悪夢30
「うん、オリガがそう言ってくれるなら良かったよ」
答えながら、次男はたたんだ便箋を封筒の中に入れる。手紙をテーブルの上に置き、ソファから立ち上がる。
姉は手を伸ばし、テーブルの上に置いてあった紅茶を一口飲む。まだ温かさを残した紅茶の香りと味が姉の気持ちを落ち着ける。
(マリアさんの手紙をどう受け取るのかは、わたし次第なのよね。それにマリアさんはもうこのお屋敷にはいないんだもの。今更マリアさんの気持ちを知ったところで、わたしにはどうしてあげることも出来ない。新しい環境での生活を応援してあげることしか出来ない)
姉は紅茶のカップを持ったまま、また考え込んでしまう。
テーブルを回り込んできた次男が、姉の隣に座る。ソファがわずかに軋み、姉は弾かれたようにそちらを振り返る。
「浮かない顔してるね、オリガ。マリアのことがそんなにショックだったのかい。優しいね、オリガは。そんな顔は君には似合わないよ?」
隣に座った次男は姉の方に身を寄せてくる。肩に手を置いて、姉の耳元に顔を近付け甘い声でささやく。
「ねえ、オリガ。折角オリガがおれに協力してくれて、婚約者のふりをしてくれるって言うんだからさ。とっさに婚約者らしく振舞えるようにその予行練習をした方がいいと思わないかい?」
姉は次男の言葉を聞いてカップを持つ手が震える。カップの中の紅茶がこぼれそうになる。
「そ、それは、つまり、わたしに兄さまの婚約者らしい振る舞いをしろ、と言うことですか?」
その意味がわからない姉では無い。姉はわざと視線を逸らす。
「そ、そ、そうは言われましても。た、確かに、アレクセイ兄さまに協力するとは言いましたが」
背後に立つ中年の部下に視線で助けを求める。すると見かねた中年の部下が溜息を吐く。
「アレクセイ様、あまり急に言われてもオリガ様が困っておられますよ?」
とっさに助け舟を出してくれる。次男はうんざりしたような顔で中年の部下を見る。
「お前は彫像じゃなかったのか、イーゴリ。折角いい雰囲気だったのに」
「私にはとてもそのようには見えませんでしたが?」
中年の部下は呆れたようにつぶやく。次男が他に気を取られている間に、姉は次男から距離を取ってソファの隅まで移動する。
「わたしとしても、アレクセイ兄さまに突然迫られるのは慣れていないので心臓に悪いです」
中年の部下に賛同するように溜息を吐く。それに対し次男は涼しい顔で応じる。
「そんなんじゃ、おれの婚約者は務まらないよ、オリガ。婚約者のふりをするなら、親密なところを周囲に見せ付けなきゃ」
「そうでしょうか?」
今度は姉が反論する。
「本当に仲の良い人同士は親密さよりも信頼関係が重要だとわたしは思います。親密さでしたら友達同士でも親密な関係になれますし、恋人同士でもお互いに信頼していない男女はいます。もしもわたしと兄さまの間に確かな関係があると見せつけたいのであれば、信頼関係こそ重要だとわたしは思うのです」
それを聞いて次男は渋い顔になる。
「言うようになったね、オリガも」
「申し訳ございません」
「褒めてるんだよ、オリガ。おれとまともにやり合えないようじゃ、あの財閥の重鎮たちとまともにやり合うのは無理だろうから。オリガが意見をはっきり言ってくれるのは良いことだとおれは思うよ。この屋敷に来たばかりのオリガは、ふさぎ込んでいてまるで生気のない人形のように見えたけど、今のオリガの方がずっと魅力的に見えるよ」
次男はそう言って、姉の顔を覗き込んでくる。
「そ、そうでしょうか? 兄さまにそう言っていただけるなら良いのですけど」
相変わらず冗談か本気かわからない。姉は照れくさくなって視線を逸らし、紅茶のカップからぬるくなった紅茶をすする。
そして中年の部下だけでなく、次男も屋敷に来たばかりの姉を、そのように見ていたのだと納得する。
(やっぱりアレクセイ兄さまも両親を亡くしたばかりのわたしのことを心配してくれていたのだわ。この屋敷の方や兄さまには何とかご恩返しをしたいとは思っているけれど)
目の見えない姉には何をすれば喜んでもらえるのか、どこまで恩が返せるのかはわからない。
(でもわたしには、わたしにしか出来ないことがきっとあるはずだわ)
今は姉も前向きに考えられるようになってきた。多少落ち込むことがあっても、もう以前のように深い絶望に囚われることは無いと思っている。
(わたしはわたしの出来ることを探さないといけない)
姉は持っていた紅茶のカップから顔を上げる。空になったカップをテーブルの上のソーサーに置く。するとすかさずそばに立っていたメイドの少女が紅茶のポットを持って姉に尋ねる。
「オリガ様も、もう一杯いかがですか?」
メイドの少女に紅茶を注いでもらっていたのか、次男は二杯目の熱い紅茶を飲んでいる。
「ありがとうございます。頂きます」
姉はメイドの少女に笑いかけ、隣に座る次男の方を振り返る。真剣な表情で見上げる。
