悪夢29
姉は次男の手から若いメイドの手紙を受け取ると、封筒の中にあった数枚の便箋を取り出す。ゆっくりとたたまれた便箋を広げる。紙のさらりとした感触が指を通して伝わってくる。
しかし文面を見ても、目の見えない姉に読むことは出来ない。何が書いてあるのかわからない。
便箋を広げたまま固まっている姉を、次男はにやにやと笑みを浮かべて眺めている。
「オリガ、おれが読んであげようか?」
次男がそう提案する。姉はしばし思案する。
「お、お願いします」
姉は持っていた便箋を手渡す。
「はいはい、婚約者のオリガの頼みなら喜んで」
次男は軽くウィンクする。姉から手渡された便箋を受け取る。
「と言っても、おれはマリアの手紙に一通り目を通して、内容は知っているんだけどね」
そう言いつつ、次男は手紙を広げ、声に出して手紙を読み始めた。
『アレクセイ様、突然お屋敷を辞めると言い出して申し訳ありません。でもお屋敷を辞めることは前々から考えていました。まさかバレンチナがあんな行動を起こすとは思ってもいませんでしたが、バレンチナがこのお屋敷からいなくなった時から考えていたことです。
ずっとご存知だったかもしれませんが、バレンチナがアレクセイ様に好意を抱いていたように、私もアレクセイ様に助けて頂いた時から、初めて出会った時からずっと好きでした。でも叶わない想いだと思って諦めていました。私はメイドで、アレクセイ様はこのお屋敷のご主人様。それにこの巨大なユスポフ財閥のデザイン関係の会社をいくつか任されていて、とても優秀な経営者だと聞いていましたから』
次男はそこで言葉を切って、困ったように笑う。
「君たちに改めて読み聞かせるとなると恥ずかしいものだね。まあ、この辺は聞き流してくれればいいから」
照れ臭そうにそう言う次男は、マリアの手紙に書かれている内容を読んでまんざらでもないようだ。
姉はどうして若いメイドがこの屋敷から去ったのか、その理由が知りたいと思っていた。手紙ではまだ去った理由の部分には触れていない。
「先を、読んでいただけますか?」
姉は次男に先をうながす。
「うん、そうだね」
次男は小さくうなずいて、また読み始める。
『とても私が釣り合うお方ではないと思って諦めていました。アレクセイ様が目の見えないオリガ様をお屋敷に連れて来た時、オリガ様の身の周りのお世話を任されてから、アレクセイ様と釣り合うのはきっとこのようなお美しい方だと直感しました。実際にオリガ様はメイドの私にも優しく接してくれましたし、私から見ても素敵な方でした。アレクセイ様が大切に思い、好きになるのも当然だと思いました』
「だ、そうだよ、オリガ」
次男は手紙から顔を上げて、にやにやと姉を見つめている。
「お優しく美しい素敵なオリガ様は、おれが好きになるのも当然だと書かれているよ。それについてはどう思うんだい?」
若いメイドからの手紙に聞き入っていた姉は、急に話を振られて答えに詰まる。
「もうっ、からかわないで下さい」
姉は頬を膨らませる。次男は声を立てて笑っている。
「悪かった、オリガ。じゃあ続きを読むね」
『まさかバレンチナが私と同じようにアレクセイ様のことを好きだとは思ってもいませんでした。そしてアレクセイ様に怪我を負わせ、目の見えないオリガ様を襲うなど、あんな恐ろしいことをするとは思ってもいませんでした。バレンチナが死んだ後、私は心にぽっかりと穴が開いたようでした。何をするにもやる気が出ませんでした。それと言うのも、きっと私はバレンチナに同情し、彼女に自分を重ねていたのでしょう。アレクセイ様への叶わぬ思いを抱えるバレンチナと、自分の境遇を重ねて自分を慰めていたのだと思います。私はバレンチナほど積極的にアレクセイ様に好意を伝えることは出来ませんでしたが、もしももっと積極的な性格だったらきっとアレクセイ様にもっとはっきりと好意を伝えることが出来たでしょう』
そこまで読んでもらって、姉は考える。
(わたしがこの屋敷に来たから、きっとこんな風にこじれてしまったのね。マリアさんが苦しむことになったのだわ。もしもわたしがこの屋敷に来なければ、こんなことにはならなかったかもしれないのに。わたしがここに来なければ)
悩む姉とは対照的に、次男は別のことを考えたようだ。そこで読むのを止めて溜息を吐く。
「マリアまでバレンチナのような行動をされたら、おれとしてはとても困ってしまうところだけれどね。バレンチナのような女性に迫られるのは、もうこりごりだよ」
次男はそう言って肩をすくめる。ちらりと向かいのソファに座る姉を見る。
「オリガはまさかそんな行動は起こさないとは思うけどね。でもオリガに迫られるんだったら、おれとしては悪い気はしないかな?」
真剣に考え込んでいた姉は、急に自分の名前が出されて驚く。
「わ、わたしが、兄さまに迫る、ですか?」
顔を赤くする姉に、次男は声を立てて笑っている。
「例えばの話だよ、オリガ。これは真面目に受け取らなくてもいいんだけど。オリガがおれの婚約者になってくれるというのだから、少しぐらい色っぽい話があっても構わない、と言うことだよ。例えばオリガがおれに迫ると言うのなら、それも構わないし、一夜を共にしても構わないとおれは思うんだ。もちろんオリガがいつかはおれの魅力に気付いて好意を抱いてくれる日もそう遠くないよ思っているけどね。でも今のところ君にはそういった気持ちは一切無いようだから、それまではおれの婚約者のふりをしてくれているだけで十分さ」
「は、はあ」
次男の言うことはどこまで本気なのか冗談なのか、いまいち判別がつかない。
しかし以前に比べると、次男も姉に配慮してくれているだろう。以前であれば姉をからかう言動ばかりで、このように取り繕うこともなかったように思うが、今は一定の配慮があるようだ。そう考えると次男も姉に遠慮し、気遣ってくれているということだろう。
そして姉も以前なら次男の態度を失礼だと思っていたのだが、この頃はこれが彼の性格だと考えるようになった。これは彼なりの優しさだと少しは前向きに受け取ることが出来るようになった。
(わたしもアレクセイ兄さまの性格がわかってきた、ということなのかしら。こういった環境に慣れてきたということなのかしら?)
