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姉と弟  作者: 深江 碧
五章 幸せな記憶があるから人は生きられる
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幸せな記憶があるから人は生きられる3

 母親はピアニストで、世界各国を回り、演奏旅行をしていた。

 父親はそのマネージャーとして、スケジュールの管理や、こまごまとした交渉の仕事をこなした。

 母親は演奏の時にあまり金銭を求めなかったせいで、生活は貧しく、仕事は忙しかったが、二人は充実した日々を送っていた。

その生活の中で姉が生まれ、二人はとても喜んだそうだ。

 父親はその時のことを、目を細めて懐かしそうに話していた。

 姉が生まれて間もなく、父親は親に呼び戻された。

財閥の総帥であった父に、財閥を継ぐように頼まれたのだ。

 財閥は彼の弟、叔父が取り仕切っていたが、長男である父親が継ぐのが望ましい、と親や親族は強く勧めた。

 父親は迷った。

 三人での生活も安定し、母親のピアニストとしての腕前もやっと周囲に知られ始めた矢先だった。

 それに父親は、小さい頃から弟が財閥の息子、という肩書きにひどく固執しているのを知っていた。

 自分よりも弟が継ぐべきではないか、と父親は訴えたが、周囲は聞き入れなかった。

 もしも財閥を継ぐということを聞き入れてもらえないと言うのなら、財閥の力を使って、母親の演奏会を開けないようにする、とまで言い出した。

 仕方なく父親は家に戻り、財閥の総帥としての跡を継いだ。

 優秀な経営者として、慈善事業にも力を入れている。

 姉は黙って父親の昔話に耳を傾けていた。

 明かりに照らされた父親の横顔を眺めていた。

 父親はソファに座っていた姉を穏やかな眼差しで見つめる。

「もしもお前に本当に好きな人が出来たなら、遠慮することなく言っておくれ。父さんも母さんも、いつだってお前の幸せを一番に考えているのだから」

 普段忙しい父親とこうしてゆっくり顔を合わせるのは久しぶりのことだった。

 父親のありがたい気遣いを、姉は素直に受け取った。

「ありがとう、父さん。でも、わたしは大丈夫よ。今は特に気になる人もいないし、わたしはまだ学生だから。学生の本分は勉強することだもの。恋愛をする暇があったら、勉強に精を出さなくちゃ」

「そうか」

 父親は少し寂しそうな、安心したような顔をする。

 姉はソファから立ち上がり、父親の前に立つ。

「そう言えば、明日のこと覚えてるでしょうね。父さんと母さんとわたしの三人で、弟の誕生日プレゼントを買いに行くこと。もう一人の息子のことも、ちゃんと大事にしてあげてね?」

 腰に手を当てて、父親の顔をのぞきこむ。

 父親は目を丸くして姉を見上げている。

 どちらからともなくぷっと吹き出す。

「もちろん覚えているよ。可愛い息子のことだから、忘れる訳ないじゃないか」

「それならよろしい」

 姉がつんと澄まして、わざとらしく胸を張る。

 その実、必死に笑うのを我慢している。

 父親は声を立てて笑っている。

「それで、彼に何を送るかもう決めたのかい?」

「ええとね」

 父親に聞かれ、彼女は母親と相談して決めた品物をいくつか言う。

 言っている途中で、ふと母親に言われたことを思い出す。

「ね、ねえ、父さん。父さんは、弟の好きな人が誰なのか知ってる?」

 姉の問いに、父親は驚いた顔をする。

「――の好きな人? それは誰だい? 父さんの知っている人かい? この前のパーティーに招待した女の子かい?」

 父親の質問に、話を切り出した彼女の方が困ってしまう。

「そ、それはわたしの方が聞きたいくらいで。わ、わたしが言いたいのは、そんなことじゃなくてね」

 姉は自分の好きな人のことでもないのに、口ごもる。

「か、母さんは、弟の好きな人に心当たりがあるみたい。弟の恋が報われない、と言っているけれど。わたしはその恋が叶わないと決まったわけではないと思うの。そ、それでね、父さん。お願いがあるの」

 真剣な顔をして父親に頼み込む。

「父さんの力で、弟の恋を叶えてやってほしいの。母さんは、弟はとても一途だと言っていたから。その恋に失敗したら、弟はとても落ち込むと思うの。もしかしたら立ち直れないくらい、ひどく落ち込むかもしれない。だ、だから、出来る限り弟の恋を叶えてやってほしいの」

 姉は父親に手を合わせる。

 いつになく真剣な姉の様子に、父親は目元を緩める。

「可愛い娘と息子のために、私もひと肌脱ごうか。ただし、弟の好きな相手が、もし人妻や同性だった時は、父さんは知らないぞ。その時は、諦めてくれよ?」

「う、うん」

 姉はこくこくとうなずく。

「それと、もし弟の好きな人がどんな人でも、その相手にお前は文句を言わないこと。これは守れるか?」

「う、うん。わたしは弟の好きな相手が、どんな年上でも、小さい子でも、何も言わないから」

 姉は何度もうなずく。

「ようし、良い子だ」

 父親は姉の黒髪を撫でる。

 その時ばかりは、子ども扱いされることを姉は嫌がらなかった。

 父親は椅子から立ち上がる。

「それじゃあ、早速母さんから弟の好きな人を聞き出さないとな」

 うきうきとして張り切る父親の姿を、姉は久しぶりに見たような気がした。

 最近は仕事が忙しく、父親はとても疲れているようだった。

「ごめんね、父さん。仕事で疲れているのに」

 父親の後ろについて、姉も部屋の扉から廊下へと出る。

 父親は笑顔で彼女を振り返る。

「子どもがそんなこと、気にするものじゃないぞ。確かに仕事は大変だが、私は好きでやっているんだ。それに私は帰るべき家も、迎えてくれる家族もいる。とても幸せだと思っているんだ」

 父親はそう言って、彼女を抱きしめた。

「父さん」

 彼女が父親と抱き合ったのは、これが最後だった。

「弟の好きな人がわかったら、お前にもこっそり教えるよ。それに折角父さんも財閥の総帥に就いているんだから、権力と財力は、こういう時に使わないとな」

「もう、父さんったら」

 彼女はくすりと笑う。

 そう言って父親は母親のいる部屋へと向かった。

 長い間夜通し二人で何事か話しているようだったが、結局弟の好きな人が誰なのか、彼女は教えてもらえなかった。

 三人で弟の誕生日プレゼントを買いに出かけた時に、教えてもらえるかとも思ったが、話す暇もなく事故に合った。

 今思えば、屋敷から出て数分の道で、事故に合うことは考えられなかった。

 それらはすべて叔父に仕組まれたことだったのだ。

 彼女と弟は両親との永遠の別れを経験する。

 両親との幸せな日々を思い出し、彼女は胸が痛んだ。

 婚約者を前にして冷たく言い放つ。

「あなたがこんなつまらない人物だと、もっと早く知っていれば」

 姉はそこで言葉を切り、唇をかむ。

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