幸せな記憶があるから人は生きられる4
婚約者の愚かさに気付けなかった、自分が許せなかった。
もしもあの時、婚約を断っていれば、叔父の行動に気付いていれば、事故は未然に防げたかもしれない。
両親は命を落とさずに済んだかもしれない。
怒りさえ感じ取れるような、大声で怒鳴る。
「そんな婚約、こっちからお断りよ! もうわたしの前に、二度と現れないで! 姿も見たくないし、声も聞きたくないわ!」
長年姉のそばで暮らしてきた弟も、普段から声を荒げることの無い姉が、ここまで相手にはっきり言うのは珍しかった。
思わず感心してしまう。
弟がちらりと青年の顔をうかがうと、青年の顔は街灯の明かりの下、怒りのため赤黒く変色していた。
「私が、無能、だと?」
肩をわななかせ、唇を震わせている。
弟はとっさに姉の手を引き、後ろに下がらせた。
「この阿婆擦れめ! お前など、一生私の下で奴隷のように暮らしていればいいものを!」
青年は目を向き、白いスーツの懐から小銃を取り出す。
小銃を姉の頭に向ける。
青年が小銃を取り出した時点で、弟は既に動いていた。
一気に距離を詰め、青年の懐に飛び込む。
青年が姉の頭に狙いを定める頃には、弟の銃口が青年のあごに押し当てられていた。
「銃を捨てろ。取り巻きを下がらせろ」
弟は低い声ではっきりと告げる。
青年の頬を一筋の冷や汗が流れる。
「優秀な私が、そんな脅しに屈すると思っているのか?」
青年は乾いた声で笑う。
弟は動じない。
「聞こえなかったか? 銃を捨てて、取り巻きを下がらせろ、と言ったのが。僕は別にいいんだぞ。あんたの肩に風穴が開いても、手の平に風穴が開いても、あんたの頭が吹っ飛んでも」
弟はわずかに狙いをずらし、青年の肩に向けて発砲した。
銃声が夜の空気を震わせ、耳をつんざくような青年の悲鳴が響いた。
空になった薬莢が地面に落ち、冷たい音を立てる。
「うぎゃあああぁぁぁぁぁぁ!」
青年は膝を下り、小銃を取り落す。
肩を押さえ、うずくまる。
弟に撃たれた肩から赤色の染みが広がっていく。
青年の白いスーツを赤く染める。
膝を折る青年の額に、弟は無表情に銃口を押し当てている。
青年は肩で息をしている。
顔色は真っ青で、がちがちと歯を鳴らし震えている。
「い、命だけは、助けてくれ」
弟は低い声で同じ言葉を繰り返す。
「取り巻きを下がらせろ」
青年は悲鳴に近い声で怒鳴る。
「さ、下がれ。下がるんだ。お前たち、下がれ!」
手を振り回し、青年は半狂乱になる。
青年の指示に従い、黒服の男たちはそろそろと後ろに下がる。
弟は周囲を取り囲む黒服の男たちを見回す。
視界の端で、青白い顔で立ち尽くしている姉をとらえる。
「いまの銃声は、何? それに、いまの悲鳴は」
呆然としてつぶやく姉の声を、弟は耳にした。
姉の言葉は、鋭い刃となって弟の胸に突き刺さった。
しかし今は姉の問いに答えている余裕はなかった。
「わ、私はお前の言う通りにしたぞ。だからさっさと解放してくれ」
青年は肩を押さえ、情けない声で訴える。
最初の自信にあふれた態度とは打って変わって、いまはひどく怯えている。
怯えている青年に銃を向けたまま、低い声で言う。
「まだだ」
弟の言葉に、青年はびくりと肩を震わせる。
「僕たちの逃走を手助けしろ。それと、姉さんをぶったこと、つまらない女だと言ったこと、阿婆擦れだと言ったこと、奴隷と言ったこと、今まで姉さんを騙していたことすべてを、今すぐ姉さんに謝れ!」
弟は拳銃を青年のあごに当てたまま、胸倉をつかみ、がくがくと揺さぶる。
それには聞いていた姉が驚く。
弟の行動に、姉の方が冷静になってしまう。
「え? ちょ、ちょっと、――。今はそんなことをしている場合じゃないでしょう。早く逃げないと、叔父さんが来てしまうわよ?」
弟は青年の胸倉をつかんだまま振り返る。
「でも、姉さん。こいつは姉さんを」
言いかけた言葉を、姉がさえぎる。
姉の耳に遠くから近付いてくる足音が聞こえる。
恐らくは叔父たちが追いかけてきたのだろう。
「そんなこといいから、早く!」
姉にとっては、最早婚約者とのことはどうでも良かった。
今は一刻も早く叔父の手から逃げなければ、二人の命が危ない。
「わかったよ」
弟は渋々と言った様子で姉の手を握る。
「早く!」
姉に急かされ、弟は姉の手を取って一緒に逃げ出す。
逃げ出す時に、コートの下から催涙弾を取り出す。
動けないでいる青年と、黒服の男たち目がけて投げつける。
背後から青年や男たちの悲鳴、銃声が聞こえる。
「お、お前たち、追え。二人を追うんだ! 二人を取り逃がしたと知られたら、私の出世に関わる。早く捕まえるんだ!」
ずっと後ろから青年の声が聞こえてきたが、姉と弟はもう振り返らなかった。
二人はそうして何重にも包囲の張り巡らされた病院の敷地から姿を消した。
叔父とその部下が躍起になって二人を探したが、ついに二人は見つからなかった。
水の音が聞こえる。
どうどうと勢いよく流れる水の音が、すぐ足元から聞こえてくる。
その水音と一緒に鼻をつくような異臭が漂ってくる。
「姉さん、足元に気を付けて」
弟は明かりを手に、暗く狭い道を慎重に歩いていく。
「ありがとう、――」
姉は弟に手を引かれ、足元を確かめながら進んでいく。
二人が逃げ込んだのは地下の下水道だった。
弟があらかじめ逃走経路に選んでいたのは、この街の地下を迷路のように走る下水道だった。
病院の敷地内にあるマンホールのふたを、気付かれないようにほんの少し動かしておいたのだった。
催涙弾で目くらましをし、かねてから準備していた下水道へと逃げ込んだのだった。
夜目の効く弟は、わずかの明かりで十分に歩くことができる。
下水道の目的地までの通路の地図も、弟の頭の中に叩き込まれていた。
暗闇には、水の流れる音、二人の息遣い、足音だけが響いている。
背後から叔父さんやその部下が追いかけてくることは、とりあえずなさそうだった。