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姉と弟  作者: 深江 碧
十四章 悪夢
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悪夢28

(このままじゃいけない。このままじゃずっと兄さまのペースに乗せられっぱなしだわ。何とかこちらの聞きたいことを聞かなきゃ。兄さまに聞くためにやって来たと言うのに)

 姉の心中ではわずかな憤りと共に焦りも感じていた。

(このままじゃいけないのに)

 折角意を決して次男の元までやって来たのに、聞きたいことも聞けずに次男の良いようにされてしまう。

(何とか話の流れを変えないと。今までのままではいけないのに)

 姉は次男にうながされるままにアップルパイを口に運ぶ。

 口に入れた瞬間、姉はその懐かしい味に驚く。それは母親の作ったアップルパイに味がそっくりだったのだ。パイ生地のさくさくした味も、甘過ぎない林檎の風味も、何もかも姉の母親が作ったアップルパイの味そのものだった。

「どうだい? おいしいだろう」

 次男の問いに、姉は口元を手で押さえながらかろうじてうなずく。

「は、はい、とてもおいしいです」

 姉は驚きながらも、それを表に出さないように努める。こんなところで驚いていては、それこそ次男の思う壺のような気がしたのだ。

(どうしてこの人は母さんの作ったアップルパイの味を知っているの? それともこれは偶然なの? たまたま同じ味になったってことなの? この人はわたしの何を知っているの?)

 姉の頭の中に次男に対する問いがぐるぐると回っている。胸の中に次男に対する不信感が沸いてくる。

「あなたは先程、わたしがどんなことを知っているのか、わたしに尋ねましたよね。では今度はわたしがあなたに聞きます。あなたはわたしの何を知っているのですか? どうしてわたしにこんなに良くしてくれるのですか? どうして婚約などを申し込んで」

 言いかけて、姉は言葉を切る。婚約に関しての話は以前に次男に何度も聞いたはずだ。これ以上追及しては、逆に次男を困らせてしまうかもしれない。失礼に当たるかもしれない。

 姉は軽く首を横に振る。

「いえ、婚約の話は今はいいのです。ただ、あなたはわたしのことをどれだけ知っているかと思いまして、それが気になったのです」

 姉の問いに次男は笑いながら答える。

「君のことは一通り調べてあるよ。君が幼い頃に下町に住んでいたことも、その頃の生活の様子まで。好きな女性のことなら何でも知りたいと思うものだからね」

「何でも、ですか?」

 それはそれで逆に怖いと思う。姉は怪訝な表情を浮かべる。

「あぁ、もちろん何でも、という訳では無いけれど。あくまで人伝に調べられる範囲さ。君の好きな異性のタイプが分かれば、本当はもっと簡単なんだけれどね。残念ながらそこまではわからなかったからね」

 次男は肩をすくめる。

(じゃああの母さんのアップルパイの味も、人伝に聞いたと言うことなの? でもまったく同じ味のパイを作ることが本当に出来るのかしら)

 姉は料理のことに詳しくないが、母親は自己流で料理を作っていた。きちんとした量を測ったりもせず、自分の感覚と自分の舌を頼りに作っていた。そんな味を再現するなど可能なのだろうか。

(わからないわ。どうしてこの人はこのパイをわたしに食べさせたのかしら。わたしが喜ぶと思ったから? そんなことのために母さんの味を調べたの?)

 姉は次男のことがますますわからなくなる。次男に対し底知れない怖さも感じ、ある種の人懐っこさも感じる。両方の側面を備えている次男は、姉が考えるほど単純な性格では無いのかもしれない。

 姉がうつむいて考え込んでいると、次男がその顔を覗き込んでくる。

「もしかして、この味が気に入らなかったかい? 君が喜んでくれると思ってのだけど、おれの見当違いだったかな」

 姉は慌てて首を横に振る。

「そ、そんなことはありません。このアップルパイはとても美味しいです。わたしにはもったいないくらいです」

 姉は頬を赤らめてうつむく。次男は満足そうにうなずく。

「そうか。それなら良かった。わざわざ料理人にこの味を再現してもらったかいがあるよ」

 次男はアップルパイをもう一口口に入れる。上機嫌で話す。

「これは君のお母さんの作ったアップルパイに味を似せてあるんだ。君の口に合うかどうかわからなかったけど、君が喜んでくれたなら良かった」

 自然な様子で話す次男に、姉は呆気にとられる。

「はい、おいしいです」

 小さな声で答え、ナイフでもう一切れ切る。そっと口に運ぶ。

 口に入れると優しい甘さがじんわりと広がる。

(やっぱりおいしい)

 一緒に食べていた亡き両親との思い出が胸に蘇る。思わず涙が溢れそうになる。

(父さん、母さん)

 今はもう会えない亡き両親の面影を思い浮かべる。その思い出に背中を押されるように、姉は持っていたナイフとフォークを皿の上に置き、姿勢を正す。緊張した面持ちで口を開く。

