バッドエンド 叔父の提案を受け入れる3
泣き言は言うまい。
少なくともこの老婆の前で涙を見せるのは嫌だった。
彼女は気丈に振る舞い、老婆の手配した車に乗り込んだ。
病院に向かい、医者の診察を受けて、そのまま入院した。
それから数か月の間、彼女は病院で入院していた。
お見舞いに来る人もなく、彼女は毎日を編み物と手紙を書いて過ごした。
彼女が入院して以来、家政婦の老婆は一度も顔を見せていない。
どんな病気かも知らされないまま、毎日は静かに過ぎて行った。
症状は重くなるばかりで、寝込む日も増え、手紙も編み物も出来ない日も増えていった。
いつしか春が過ぎ、夏が過ぎ、秋になろうとしていた。
彼女と同室の人間は次々に入れ替わり、気が付けば彼女が一番長くこの病室に留まっていた。
彼女はもうベッドに起き上がることもできず、一日の大半を眠って過ごしていた。
一ヶ月も前に送った、会いたい、と書いて住所を添えた手紙が弟の元へ届くのを願って。
痛みに耐える毎日に耐え、弟に会える日を心待ちにしながら、彼女は窓の外を眺めて過ごしていた。
秋の柔らかな日差しを浴びながら、目の見えない彼女は昔家族で行った美しい紅葉の風景を思い浮かべていた。
――あの時は、森のそばの湖でわたしと弟二人で魚を取ったんだっけ。でも、結局取れずに、お父さんが魚を釣って、それをお母さんが焼いてくれて、みんなで食べたんだっけ。
彼女はもう食事を取ることもままならなかった。
腕につけられた点滴で、かろうじて彼女の命を長らえていた。
――なつかしいな。もう一度、あの森のそばの湖に、家族みんなで行きたかったな。
窓から吹いてくる風が心地よく、穏やかな眠りに落ちていく。
「姉さん」
眠りに落ちる直前、誰かに呼ばれたような気がした。
彼女を姉さんと呼ぶのは、世界に一人しかいない。
うれしさが胸にこみ上げ、彼女は病室の扉を向く。
そこには懐かしい弟の姿が立っていた。
彼女のまぶたの裏には、弟が病室に駆け込んでくる様子がはっきりと見えた。
駆け込んできた弟に、彼女は笑顔で応じる。
――よかった。来てくれたのね? わたし、ずっとあなたに会いたかったの。
現実には起き上がることも、腕を上げることもできなかった彼女が、弟に向かって手を伸ばす。
弟は彼女のベッドのすぐそばまで歩いてきて、困ったような照れたような表情を浮かべる。
「姉さん、お待たせ」
それらは死ぬ直前に彼女が作り出した幻覚だったのかもしれない。
弟の照れくさそうな声を耳にし、その姿を前にして、彼女は安堵のためか急速に意識が遠のいて行った。
二度と這い上がることのできない暗闇の底に落ち込んでいった。
彼女の死から一週間後、新聞にある記事が載った。
某巨大財閥の総帥が、護衛とともに橋から転落して死亡したという記事だった。
その財閥はその国の経済をほとんどを担っていたので、国の官僚や市民達は皆一様に慌てふためいた。
一時期財閥の存続が危ぶまれる声が上がったが、次期総帥が着任してからは人々の口に上がることはなくなっていった。
その国の大半の人々の生活は変わることなく、昨日と同じ今日が、平凡な日常が繰り返されていた。
彼女が両親とともに静かに眠る教会の鐘が、今日も街に鳴り響いている。
バッドエンド おわり