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姉と弟  作者: 深江 碧
十五章 悪夢再び
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悪夢再び12

 いつも見る夢がある。あまりに繰り返し同じ夢を見るので、彼は最早その夢に慣れ切っていた。それを自分の実際に過去に降りかかったことのようには考えられなくなっている。どこか遠い出来事のように感じる。

 気が付くと彼は手には血まみれのナイフを握りしめ、そばには血だらけの母親が倒れている。どうしてそうなっているのか、彼はよくわからない。夢はいつもそこから突然始まるのだから。

 かつて白豹と呼ばれた凄腕の護衛だった母親。息子である彼から見ても母親の姿は凛として美しく見える。だが今は美しい雪のような銀髪は鮮やかな鮮血に彩られ、厚手の服の上から腰の辺りを赤く染めている。幼い彼はどうして母親が彼のそばに倒れているのかわからない。ただ彼の握りしめている両手は赤く染まり、ナイフの銀色の刃からは母親の血が滴り落ちている。

(お母さん)

 彼は何度も母親に呼びかけているが、返事は一度も返ってこない。ナイフを握りしめたまま母親の体に近寄り、その肩を揺さぶっても動こうともしない。

(お母さん、お母さん)

 そのうちに彼は不安になってくる。このまま母親が動かなくなるのではないか。彼をもう二度と見てくれないのではないか。独りぼっちになってしまうのではないか。今更のように幼い彼の心にじわじわと不安が押し寄せてくる。

 幼い彼はこの小さなアパートの一室に母親と二人で暮らしていた。父親はいない。彼が物心つく頃には既にいなかった。母親は父親の話をほとんどしなかったし、彼も母親と二人だけの暮らしが普通になっていた。父親がどこの誰なのか、今現在生きているのかさえわからない。

 母親は仕事で外に出かけることが多く、ほとんど家にはいなかった。彼はいつもアパートの一室で留守番をしていた。独りきりの時間が長い代わりに、幼い彼は家事のほとんどをこなせるようになっていた。料理、洗濯、掃除などは母親に教えられることもなく、彼なりに工夫してこなしていた。家事で失敗することはあっても、母親はほとんど気にしないようだった。それどころか母親が家事をしているところを、彼はほとんど見たことが無い。

(デニスは偉いな)

 ほとんど感情を表に出さない母親が、家事をするたびに珍しく微笑み、彼の頭を撫でてくれた。

(今度はもっと上手に作るから)

 母親にそう褒められる度に、幼い彼はまた頑張ろうと思うのだった。

 幼い彼は母親がいなくなって独りぼっちになるのは嫌だと感じていた。留守番をしている時間は長いが、いつも彼は母親が帰ってくると信じて待っていた。これまでに母親が血だらけで仕事から帰って来たり、怪我をして帰ってくることは何度もあった。その度に幼い彼は母の服を洗ったり、怪我の治療を手伝ったりしていた。それが普通のことだった。

 だがその日ばかりは違っていた。どうしてそうなったのかはよく覚えていない。気が付けば幼い彼は血の付いたナイフを握りしめ、母親が目の前に倒れていたのだ。

 幼い彼が母親のそばでしゃがみ込んでいると、アパートの玄関の扉が乱暴に開けられる。鍵は閉められていなかった。

(白豹!)

 黒いドレスを着た女性と黒服の数人の男性が部屋に踏み込んでくる。幼い彼は母親のそばから動かない。血まみれで倒れている母親を見つけると、黒いドレスの女性が息を飲むのがわかる。

(お前が白豹を、母親を刺したのか?)

 女性の顔に驚愕と怒りが広がるのがわかる。幼い彼は血まみれのナイフを握りしめたまま、感情のこもらない目でぼんやりと大人達を眺めている。女性は乱暴な足取りで近付いてきて、彼に迫る。

(お前が殺したのか!)