気持ちにゆとりが出来てきた、ということだろうか。以前のように次男に不信感ばかりが募る、という状態にはならない。今はそれなりに次男に意見を言うことも出来るし、不審に思うことはあっても、以前よりも冷静に物事を考えることが出来るようになったように思う。色々なことに思い悩む、と言う状況も以前より少なくなったように思う。
今振り返ってみると、どうしてあれほど次男に対して不信感を抱いていたのか不思議に思う。あの時は次男は何も話してくれないと思い込んでいた。だが実際はこうして話をしていくうちに、ある程度のことを話し合えると言うことに気付いた。次男に対する不信感も少しずつ和らぎ、いずれはもっと話し合う時間があればお互いに信頼関係を築くことが出来るだろう。
真剣に考え込んでいる姉に、次男は声を掛ける。
「マリアの手紙はもう少し続くよ。もう少しだけ聞いてくれるかな」
姉は考えを打ち切り、顔を上げる。
「は、はい、お願いします」
『私がこのお屋敷を辞めると聞いて、アレクセイ様はさぞかし驚いていることと思います。そしてオリガ様にも大変な迷惑を掛けてしまったと思います。でも、辞めることはバレンチナが死ぬ前からずっと考えていたことなんです。アレクセイ様とオリガ様のお二人がお似合いなことは、私から見てもはっきりしていましたから。バレンチナほど強硬な手段に出なくても、私もオリガ様に嫉妬を感じていました。ちょうどバレンチナが行く予定だった老夫婦のお屋敷の話を聞いて、私はそのお屋敷に行きたくなりました。少しでもアレクセイ様やオリガ様のこと、バレンチナの死を忘れたかったのです。このお屋敷から離れたかったのです。
前にも書いたように、私はバレンチナに同情し、自分を重ねていました。バレンチナほどでは無いにしろ、嫉妬も感じていました。いつバレンチナのように強硬な手段に出てしまうか、最近は自分の感情に怯える日々でした。酒乱だった父親のように、いつ誰かに暴力を振るってしまうかと心配で夜も眠れないほどでした』
以前、若いメイドから姉は聞いたことがある。若いメイドの父親は酒乱で、彼女に暴力を振るっていた。そんな時、次男に助けられ、そんな父親から逃げるようにこの屋敷のメイドになったと聞いている。そんな父親から離れても、若いメイドは父親を忘れることができなかったのだろう。優しいが故に、若いメイドはすべてを自分と無関係と切り捨てれずに、背負い込んでしまったのだろう。姉はそんな若いメイドを可哀想に思う。
『だからごめんなさい、アレクセイ様、オリガ様、お世話になった皆様。私が皆に挨拶もせずにこのお屋敷を去ったことを、きっと怒っていることと思います。でも皆の顔を見たら、決心が揺らいでしまう。きっと後ろ髪を引かれてしまう。だから誰にも言わずに、私はこっそりとお屋敷を去ります。この手紙をアレクセイ様に託して、馬車で老夫婦のお屋敷に向かいます。どうか私のことは忘れて下さい。さようなら。今までお世話になりました。 マリア』
最後まで読み終えて、次男は息を吐き出す。開いていた便箋を閉じる。
「これが、マリアからおれに託された手紙だ。おれはマリアに馬車を手配して、早朝に屋敷から出て行くところを見送ってやった。彼女は始終暗い顔で、最後までおれをまともに見ようとはしなかったよ」
「そう、ですか」
若いメイドからの手紙の内容を聞いて、姉の心は複雑な気持ちだった。若いメイドがこの屋敷から去った理由を、どう受け取っていいのかわからない。
しかしここで暗い顔をしても次男を心配させるだけだと考えた姉は、無理に明るい声で答える。
「手紙を読んで下さり、ありがとうございます、アレクセイ兄さま。マリアさんの気持ちがわかって良かったです」




