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姉と弟  作者: 深江 碧
十四章 悪夢
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悪夢31

 それが今では前向きに生きようと思えるようになった。生きたいと強く思えるようになった。先のことが考えられるようになった。事故に遭った直後から考えれば、信じられない心境の変化だろう。 こうやって落ち着いた気持ちで過去を振り返ることが出来るようになるとは、以前なら考えられないことだろう。

(これから先、兄さまに協力をして、すべてが終わった後、その時はどうするのかしら。もしも兄さまがわたしを必要としなくなったら、その時わたしはどうするの? 何がしたいの、何かしたいことがあるの?)

 先のことを考えると、姉自身何もわからなくなる。さらに数年先、十数年先のことだと、今の段階では想像さえ出来ない。目が見えた頃と違って、目の見えない姉に出来ることは限られている。今の姉に出来ることは限られている。

 姉の脳裏に唯一の家族である弟の姿が思い浮かぶ。弟は元気でいるだろうか。怪我や病気などしていないだろうか。

(デニス)

 姉の今の望みは、家族二人で穏やかな生活をして行くこと。現在はそれ以上のことは望まない。

(すべてが終わった後、わたしはデニスと穏やかな生活を送ることが出来るのかしら? あの子もそれを望んでいるのかしら?)

 弟の気持ちはわからない。姉との生活よりも、今の叔父との生活の方がいいと言うかもしれない。

(もしデニスがどんな選択をしたとしても、それはあの子の選択だもの。わたしは家族として、姉として、あの子を見守っていくことしか出来ない)

 いつかは弟も好きな人が出来て、姉から離れていくのだろう。そして姉も生涯連れ添える伴侶と出会い、家族で穏やかな生活が過ごせることを望んでいる。

 姉が香りの良い紅茶を飲みながらそんなことを考えていると、隣から次男に声を掛けられる。

「そうだ、オリガ。折角だからこれを渡しておくよ。これからはおれと一緒の時は常に身に付けてもらうことになると思うけれど」

 次男はそう言って小箱を取り出す。小箱の中から手の平に収まるほどの小さな物を取り出す。姉の左手を取り、その薬指に小箱から取り出した物をはめる。

 その左手の薬指にはまった指輪の感触に、姉は驚きの声を上げる。

「これは、婚約指輪ですか?」

 次男はゆっくりとうなずく。

「そうだよ。以前君にあげようと思ったんだけど、その時は君は受け取ってくれなかったからね。こうして改めて君に贈ることにするよ。おれは君に婚約を申し込む。オリガ、おれの婚約者になってくれないか?」

 姉は一瞬言葉に詰まる。ややあって蚊の泣くような声で答える。

「はい」

 隣で姉の返事を聞いた次男は、満足そうに笑う。

「じゃあ今度はこの婚約指輪も受け取ってくれるよね?」

 次男は姉の顔を覗き込む。協力すると言った以上、姉には断ることは出来ない。

「は、はい、兄さまがそう仰るのでしたら、肌身離さず付けていることにします」

 姉は気まずい気持ちで指輪のはまった左手を引っ込める。指輪を意識しながら、胸の中には次男に対する複雑な思いが渦巻いている。

 次男は小箱に入っていたもう一つの婚約指輪を自分の左手の薬指にはめている。デザインの似たその指輪は姉の指輪ほど装飾や宝石が多くはなく、簡素な造りとなっている物だった。

 うつむいている姉に、次男はさらに顔を近付ける。

「ねえ、オリガ。君はおれの婚約を受け入れてくれたんだよね。おれたちは婚約者同士になったんだよね。だったらキスくらいは君の方からしてくれてもいいんじゃないかな?」

「え?」

 キス? と、姉は心の中でつぶやく。姉の頭に耳慣れない単語が疑問符と共に浮かぶ。

 次男は大きくうなずく。

「そう、キスだよ。婚約者ならキスくらい挨拶みたいなものだと思うけど。目の見えない君にはおれの顔がどこの位置にあるのかわからないだろう。でもこうして手で触れればわかるだろう? ほら、ここだよ」

 次男は姉の左手を握って、自分の頬に触れさせる。姉の指先に次男の髪と頬が触れ、その感触と温度が伝わってくる。次男を意識すると顔の温度と心臓の鼓動が速くなる。

「軽くキスするくらい、婚約者同士なら誰でもやっていると思うけど。逆にそれをしないと周囲に怪しまれるかもしれないし。今ここで実際にすることが出来ないと、パーティーでも実際に出来ないと思うけど」

 次男の言い分もわかるような気がする。姉とかつての婚約者は、挨拶と言っても頬にキスする程度だったが、他の夫婦や婚約者同士の挨拶は口にキスをするのが一般的のようだ。社交界でそれを見知っていない姉では無い。

