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姉と弟  作者: 深江 碧
五章 幸せな記憶があるから人は生きられる
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幸せな記憶があるから人は生きられる5

 この鼻の曲がるような臭いや肌を刺す寒さがなければ、とりあえず快適と言えた。

 姉は弟に手を引かれ、無言で歩き続ける。

 先ほど、婚約者の青年を撃った理由を、何となく聞きそびれてしまった。

 彼女の胸の奥に、わだかまりがつかえている。

 それは不安となって、彼女の心の中で大きくなる。

 よく知った弟が、急に見知らぬ人に見えてくる。

 ――どうして、彼を撃ったの?

 ――逃げるために必要だったから?

 ――あの人は、あなたのことを野良犬と言っていたけれど、あれはどういう意味なの?

 コンクリートの床に、二人の靴音が木霊する。

 姉は前を歩く弟を見る。

「ねえ、――」

 思い切って話しかけてみる。

 水音に混じって、前を歩く弟の息遣いが聞こえる。

 弟は姉に話しかける。

「そういえば、まだ目的地のことを、話してなかったね。僕たちが、今、向かっているのは、知人の名義で借りた、アパートなんだけど。ほとぼりが冷めるまで、そこで、二人で暮らそうかと、考えていて」

 弟の息遣いが荒い。

 足取りも心持ちゆっくりしているように思える。

 弟の苦しげな様子を感じ取り、姉は前を行く弟の手を引く。

「大丈夫? どこか怪我でもしたの? まさか、さっき病院から逃げる時に?」

 弟は歩きながら苦しげに答える。

「うん、実はちょっとね。でも、大丈夫だよ。ただのかすり傷だから。それよりも、もう少しで目的地に着くよ」

 弟は何でもないように振る舞おうとしているようだったが、姉は不安だった。

 昔から弟は、ひどい風邪の時でも何でもない風を装うのだ。

「そう? それなら、いいのだけれど」

 それ以上聞くのも躊躇われ、姉は不安な気持ちで歩いていた。

 地下下水道から地上へ出ると、まだ街は静まり返っていた。

 夜明け前にたどり着けたことに安堵し、姉は深呼吸をする。

外の空気は新鮮で、少し鉄さびの匂いがした。

姉はそれが弟の血の匂いだと気付く。

「――、怪我は大丈夫? アパートに着いたら、すぐに怪我の手当てをしましょう」

「うん、そうだね」

弟は言葉少なに答える。

二人はアパートの階段を上り、部屋の前までやってくる。

弟は辺りを警戒し、人がいないことを確認してから部屋の鍵を開ける。

 後に続いて姉が部屋へ足を踏み入れると、弟はすぐに玄関の鍵を閉める。

「これで、しばらくは大丈夫だと思うけれど」

 弟は玄関の扉を背に、力なく床に崩れ落ちる。

 姉は驚いて弟を振り返る。

 弟のそばに座り込む。

「――、大丈夫?」

 姉は目が見えないので、弟の怪我がどのくらいひどいのかわからなかった。

 ただ弟の苦しげな息遣いから、その怪我が決して軽いものではないことは、姉にも想像が付いた。

 姉はそっと弟の手に触れる。

「どこか痛むの?」

 目の見えない姉には、怪我の程度を見ることも、治療をすることも、何もできなかった。

 ただ弟のそばに寄り添って、励ますことしかできない。

 それが彼女には歯がゆかった。

 せめて目が見えれば、何かしらできたものを。

 彼女は弟の手を握りしめ、暗い顔をする。

 弟は姉を気遣うように強がって話す。

「姉さん、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。ただちょっと弾が脇腹をかすっただけさ。弾はそのまま出て行って、中には残ってないから安心して」

 弟は脇腹を押さえながら、姉に心配をさせまいと平気な振りをした。

 実際はコートの裏側はべっとりと血がついていたのだが。

「僕は、怪我の治療をするから、姉さんは部屋の中に入っていてよ。大丈夫だよ。すぐに済むから」

 弟はそう言ったが、姉は彼のそばを離れなかった。

 ゆっくりと首を横に振る。

「わたしは、ここにいるわ。あなたの治療の邪魔はしないから、ここにいさせて」

 姉は弟の片方の手を両手で握りしめている。

弟は少し困った顔をする。

「そばで見ていて、楽しいものじゃないと思うよ。特に姉さんには、あまり見られたくないんだけど」

 姉はじっと黙り込む。

 あくまでも動こうとしない姉の様子に、弟の方が諦める。

「わかったよ。じゃあ、姉さんは少し離れてて。僕は治療に集中したいから、僕がいいと言うまで、決して僕に話しかけないこと。いいね?」

 姉はこくりとうなずく。

「わ、わかったわ」

 握っていた手を離し、ほんの少し後ろに下がる。

 弟は銀髪をかきあげ、溜息を吐く。

 いくら目が見えないとはいえ、姉にこんな姿を見せるのははばかられた。

 しかし怪我の治療は時間との勝負だ。

 治療が遅ければ遅いほど、体力も消耗されていく。

 現に脇腹の傷は、今も鈍く痛み、血が流れ続けている。

 今は一刻も早く止血が必要だった。

 ――仕方がないか。

 弟は着ていたコートを脱ぎ、床の上に置く。

次いで中に来ていたセーターを脱ぎ、同じように床に脱ぎ捨てた。

 血に染まったシャツを脱ぎ、上半身裸になった。

 盲目の姉には見えなかったが、弟の体のあちこちに無数の傷痕があった。

 それらは治っている傷もあれば、まだふさがって間もない新しい傷もある。

弟は一番新しい傷である、脇腹の怪我の様子を見る。

 脇腹の傷は、すぐに命に関わるというものではなかったが、放っておけるほど浅い傷でもないようだった。

 弟は床の上に置いたコートから、針と糸を取り出す。

 針を持っていたライターの火であぶる。

 針の穴に頑丈な糸を通していく。

 何枚かの清潔な白い布を取り出し、あふれ出る血をぬぐう。

 アルコールを取り出し、自分の手にかける。

 白い布をアルコールに浸し、脇腹の傷口をぬぐう。

 ひどく染みたが、声を上げるのだけは免れた。

 仕事で怪我をした時、すぐに闇医者にかかれないような場合は、こうして自分で自分の傷を縫合するのだった。

 弟は糸を通した針を手に、横目で姉の様子を眺める。

 姉は弟に言われた通りに、黙ったまま大人しく少し離れた場所に座っている。

 いくらこういったことに慣れている彼でも、自分の怪我を縫合している間、痛みに悲鳴を上げてしまわない保証はなかった。

 弟が悲鳴を上げれば、目の見えない姉が心配し、彼の体に触れるかもしれない。

 そうすれば手元が狂うかもしれない。

 弟は眉根を寄せ、尖った針先と姉と見比べる。

 小さな溜息を吐く。

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