悪夢32
「オリガ、おれ達は婚約者になったんだから遠慮することは無いよ。いつでもおれの部屋を訪ねて来てくれていいからね。もちろん夜に会いに来てくれてもいいんだよ?」
執務室を出て行こうとした姉の背に、次男の声が追いすがってくる。
姉は足を止め、執務室の中の次男をわずかに省みる。
「そんな非常識な時間にお訪ねすることは恐らく無いとは思いますが、兄さまのわたしに対するお心遣いにはいつも感謝致しております」
姉はまだ赤い頬を次男に見られないように、うつむいている。
足早に執務室から出て行く。執務室の扉がゆっくりと閉じられる。
姉はメイドの少女に伴われて廊下を歩く。自室へと向かう。
その途中、姉はメイドの少女に尋ねる。
「ねえ、マリィ」
「はい。何でしょうか、オリガ様」
「アレクセイ兄さまは、誠実な方かしら」
「はい?」
メイドの少女は素っ頓狂な声を上げる。その反応に姉は困ったように笑う。
「ううん、ちょっと思っただけです。今言ったことは忘れて下さい」
「は、はい、わかりました」
姉は耳の先がまだ熱を持っていることを意識する。先程の次男とのキスを思い出す。
あの時のことを思い出すと、未だに胸が高鳴る。唇の触れる柔らかな感触が思い出されて、首筋が熱くなる。
そして次男に今までキスされた時に感じていた拒絶とは別の感情が、姉の胸に宿っていることに気付く。
(わたし、兄さまとキスした時、以前ほど嫌じゃなかった。今までは嫌だったのに、どうして嫌じゃなくなったの?)
戸惑いと共に感じるその気持ちがどんなものであるのか、当の姉にもよくわからない。どういった種類の感情なのか姉には判断がつかない。
(わたし、兄さまのことが好きなの?)
姉は自分自身に問い掛けてみる。その答えは姉にしかわからない。
(ううん、きっと違うわ。今回は兄さまに無理強いをされなかったから。だからわたし自身兄さまの変化に驚いているんだわ)
姉は自分の気持ちをそう結論付ける。左手で自分の唇に触れる。その薬指に次男との婚約指輪の固い感触を感じる。婚約指輪を付けていても、姉の心には浮ついた気持ちは浮かんで来ない。体の火照った熱がなくなると、冷たい雪交じりの風が胸の隙間を吹き抜けていく。
(わたしもきっと兄さまが今まで付き合ってきた女性と同じ。飽きられれば、それで終わり。それまでの関係だったということなのでしょうね。兄さまにとっては目の見えないわたしは都合の良い遊び相手、ということなのかもしれない。こうしてわたしに良くしてくれるのも、何か別の狙いがあるのかもしれない)
姉は歩きながら左手の婚約指輪に触れる。宝石や装飾の細かさからかなり高価なものだろう。以前の次男の話では、もしも不要であれば売っても構わないと言っていた。
(もしも兄さまがわたしに飽きて、この婚約指輪が不要となれば、指輪はわたしが売っても構わないのでしょうね。これを売ればわたし一人でも少しは生活して行けるのかしら?)
姉はそんなことを考える。しかし次男に協力すると言った以上、今は全面的に次男を信頼しなければならないし、婚約者になった以上は精一杯婚約者らしく振舞わなければならない。今まで次男から受けた恩もある以上、姉自身精一杯のことをするつもりだ。
(もしも、その時が来たら、ね)
姉は今考えていた次男に対する不信感をそっと胸の奥にしまい込む。婚約指輪を売る話も頭の片隅に追いやる。
(今はわたしが出来ることを精一杯やらないといけないわ。わたしは兄さまの婚約者として、叔父様の誕生パーティーに出席しなければならないのだから。兄さまに恥をかかせないように振る舞わないといけないわ)
改めて決意を固める。姉は軽く頭を振って、気持ちを入れ替える。
姉の態度を不審に思ったのか、メイドの少女が口を開く。
「オリガ様、やはりご気分が悪いのですか? 後少しでお部屋に着きます。もうしばらくの辛抱です」
どうやらお付きのメイドの少女は、ずっと黙り込んでいた姉の様子を心配していたらしい。姉は顔を上げ、メイドの少女に笑いかける。
「大丈夫です、マリィ。アレクセイ兄さまからお話を聞いて、少し疲れただけですから」
「そうですか? それにしては、先程より顔色が悪いように見受けられますが」
「本当に大丈夫なのです、マリィ。心配しないで」
笑顔で受け答えしながら、姉は頭の芯が冷えていくのを感じる。きっと姉とメイドの少女との会話も行動も、使用人たちによって次男に逐一報告されているに違いない。
たとえ目の前のメイドの少女が姉の監視として付けられていても、姉を気遣う言葉が嘘だとしても、心の中では嘲笑っていたとしても、それでも構わないと今の姉なら思う。割り切って考えるしかない。
(わたしは、わたし自身を信じるしかない。信じられるのはわたししかいない。たとえ兄さまに、皆に裏切られたとしても、わたしは自分の信じる道を進むしかない。わたしの信じたものを信じるしかない)
たとえこの先どんな困難が待ち受けていようとも、それは姉が選んだ結果の出来事なのだ。たとえ次男に裏切られたとしても、結果として姉がひどい目に遭っても、この先姉が命を落としたとしても、それはすべて姉の責任だ。誰かの責任でもないし、誰の責任にも出来ない。自分が自分の行動の責任を負うしかないのだ。抗いがたい運命だとしても、自分の運命を受け入れるしかないのだ。
あの元メイドのように、誰かのせいにして当り散らすことは出来ない。自分の運命を嘆くことは出来ても、最後は受け入れざるを得ない。
今現在頼れる相手がいるとしたら、家族の他には次男しかいない。婚約者として協力すると言ったからには、約束は違えないつもりだ。
(今はアレクセイ兄さまを信じて、着いて行くしかないわ。他の誰に何を言われても、兄さまだけを全面的に信じるしかないもの。兄さまだけが味方だと思わないと)
重い気持ちを吐き出すように、姉はふうっと溜息を吐く。白い息は廊下の温かい空気に触れてすぐに霧散して行く。
廊下のガラス窓の向こうには、薄暗い雪空が広がっている。
今夜も吹雪になりそうだった。