「そ、そうですね。婚約者ですものね。キスくらい、出来るようにならないと、いけませんよね?」

 姉は赤面しながら答える。左手は次男の顔に添えられたままだ。姉は自分に言い聞かせるようにつぶやき、勇気を奮い起こす。

「で、では、失礼して」

 いつも異性の方からされるばかりで、姉からするのはこれが初めてに近い。次男に握られた左手から、大よその顔の位置を推測する。

 姉は次男の方に体を向け、肩に手を置いてそっと顔を近付ける。心臓が早鐘のように鳴り、頬が火のように熱く感じられる。慣れないこともあって緊張のあまり倒れてしまいそうだ。

(こ、これも慣れです。婚約者同士の一般的な挨拶だと思えば)

 姉は一生懸命次男に顔を近付ける。鼻先が触れ合い、吐息が感じられる距離まで近付く。不意に次男の方から声を掛けられる。

「流石に目の見えないオリガに、これ以上は無理かな。後はおれが引き継ぐよ」

 軽く体を引き寄せられたような気がして、姉の唇に柔らかく温かい感触が触れる。

「んっ」

 次男からされた今までのキスに比べて、それは穏やかなキスだった。唇が触れ合っている程度の軽いものだ。

 姉は次男と唇を重ねたまま、そっと抱きしめられている。

 今日は柑橘系の香りと、紅茶の香りとが混ざって感じられる。

 次男に握られた左手はじっとりと汗ばんでいて、肩に置かれた右手を固く握りしめている。姉の腰には次男の腕が回され、わずかに力が込められている。

(あ、挨拶のキスって、どのくらいしていればいいんでしたっけ?)

 頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなる。

 二人のそばではメイドの少女が顔を赤らめて立ち尽くし、中年の部下は表情一つ変えずに仁王立ちしている。

 どのくらいそうしていたのか、姉自身もよく覚えていない。ほんの十数秒のことだったかもしれないし、一分近くそうしていたのかもしれない。

 姉が体を離すと、次男は自然に姉を解放してくれた。次男は名残惜しそうな顔をしていたが、目の見えない姉は気付かない。緊張と心臓の早い鼓動をなだめるので精一杯で、姉自身他に気を回している余裕は無かった。

 顔の赤い姉を、次男は深緑色の瞳でじっと見下ろしている。

「こ、これで、いいでしょうか?」

 姉は頭から湯気が出そうな心持ちで尋ねる。尋ねてから、そもそも正解など無いと姉自身が気付く。頭は混乱したままだ。

 次男は姉の取り乱した様子を笑って眺めている。

「うん、やっぱりいいね。オリガからしてもらうなんて、新鮮でいい。それにその反応も初々しくて可愛いね」

 次男の感想に、姉はどう答えていいのかわからない。

「そ、そうですか」

 次男は恥ずかしそうにうつむく姉を見つめている。冗談めかした口調でにっこりと笑う。

「でもこの調子じゃあ、オリガとおれとの初めての夜は当分先になりそうだね。まあ今はこれで十分だよ。いずれオリガがその気になるまでは、せいぜいその日を心待ちにしておくことにするよ」

 次男は婚約指輪のはまった左手で姉の頬を撫でる。姉は顔を赤くしたまま黙り込んでいる。

(この人の言ってることは、本当に冗談なのか本気なのかわからないわ)

 溜息を吐きつつ、この冗談にも慣れてきているのが、姉自身にも不思議に思う。

「そうですね。その日はかなり遠いかもしれませんが」

 姉は次男の態度に呆れつつ、テーブルに向き直る。気持ちを落ち着けようと紅茶を一口口に含む。これでキスは終わりとばかりの姉の態度に、次男は不満そうにつぶやく。

「あれでもう終わりなのかい、オリガ。折角婚約者になったんだから、おれはもっとオリガと親しくなりたいな。もっと色々練習しておこうよ?」

 姉は間髪入れずに答える。

「遠慮しておきます」

「そう言わずにさ」

 次男は姉の方に肩を寄せてくる。ソファの隅にいる姉にはそれ以上逃げ場は無い。姉は内心の動揺を悟られないように、努めて平静のふりをしてすっくと立ち上がる。

「色々とアレクセイ兄さまに聞いておきたいお話しはありますが、今は気分が優れないので、これで失礼致します。御機嫌よう、兄さま」

 姉は次男に優雅に一礼する。次男に背を向けて杖をついて部屋の扉へと向かう。

「あ、オリガ様。お部屋へとご案内いたします」

 メイドの少女が慌てて追いかけてくる。

「オリガ様、どうぞ」

 中年の部下が先に立って、執務室の扉を開ける。

「ありがとうございます、イーゴリさん」

 姉は中年の部下に感謝の言葉を述べる。

「オリガ様、どうぞこちらへ。足元に注意して下さい」

「ありがとう、マリィ」

 メイドの少女に伴われて、次男の執務室を後にする。

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