥ずかしくなる。
「ね、姉さん、ちょっと待って。ま、まだ、僕上に何も服を着ていなんだ」
弟は顔を赤くして、姉の肩を押す。
姉は一瞬驚いた顔をする。
「え?」
間を置かず、姉の顔が見る見るゆでだこのように赤くなる。
「ご、ごめんなさい。わ、わたし、あっちを向いているから。その間に着替えてくれないかしら」
姉は両手で顔を覆い、後ろを向く。
弟は比較的汚れていないセーターをつかみ、袖を通す。
血で汚れたシャツは、さすがにもう着られそうもなかった。
弟は立ち上がり、玄関の前の廊下から居間へと向かう。
「とりあえず、暖房をつけて部屋を温かくしよう。それから姉さんも病院服から着替えないと。何か見繕ってくるから、居間で腰かけて待っててよ。それで、それから食事にしよう。姉さんは、昼からずっと何も食べていないんだろう?」
弟は立ち上がった時に脇腹に鈍い痛みを感じたが、姉に心配をかけまいと平気な振りをして居間へと歩いて行く。
その時弟は気にも留めなかったが、その脇腹の傷が原因で後日彼は高熱を出し、苦しむことになる。
盲目の姉はどうすることもできず、ただただ彼のそばについていることしか出来なかった。
二人は叔父に追われる身のため、医者も呼べず、誰の手助けも受けられず、アパートの中でひっそりと息をひそめて暮らすしかなかった。
姉の目が見えれば、もっと違う決断もできたかもしれない。
弟が前もって医者に行っていれば、姉をこんなに心配させずに済んだかもしれない。
どちらにしろ、二人はお互いのことを心配し、身を寄せ合って叔父の手から逃げ延びた。
最悪の未来だけは回避した彼らだったが、叔父の追及の手は止まない。
彼らが足掻き、もがき、どんな未来を選び取ろうとしているのか。
その話はまた次の機会にでも。