悪夢再び1
姉が泣いている。事故で視力を失った両目から止めどなく涙を流している。その涙は白い頬を伝い、ぽたぽたと厚い緋色の絨毯の上に音も無くこぼれ落ちている。
「わたしは、何もいらなかった。富も地位も名誉も権力も。両親さえ生きていれば、それで良かったのに」
顔は長い黒髪がかかっているため、その表情は見えない。けれど頬は紅潮し、その肩は怒りと悲しみに震えている。
(姉さん)
弟は霞む目で姉を見上げている。
(姉さん、泣かないで)
涙を流し続ける姉に弟は慰めの言葉を掛けてあげたかったが、出来なかった。弟の体は絨毯の上に横たわり、肩から血を流している。傍らには顔を真っ青にした叔父が弟の顔を覗き込んでいる。
「で、デニス、デニス。すぐに医者が来る。だから気を強く持つんだぞ? お前は私の息子も同然だ。私がお前を絶対に助けてやるからな」
普段は取り乱し腰をぬかす気弱な叔父が、こうして励ましてくれるのは珍しいことだ。叔父としては精一杯威厳を保とうとしているのかもしれない。それとも父親としての矜持か。
しかし叔父の気持ちがどちらだとしても、今の弟には関係ない。弟の今の心配は姉が泣き止まないこと、そして姉の今の主人である叔父の身の安全だ。それさえ保障されれば、他はどうなってもいい。例えそれと引き換えに弟の命が失われたとしても、それでいいのだ。
だが今の弟は肩を撃ち抜かれたために、まともに体を動かすことが出来ない。普段であればどうってことのない怪我でも、叔父をかばった時に運悪く神経に当たったのか動くことさえままならない。
姉の傍ら、かばうように立つ次男が、腹違いの長男に拳銃を向けているのが見える。
「親父を撃つなんて、お前は本当にクソだな。このクソ兄貴」
「お前こそ、ロクに引き金を引けない臆病者だ。その拳銃は見かけ倒しなのか?」
長男はまるで実の父親、叔父の命を狙ったとは思えない平静さで淡々と応じている。次男と長男は睨み合っている。
「あ~あ、義兄さん達は相変わらず仲が悪いね。折角おじい様の前なんだから、みんなで仲良くしないと」
四男はにやにやと笑みを浮かべて、肩をすくめている。そう言いながらも、兄弟の争いを止めるつもりなど全く無いように見える。
姉の見つめる先、豪華な長椅子には身なりのいい老人が杖を持ってどっしりと座っている。その傍らには黒服の男が控えている。
老人はこのような事態の間中、表情一つ変えない。親族同士の争いの間中、まるで自分とは赤の他人の仕出かすことを眺めているかのような落ち着きようだった。
弟はかろうじて動く眼球で、その老人の姿を捉える。
(ミハエル・ユスポフ。財閥を国で一番の巨大企業に成長させた経営者)
その老人が財閥総帥の時は、皇帝とも並び称されるほどの影響力を国の経済に与えていた。ここまで財閥が成長したのも、彼のおかげと言われていた。その実、裏では目障りな企業を取りつぶし、政治家相手に金にものを言わせて、自分に都合の良いように取り計らったとも言われている。
姉は悲痛な声で訴えている。
「どうしてあのまま下町で家族静かに暮らさせてくれなかったのですか? どうして家族を呼び戻したのですか? どうしてわたしの大切な家族を、こんな酷い目に遭わせるのですか?」
その老人こそ、今の財閥で一番権力を持っている者。姉の家族が命を狙われながら、親族同士が骨肉の争いをしていると知っていながら、黙って傍観していた。止める訳では無く、介入する訳でも無く、すべてを知っていながら見て見ぬ振りをしていた。姉はそれが許せないのだ。
「こんな目に遭わせるくらいなら、どうしてわたし達家族を呼び戻したりしたんですか? わたしも父さんも、母さんも、下町の貧しい生活で十分だったのに。あの時そっとしておいてくれればどんなに良かったか。わたしは家族さえいれば、富も地位も名誉も権力も何もいらなかったのに!」
老人は沈黙を守っている。
親族が集まる中、叔父の屋敷の広間では姉の悲痛な声が広間に響き渡っていた。