「アレクセイ兄さま。わたしが兄さまの婚約者のふりをする、というのは既にお話したと思います。他にわたしが兄さまのために出来ることはありますか? 他に協力出来ることはありませんか? 出来れば色恋沙汰以外のことでお願いしたいのですが」
次男は虚を突かれたような表情で姉を見る。
「オリガに出来ることねえ」
考える素振りをする。
「そうだね。オリガにしてもらいたいことと言えば、沢山あるけれど。まずは親父の誕生パーティーにおれと一緒に出席してくれることかな。そしてその場で他の誰に何を言われても、おれを全面的に信用すること。おれの言うことを守ること。まずはやってもらいたいことと言うと、それ位かな?」
「兄さまを全面的に信用すること、ですか?」
次男の言うことを守る、とはまるで子どもに言い聞かせる口ぶりのように姉には受け取れる。信用が大事だと言うことはまだわかるのだが、どういう意味で言っているのだろう。
姉の疑問が顔に出ていたのか、次男はその理由を説明する。
「おれを疑っていると、誰かに何か言われる度に心が揺らいでしまうからね。特にオリガの場合は人を信用しやすし、気持ちが顔に出やすい。親父のパーティーではおれの兄弟や財閥の重鎮たちも出席する以上、隙を見せられない。だからオリガには誰に何を言われてもおれを信じて欲しいんだ。信頼できる唯一の味方でいてもらいたいんだ」
「唯一の味方?」
気持ちが顔に出やすいのは自覚していたが、次男の唯一の味方でいて欲しいとは、どういう意味だろう。それだけパーティーの出席者が信用できないということだろうか。
姉はかつて次男の弟、三男のフェリックスに会ったことがある。雪の中で行き倒れているところを助けてもらい、屋敷で看病してくれた三男。叔父の誕生パーティーであれば当然息子である三男も出席するのだろう。
「でも兄さま。兄さまの実の弟さん、フェリックスさんと仰ったでしょうか。弟さんなら味方と言えるのではないでしょうか」
姉は遠慮がちに言う。次男は声を立てて笑う。
「おれのことに弟のフェリックスを巻き込めないよ。それに弟は恐らく今回のパーティーには出席しないだろう。財閥の重要なパーティーには弟は極力関わろうとしないからね。まあそれが賢明だと思うけどね」
「賢明、ですか?」
引っ掛かりのある次男の言い方に姉は首を傾げる。次男はゆったりと紅茶を飲んでいる。
「権力ある立場に近付こうとすると、この国では嫌でも危険な目に遭わなくてはならない、と言うことだよ、オリガ。賢明な君なら既にわかっていると思うけどね。かつて君の父親が財閥総帥だった時、危険は常に身近にあった。君たち家族は常に危険に晒されていた。そのために君の伯母さんが弟君を護衛に就けたほどだ。今回こんなことが起こることも、ずっと以前から想定されていたことなんだ。おれの兄貴じゃなくても財閥総帥の座を狙う者は多い。兄貴が手を下さなくても、いずれは他の誰かの手によって君たち家族の命を奪われていたかもしれない。逆にここまで無事だったのも、弟君のおかげかもしれないよ」
姉は沈痛の面持ちで聞いている。胸元に下げたペンダントに触れる。弟のことを思い出す。
隣に座る次男は淡々と話している。
「おれも出来ることなら財閥のパーティーなんて厄介な場所、フェリックスのように出席したくないんだけどね。あのクソ兄貴とクズ弟が見逃してくれるとも思えないからね。こうしてある程度の備えをして出席せざるを得ないんだよ。だからおれのことにフェリックスを巻き込むことは出来ない。下手をしたらフェリックスまで危険な目に遭わせてしまう」
次男が唯一の味方であって欲しい、と言ったのも、実の弟を巻き込まない為らしい。
「そうなのですね。それで兄さまはわたしに全面的に信用して欲しいと仰ったのですね。わかりました。わたしは兄さまに全面的に協力すると言ったのですから、仰るように振る舞います」
「そう言ってくれて助かるよ」
姉は紅茶のカップを持ち上げる。カップの中には湯気の立つ香りの良い紅茶が入っている。きっと次男のことだ。良い茶葉を使っているのだろう。
(良い香り)
姉は紅茶の香りを胸いっぱいに吸い込む。暖炉の薪の燃える香りが部屋に満ち、静まり返った部屋に炎の燃える穏やかな音が響いている。
こんな穏やかな日々がずっと続けばいい、と姉は思う。けれどこの日々も姉や次男が最大限の努力をしないと保てない日々なのだ。もしも対応に失敗してしまったら、また以前のような、追いつめられ逃げ続ける日々に戻ってしまうような気がして、姉は怖かった。
(わたしはとても恵まれているんだわ)
弟に逃げる手助けしてもらったこと、次男に助けてもらったこと、雪の中三男に発見されたこと。その他の多くの幸運が今の姉の命を支えている。そう考えると、今生きているのが不思議なくらいだ。両親を失って、目が見えなくなって病院から逃げ出したばかりの頃は、いつ死んでもおかしくない状況だったのだ。何もかもが嫌になって自暴自棄になっていた。