 女性は幼い彼の胸倉をつかんで持ち上げる。彼はぼんやりとその女性を眺めている。その女性は後に母親を亡くした幼い彼を引き取り、組織で働くように命令する。彼が財閥総帥一家の養子となってからは、伯母になる女性だった。


 *


 弟が目覚めると白い風景が目に飛び込んできた。消毒液の匂いが鼻をつき、白い明かりの下、白い枕と白い布団が視界の大半を占めている。考える間もなくここが病院であることがわかる。

 気が付けば夢を見ながら涙を流していたらしい。目尻に涙の跡が残っている。

(どのくらい寝ていたんだ)

 弟が周囲の様子を確認しようと身じろぎする。すぐそばから聞き慣れた声が聞こえてくる。

「よお、白犬。気分はどうだ?」

 ベッドのそばの椅子に座っていたのは仕事の相棒であるワタリガラスだ。テーブルの上には菓子の袋が広げられ、飲み物の入ったコップまで置いてある。病室の薬の匂いに混じって甘い香りが漂ってくる。恐らくは弟のお見舞いに持って来た品を勝手に開けて食べているのだろう。

「ここは、どこだ?」

 この部屋の造りからして病室なのだろう。もしかしたら病室のように造られた叔父の屋敷の一室かもしれないが。弟は体を起こそうとしたが、肩に鈍い痛みが走る。見ると腕には点滴の管が付けられている。今更のように叔父をかばうために長男に拳銃で肩を撃たれたことを思い出す。

「病院だよ。お前、叔父さんを守るために肩を撃たれて、ここに担ぎ込まれたんだ。まあお前のおかげで叔父さんに怪我は無かったんだから、お前の功績ってとこだな」

 ワタリガラスは袋の中からクッキーを取り出して、ぼりぼりと食べている。

「そうか」

 それを聞いて、弟は安堵の息を吐き出す。ベッドに体を預け、全身の力を抜く。

「お前も運が無いな。拳銃の弾が肩を貫通すれば良かったのに。運悪く骨と神経に当たっているなんて、それで激痛のために動けなかったんだな。おかげで弾を取り出す手術をする羽目になっちまったが、治療費入院費はすべてお前の叔父さんもちだからいいけどな」

「そうか」

 弟はベッドに横になりながらワタリガラスの話を聞いている。ワタリガラスの話によると、あの後、弟はすぐに医者の手術を受けて事なきを得たらしいが、二日間の間意識が戻らなかったそうだ。長男の撃った銃弾は肩の神経を傷つけていたため、元のように動かせるようになるためには数か月の長い治療期間が掛かること。しばらくは病院に入院する必要があるとワタリガラスは言っていた。

 弟は毎日のように見舞いに来てくれるワタリガラスと叔父から、その後も周囲の状況を逐一聞いていた。

 結局、あの場で長男と次男の間に血で血を洗う争いは起こらなかった。あの夜のパーティーでは周囲の仲裁もあってその場は収まったが、以前よりも二人の対立が鮮明化し、結果的に二人の兄弟の間に泥沼の争いを生むことになった。そしてそれは現在も続いている。

 三男と四男は今のところどちらにも加担していないようだった。姉は次男に協力し、一緒に行動しているようだ。弟としては出来れば姉には危険な真似をして欲しくない。長男と次男との権力争いに加担して欲しくない。

(姉さん、危ない目に遭っていないといいけれど)

 治療とリハビリをしながら、病床で弟が心配するのは姉の安否のことばかりだ。自分の体が自由に動かない分、より一層強く姉の心配をする。叔父は撃たれた肩の怪我が治るまで、屋敷の一室を与え、治療とリハビリに専念するように命令した。弟に外出する許可を与えなかった。そのため弟は屋敷の者の監視下に置かれ、叔父とワタリガラスが見舞いにやって来る以外に情報を得る術がなかった。そのため弟の肩の怪我が完治し、自由に動けるようになる数か月の間に長男と次男との権力争いは収束に向かっていた。


『姉と弟』第一部 おわり 

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