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姉と弟  作者: 深江 碧
十五章 悪夢再び
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悪夢再び8

 次男は長男の灰色の瞳から目を逸らすことが出来なかった。

 体が震え、脂汗が止まらない。まるで金縛りにあったかのように指先ひとつ動かす腰が出来ない。

 次男の脳裏に過去の記憶が蘇る。幼い頃のあの日も、長男の灰色の瞳に睨まれ、呼吸もままならなかった。未だ次男は過去の記憶に囚われている。

 あの日は、母親が亡くなって間もない頃だった。実の父親と名乗る叔父に引き取られて、三男と一緒に初めて屋敷を訪れた。屋敷内を探検している時に、庭で偶然同じく屋敷を訪れていた長男や四男と出会ったのだ。

 池のほとりで四男は次男と三男の二人を見かけると、意地の悪い笑みを浮かべる。

「へえ、野良猫の子がいるよ、セルゲイ義兄さん」

 長男はちらりと次男と三男を見る。特に興味もなさそうにすぐに視線を逸らす。

 他の二人の兄弟の母親と違って、次男と三男の母親は平民の出身だった。そのため周囲の反対もあって叔父と正式に結婚することは出来なかったし、その子どもである次男と三男が正式な息子として認められることにも時間が掛かった。

 次男は子どもながらにうっすらとその事情を感じ取っていた。母親が女手一つで二人の子どもを育ててくれたことは理解していたし、苦労していたのも知っていた。次男も三男も母親が大好きだったし、亡くなったことをとても悲しんでいた。そのため次男は会ったばかりの兄弟に死んだ母親の悪口を言われるのに耐えられなかった。

「誰が野良猫だ。死んだ母さんのことを悪く言うな!」

 次男は四男につかみかかろうとする。

「おっと」

 四男はつかみかかってきた次男を避ける。次男はたたらを踏んで、かろうじて池のそばで踏みとどまる。

「兄さん、やめなよ」

 車椅子の三男が困ったような表情で兄の次男をいさめる。長男は興味が無さそうに彼らを見ている。

「そんな奴らの相手をするだけ時間の無駄だ」

 息巻く次男に対して、長男は冷ややかな視線を向ける。

「はあい、義兄さん」

 四男は次男を小馬鹿にしたような態度で答える。次男はますますそれが気に入らない。

「お前ら」

 もう一度四男につかみかかろうとする。

「わあ、義兄さん助けて」

 茶化すように言って、四男は長男の背後に隠れる。

「やれやれ」

 長男はつかみかかろうとする次男の襟首をつかみ、ぎりぎりと締め上げる。その細腕にそれほどの力があるのが信じられないくらいの強い力で次男の首を絞める。

「身の程をわきまえることだな」

 長男は険しい灰色の瞳で次男を睨み付けている。次男は自分と体格もそれほど変わらず、一歳も違わない長男に首を締め上げられている。息をすることが出来ない。その時の恐怖と長男の灰色の瞳は、十年以上経った今も次男の心を蝕んでいる。

 長男は次男の襟首をつかみ、その体を庭の池へと投げ入れる。

「兄さん!」

 車椅子の三男が短く叫ぶ。

「そこで頭を冷やせ。自分の身の程をわきまえろ」

 長男と四男は池に沈む次男を振り返りもせず、さっさと屋敷の方に行ってしまう。

「兄さん、兄さん!」

 三男だけは池のそばを離れない。しかし車椅子で足が不自由である以上、池に助けに入ることも出来ずに池のほとりで見ていることしか出来ない。

 池の水の中でもがく次男は、三男の悲鳴にも近い声をぼんやりと聞いていた。長男に首を絞められた跡が鈍く痛む。水の中で息をすることが出来ない。長男に首を絞められた時の恐怖と、そんなに年が違わない長男に負けたショックで体が思うように動かない。口や鼻からはごぼごぼと空気が漏れていく。暗く冷たい水中を漂う次男は、自分の死をぼんやりと自覚する。死に対する恐怖がじわじわと心の中に広がっていく。

 しかし考えれば考えるほど、体は上手く動かない。もがけばもがくほど暗い水底へと沈んでいく。

(誰か!)

