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姉と弟  作者: 深江 碧
十五章 悪夢再び
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悪夢再び3

 姉は悩んでいた。次男を全面的に信用するにはどうすればいいのか、心の整理に悩んでいた。

 先日、次男に協力すると決めたものの、挨拶代りのキスを要求された。その時は勇気を振り絞ってしたのだが、あの時は周囲に中年の部下やメイドの少女がいた。目の見えない姉はついつい人目があるということを忘れていたが、後で思うと二人に退室してもらえば良かったかもしれない、と考えていた。

(でも、二人きりになるとアレクセイ兄さまに何をされるかわからないし)

 特に婚約者になると申し出た直後であれば、次男も恐らく舞い上がっているだろう。キス以外に何をされるかもわからない。キス以外に過激なことをしてくるかもしれない。そう言った意味でも人目がある方が安心だったのだろう。特に中年の部下の存在は姉に不思議な安心感を与えてくれる。

 今朝も朝食の後にキスを要求され、しばらく経った今だって心臓の鼓動が収まらない。このようにことあるごとにキスを要求されては、次男の婚約者の役は到底務まらないのではないかと姉は真剣に悩んでしまう。

 次男の婚約者になると申し出てから、数日の間、姉は毎日家政婦の指導の元パーティーでの礼儀作法や歩き方、受け答えの仕方などを教わった。

 最低限の礼儀作法は以前から知ってはいたが、こうして指導されるのは久しぶりのことだったので、姉としても復習の意味も兼ねていた。目の見えない姉がハイヒールで真っ直ぐ歩くのは思ったよりも難しかった。

「何事も慣れが肝心です。坊ちゃまの前でも極力礼儀作法を守り、接するように努めて下さい」

 屋敷の家政婦は鋭い目でじろりと姉を見て、そう言った。姉は家政婦の言いつけを守り、礼儀を守って接するように努めていたつもりだった。

 だが次男の方がそうではなかった。

「そんな堅苦しいことはしなくていいよ。婚約者同士であるおれと君との仲じゃないか」

 次男はそう笑い飛ばし、礼儀作法を意にも介さないようだった。姉が一定の距離を取って話しかけても平気で近付いて来るし、姉が丁寧な言葉遣いをしても砕けた口調で話しかけてくる。これではあまり礼儀作法の練習にはならないのではないか。家政婦にそのことを話すと、彼女は変わらない口調で答える。

「坊ちゃまはどなたにでも分け隔てなく親しく接する方です。例え相手が礼儀をわきまえない方であっても、こちらが礼儀を尽くさない理由にはなりません。最大限の礼儀でお迎えするべきです」

 姉は家政婦に教えられた通り、礼儀作法を守り生活するように努めた。次男の態度は一切気にしないように決め込んだ。

 ただ恋人や婚約者同士ですると言う挨拶のキスは、未だ抵抗感が強く残っている。何度してもキス自体に慣れないものだし、恥じらいがない訳では無い。今まで姉の家でキスをする習慣がなかっただけに、慣れるのは難しい。ましてや家族以外の異性にするとなれば、抵抗も強い。

 一方の次男はキスするのも平気なら、姉の恥じらう態度を見て楽しんでいるようだった。姉はそんな次男の態度に呆れてしまう。

(あの人を全面的に信じろなんて、果たしてわたしに出来るものかしら?)

 礼儀作法の指導の休憩時間、姉は一人で紅茶を飲みながら悩んでいた。この後、叔父の誕生パーティーに着て行くドレスの試着が控えている。コルセットで体を引き締め、腰の細いドレスを身に付ける。夜会ではいつものことだが、今の姉には不安しかない。叔父のパーティーはまさに今夜なのだ。

 姉は左手の薬指にはまっている婚約指輪を右手の指でなぞる。憂鬱な気持ちを振り払おうとする。

(でもわたしはもうアレクセイ兄さまの婚約者役を引き受けてしまったんだもの。もう後には引き返せないわ。わたし自身で何とかしないと。パーティーでは他に味方もいないんだから。わたしが兄さまを全面的に信頼しないと。兄さまだけを頼りにしないと)

 全面的な信用、信頼。口で言うのは簡単だが、真面目な姉はついつい考えてしまう。どうすれば次男を全面的に信用できるのか、悩んでしまう。

(今のわたしにはあの人以外頼る人はいない、と考えればいいのかしら。女性関係以外のことだったら、あの人はきっと信用できる人だと思うし)

 社交界で家族以外に信用しない癖が抜けないのだろう。姉は溜息一つ、紅茶を飲む。今日の紅茶はレモンと香り漂う甘めの紅茶だった。爽やかな香りが鼻に心地よい。

 そんなレモンの香りが、数日前の姉の記憶を呼び起こす。婚約者役を引き受ける前に、次男に無理矢理キスされた朝の出来事を思い出させる。

 姉は紅茶のカップをソーサーに戻し、口元を手で覆う。かろうじて取り乱すような真似はしなかったが、姉の頬が見る見る紅潮していく。あの時の感触が鮮やかに蘇る。

 すると傍らに控えていたメイドの少女が心配そうに尋ねてくる。

「どうしましたか、オリガ様。お加減が悪いのですか?」

「いえ、大丈夫です」

 姉は平静な振りをして答えたつもりだった。座っていたソファに座り直し、お茶菓子に手を伸ばす。今日のケーキはマドレーヌだと聞いている。マドレーヌを口に運ぶ。甘く柔らかな食感が口に広がる。

「食事もお菓子も、いつも美味しいですね。料理人の方にお礼を言わないといけませんね。そして紅茶も、いつも美味しく淹れてもらってマリィには感謝したいくらいです。ありがとうございます」

 姉はそう言って話題を変える。

「そんな、私はただ当然のことをしているまででして」

 メイドの少女はそう言って、照れくさそうにしている。減っていた姉の紅茶カップに新たな紅茶を注ぐ。

 姉は小ぶりで軽い食感のマドレーヌを一つ食べ終わる。新たに入れてもらった紅茶で口を潤す。紅茶を飲みながら、姉は次男のことを考える。

(もしもアレクセイ兄さまが本気になれば、目の見えないわたしなんてあっという間にベッドに連れ込まれてしまうでしょうね。そして泣き叫んだところで、誰も助けてくれる人はいない。わたしなんて兄さまの好きなようにされてしまうでしょうね)

 姉は紅茶のレモンの香りをかぐ。考えを切り替える。

(でもそうならないのは誰のおかげ? 全部兄さまのおかげよ。兄さまがそうしないから、わたしはここでこうしていられる。肉体関係を求められることなく、穏やかに生活することが出来ている。それだけでも兄さまを信頼していい理由になるんじゃないのかしら。信頼に値するのではないのかしら)

 紅茶の香り、マドレーヌの甘い香り、薪の燃える木の香り、ドレスから漂うラベンダーの香り。目の見えない姉だったが、香りは以前よりも敏感に感じ取ることが出来る。次男が姉が心安らかに生活できるように、様々な面で心を砕いてくれているのがわかる。

(わたしはアレクセイ兄さまのことを信頼するわ。たとえ誰に何を言われても、わたし自身が兄さまに着いて行くと決めたもの。それはわたし自身が決めたこと。たとえどんなことでも、兄さまのために出来ることを探さないといけない。出来ることをやらないといけない)

 姉はふうっと長い息を吐き出し、窓の外を吹く風の音に耳を澄ませていた。

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