「アレクセイ兄さま。わたしはずっと悩んでいました。でもようやく決心することが出来ました。わたしはあなたに協力致します」

「へ? それはどういう」

 紅茶を飲んでいた次男は顔を上げて、驚いた表情で姉を見つめている。

 姉は構わず続ける。

「わたしはあなたのことはまだよくわかりませんし、この先婚約者として、生涯の伴侶として、あなたと共に歩むべきかどうかも、まだわかりません。でも今はあなたを信じ、ついて行こうと思います。それ以外の選択肢は今のところ考えられません。そのためにあなたがわたしを婚約者と言う立場に就けたいと望むのでしたら、その通りに致します。あなたには沢山お世話になりましたし、返し切れないほどの恩もあります。あなたがわたしを必要としなくなるまでは、あなたの望む通りの役割を演じましょう。婚約者としてあなたの隣に立ちましょう」

 それは姉として今考えられる限りの最善の答えだった。

 婚約を受け入れるべきか、それは今の姉にはわからない。だからと言って断ることも、次男との関係に亀裂を生む。ならばどうしたらいいのか。次男の望むとおり、姉の出来る範囲で行動すれば良いのではないか。姉はそう考えたのだ。

「わたしは兄さまに協力致します」

 姉がはっきりとそう口にすると、次男は渋い顔をする。

「そう来るか。考えたね、オリガ」

 紅茶を一口すする。音を立ててカップをソーサーの上に戻す。

「こ、婚約のお返事がこんな答えでは、駄目でしょうか?」

 姉は内心緊張しながらも、姿勢を真っ直ぐに保つ。次男の次の言葉を待つ。

 次男は穏やかな声で答える。

「別に駄目じゃないよ。オリガがおれに協力してくれるだけでも、おれの望むような役割を演じてくれるという了解を取り付けられただけでも上出来だ。オリガの答えには満足してるよ」

 次男はソファの背もたれにもたれかかる。金色の髪がさらさらと揺れる。天井を見上げる。

「ねえ、オリガ。おれはこれでも本気だったんだよ。本気で君を婚約者に迎えたいと思ったんだよ。本気で君にことが好きだと思ったんだよ」

「申し訳ありません」

 そのことは姉にもわかっている。次男は恐らくすべても計算に入れて姉を婚約者に迎えたいと思ったのだろう。例え何らかの計略、謀略が裏に潜んでいても、次男は姉には伝えずに素知らぬ顔でそう言うのだろう。これがこの人の性格なのだろう。

「でも、今のわたしにはそうとしか言えないんです。本当にすみません」

「そうか、それは残念だ」

 次男は静かな声でそう言って息を吐き出す。口元に笑みを浮かべる。

「やっぱり君は面白いよ。その答えは正直予想していなかった。君をおれの婚約者に迎えられなかったのが残念で仕方が無いけれど、これから愛を育む時間はたっぷりあるはずだ。お互いをもっとよく知って歩み寄っていくことも可能なはずだ」

 姉は黙っている。きっとこの言葉一つ一つでさえ、次男には計算してのことなのだろう。他人にどう思われるか、相手の心を見通してのことなのだろう。

(わたしはこの人を心から信じることが出来るのかしら?)

 それは今のところわからない。次男を信じるには、もっと時間を掛けて次男のことを知る必要があるだろう。

(わからない。わからないわ)

 姉はフォークを持ち上げて、切り分けたアップルパイを口に運ぶ。程よい甘みと懐かしい母の味が姉の心を落ち着けてくれる。

(やっぱりおいしい)

 まだ次男に聞きたいことは山のようにある。姉が尋ねれば果たして彼は正直に答えてくれるだろうか。それとも答えをはぐらかすだろうか。それは聞いてみないとわからない。

(でも、今のわたしはこの人に着いて行くしかない。それしか方法が無いもの)

 姉の背後では彫像のように立っていた中年の部下が、密かに安堵の息を吐き出している。

 そばで見ていたメイドの少女も姉と次男とのやり取りを固唾を飲んで見守っていたようだ。ようやく緊張の糸が切れたのか、絨毯の上にへたり込んでいる。

 ソファにもたれかかっていた次男は懐を探り、体を起こす。

「オリガから協力も得られたし、君にこれを見せておくよ」

 次男は白い封筒を姉の方に差し出す。

「これはマリアからの手紙だ。マリアが辞めた時に、おれに託されたんだ」

「マリアさんからの手紙?」

 姉は顔を上げる。

 若いメイドが屋敷を辞めた理由。それこそ若いメイドがこの屋敷を辞めた時から、ずっと姉が知りたいと思っていたことの一つだった。

「み、見せて下さい」

 姉は次男の手からひったくるように白い封筒を受け取ると、その中に入っている数枚の便箋を取り出した。

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