 次男は恐怖に顔を引きつらせながら叫ぶ。光の差す水面目指して、助けを求めるようにして両手を力いっぱい延ばした。


 *


「兄さま、兄さま!」

 姉は次男の肩を大きく揺さぶり、耳元に呼びかけたが反応は無い。次男は虚空を見つめたまま顔色を失っている。

「そいつは意気地なしなんだよ。だからそんな奴に頼るだけ無駄なんだよ」

 四男が姉と震える次男を見て嗤っている。

「そいつは未だにセルゲイ義兄さんに負けて、死にそうになったことを引きずっている。もう十数年も前の話なのにさ。とんだ弱虫さ」

 四男は次男を嘲るような口ぶりだった。

「兄さま」

 姉はぐっと唇を噛み、次男の肩に手を置く。その頬に手で触れて、決意を固めた。


 次男は過去に囚われている。暗く冷たい水の中を漂っている。それは過去に過ぎ去ったことであるが、十数年経った今も昨日のことのように思い出される。あの首を絞められた感触、息のできない苦しさ、暗い水底と死に対する恐怖、何もかもが鮮明に思い出される。あの時の記憶が次男の心を強く捕らえている。

 結局あの後屋敷の者が助けに来て、次男は池の中から助け出されたのだが、その記憶は次男の中でおぼろげだ。誰に助けられたのか、どうして自分が助かったのか、詳しいことは覚えていない。助けてくれた者たちの顔を見たような気がするが、はっきりとは思い出せない。気が付けばベッドに寝かされていた。隣には泣きじゃくる車椅子の三男がいて、散々に考え無しだと罵られたような気がする。

 あの後、何度も長男と顔を合わせる機会があったが、やはり長男に対する恐怖心は拭えないようだ。あの鋭い灰色の瞳に睨まれると、足がすくみ、冷や汗が流れる。首を絞められた時の恐怖心が蘇ってくる。そのため次男は極力長男と顔を合わせるのを避け、同じ席に居合わせ無いように努めた。あの時のトラウマは時間が経った今も克服できなかった。


「兄さま!」

 ばちん、という大きな音とともに、次男の頬に鈍い痛みが走る。体から力が抜け、次男は床に座り込む。次いでふわりと甘い百合の香りが鼻孔をくすぐる。温かく柔らかい感触が頬に触れる。

 頭の中の靄が徐々に晴れ、思考が鮮明になっていく。視界に最初に飛び込んできたのは、艶やかな黒髪と不安そうな姉の青い瞳だった。光を失った青い瞳に次男の顔が映っている。姉の手が次男の頬に触れている。

「オリガ」

 次男は擦れた声でつぶやく。頬が熱く、ずきずきと鈍く痛む。頬をぶたれたことがわかる。次男が自分の痛む頬に手で触れると、姉は申し訳なさそうにうつむく。

「ごめんなさい、兄さま。でも他に方法が思い付かなくて。兄さまをどうしたら正気に戻すことが出来るかわからなくて」

 本当にすまなさそうな言い方に、次男はゆっくりと首を横に振る。

「いや、構わない。おれの方こそ無様なところを見せてすまない」

 姉は困ったように笑う。

「いいえ。兄さまのも苦手なことがあるんだと思って、逆に安心しました」

 心底安堵した姉の様子に、次男もつられて笑みがこぼれる。

「うん、心配かけたね、オリガ」

「そんなことは」

 言いかけて、次男はこちらを睨んでいる長男と目が合う。周囲には四男もいて、意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見つめている。

「へえ、自分で気が付いたんだ。今まではそのまましばらくは気が付かなかったのに」

 心配そうに見守る叔父、長椅子でゆったりと座る老人は表情一つ変えていない。

「やれやれ、無粋な兄貴だ。こういう時は気を効かせてそっとしておいてもらいたいのに」

 真っ向から長男の灰色の瞳を睨み返す。もう以前のような恐怖はない。姉がそばにいるためか、妙な安心感がある。

「ならばさっさとこの場から去るがいい。お前が尻尾を巻いて逃げ出すのは、いつものことだろう?」

 長男は淡々と言う。次男は言葉を返す。

「やなこった。今回ばかりは逃げ出す訳にはいかないんでね。こちらにも逃げ出せない事情がある。今回ばかりは兄貴に勝ちを譲ってやることは出来ない」

 次男はゆっくりと立ち上がる。気遣うように次男を見つめる姉の顔が視界の端に入る。次男はわずかに眉目を下げる。

「なあ、兄貴。どうしてオリガの両親を殺したんだ? おれには兄貴が殺したいほど二人を憎んでいるようには見えなかった。ましてやオリガと兄貴はほとんど接点が無いだろう? どうして彼らをこのような目に遭わせたんだ?」

 長男は答えない。表情一つ変えない。次男は溜息を吐く。

「だんまりか。兄貴は都合の悪いことは、いつもそうなんだな」

 悲しげな声でつぶやいた。

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