幸せな記憶があるから人は生きられる2
彼女には見えなかったが、その笑顔はかつて婚約者であった彼女に向けられた笑みと同じ穏やかな笑みだった。
青年は声色を変えず答える。
「当たり前じゃないか。私は財閥の次期総帥となる男だよ? 叔父さんが君の御両親を殺したことは、当然耳にしているよ」
青年の返答に、彼女は少なからず衝撃を受けた。
白い顔から血の気が引いていく。
「父さんの優秀な部下として働いていたあなたが、父さんに可愛がられていたあなたが、どうして叔父さんに味方するのですか? 叔父さんは父さんを殺した人なのに、父さんを殺した叔父さんをあなたは憎くないのですか?」
彼女は震える声でささやく。
顔から血の気が失せ、彼女の顔は蒼白だった。
「姉さん」
弟は彼女を心配して、そのそばに寄り添う。
「大丈夫よ、――。心配してくれて、ありがとう」
彼女は気丈に振る舞おうとする。
そんな姉を、青年は鼻で笑う。
「憎い? 君はそんな感情論で物事を判断しているのかい? そんなことは取るに足りない感情だよ。もちろん前総裁、君のお父さんが亡くなったことは惜しいとは思うけれど、君の叔父さんはもっと優秀な総裁として君臨し、財閥を巨大で強力なものにした。その手腕を思えば、あの時君のお父さんが亡くなったのは、良かったとも言える」
かつての婚約者だった青年の言葉を聞いて、彼女は一瞬にして目の前が真っ暗になった。
足元がおぼつかなくなり、体の力が抜けていく。
「姉さん」
弟が慌てて彼女の体を支える。
彼女は弟に支えられ、体を震わせている。
悔しさとも悲しさともつかない感情が、彼女の中に渦巻いている。
――わたしは、こんな人を将来自分の結婚する相手だと信じて、今まで付き合ってきたの? 相手の本質も見抜けず、彼がわたしや父さんをただの出世の道具としてしか見ていないのにも気付きもせず。
彼女の信じていた何かが、音を立てて崩れて行った。
彼のことを疑いもせず、将来の伴侶として、貞淑な妻として、彼に尽くしていこうとした彼女のささやかな決意を、その言葉はいともたやすく踏みにじった。
彼女の中には怒りさえ沸かなかった。
もはや諦めにも近い虚しい気持ちが、気持ちの大半を占めていた。
青年は歩み寄り、冷たい眼差しで彼女を見下ろす。
「君は、もう少し賢い女性だと思っていたんだが。少なくとも自分の部をわきまえた控え目な女性だと思っていた。この国の法を守り、そんな薄汚い野良犬で身を守るような、つまらない女性ではないと思っていた。私に財閥の次期総帥の地位を与え、家庭に入り、妻と母の両方の役割をこなせる女性だと思っていたが、それはどうやら私の思い違いだったらしい」
青年は淡々と話し、息を吐き出した。
表情一つ変えずに彼女の白い頬を叩く。
乾いた音が夜の空気を震わせる。
予想外の行動に、弟さえも動けなかった。
彼女の長い黒髪が乱れ、顔にかかる。
弟は殺気さえみなぎらせ、怒りに満ちた目で青年をにらむ。
手に持った拳銃で青年の額に狙いを定める。
「姉さんに何をする!」
姉の体を支えていた弟は、拳銃の引き金に指をかける。
「それを撃ったらどうなるか、君ならばわかっているのだろう?」
青年は落ち着き払った様子で言う。
周囲を取り巻いていた黒服の男たちが、二人に向かって銃を構えている。
姉を蔑まれ、怒りに燃えた弟は、青年の言葉に耳を貸さなかった。
「その前にお前の頭に穴が開くさ。そうすればその薄汚い性根も、うるさい口も、少しはましになるだろうさ」
弟の燃えるような瞳は揺るがない。
今まで数知れない人間を殺してきた弟の殺気を感じ取り、さすがの青年の背中にも冷や汗が流れる。
「待って」
姉はそんな弟を制し、ゆっくりと自分の足で立つ。
顔を上げ、見えない目でまっすぐに青年を見つめる。
「まだ、あなたとの話は終わってないわ」
長い黒髪をかきあげ、彼女は凛とした口調で言う。
弟は怒りも忘れて、背筋を伸ばして立つ姉の姿を眩しげに眺めていた。
どんなに薄汚れた服を着ていても、彼女のまとう空気は気高く澄み渡っていた。
まるで高原に咲く一輪の白百合のように。
弟にとっては、いつも姉のそんな姿が憧れだった。
姉は弟をわずかにかえりみる。
「ごめんなさい、――。少しの間、この人と話をする時間をちょうだい」
姉は申し訳なさそうに、弟にささやく。
弟は渋々といった様子で答える。
「姉さんが、そう言うなら」
姉の横に並ぶ。
姉を守るように黒服の男たちに目をやる。
青年は弟を恐れていた様子を隠し、姉と向き合う。
「いいだろう。私も君には言いたいことがたくさんある。以前から君には嫌気がさしていたんだ。どうして君のようなつまらない女が、優秀な私の婚約者なんだとね」
弟に警戒をしつつ、青年は口元に笑みを浮かべる。
余裕のあることを示そうとしたのだが、目の見えない彼女には無意味だった。
悲しみを含んだ冷たい声で言い放つ。
「わたしのことがつまらない女だと言うのなら、婚約を断れば良かったじゃないですか。父に言って、婚約をなかったことにすれば良かったのに。でも、あなたはそうしなかった。もしも婚約を断れば、あなたが次期総帥の座に就けないことはわかっていたから。だからあなたはあえてわたしとの婚約を断らなかった。そうでしょう?」
彼女はいったん言葉を切る。
迷うように、そっと弟の手に触れる。
弟は姉が迷っているのを敏感に感じ取った。
「大丈夫だよ、姉さん。姉さんがどんなことを言ったとしても、僕は気にしないから」
彼女は小さくうなずいて、言葉を続けた。
「あなたは、自分に自信がなかったのね。わたしとの婚約を断ってまで、次期総帥に選ばれる自信が。だから父の機嫌を損ねるのが嫌だった。もしもあなたが本当に優秀な人物だったならば、わたしとの婚約がなくても、きっと実力で次期総帥に選ばれていたでしょうし、もし本当にあなたが優秀な人物だったならば、叔父さんに真っ先に殺されていたでしょうね。要するに、あなたは叔父さんが放っといてもいいと判断したくらい、無能な人物、ということね」
彼女の胸の中に父親とのやり取りが蘇る。
事故の直前、彼女は仕事から帰ってきた父の部屋へ呼び出された。
机の上に灯る明かりを見ながら、父親は申し訳なさそうに彼女に言った。
「もし、婚約者のことが嫌いだと言うのなら、他に好きな人がいると言うのなら、今の婚約の話を断ってもいいんだよ?」
突然切り出された父からの話に、彼女は言葉も出なかった。
彼女が黙っていると、父親は彼女のことがずっと気がかりだったことを告げた。
そういう父親も、財閥の跡取りとして育てられただけあって、小さい頃から親同士の決めた婚約者がいた。
しかしあるパーティーで母親と出会って恋に落ち、婚約を解消し、周囲の反対を押し切って結婚した。
親に勘当され家から追い出され、二人で貧しい生活をすることになった。