バッドエンド 叔父の提案を受け入れる2
その後、医者に姉の死についてあれこれと説明されたが、彼の頭にはまったく入って来なかった。
唯一頭に入ってきたことと言えば、姉の生前の願いで、彼女の遺体は両親の眠る教会に埋葬して欲しいこと、葬儀はいっさい取り行わなくていいということだった。
病院の霊安室で、彼は姉の遺体と対面した。
思えば姉の顔をゆっくり眺めるのは、本当に久しぶりのことだった。
「姉さん」
姉の顔は安らかで、まるで本当に眠っているかのようだった。
返事などないことは最初からわかっていながら呼びかける。
「姉さん、ごめん。ずっと会いに行けなくて」
彼は姉のそばに歩み寄り、顔をのぞきこむ。
目尻に涙がにじむ。
彼にとっては人の死体は見慣れたもので、今までに数限りないほどの人の命を奪ってきた。
こうして誰かの死に涙を流す資格など、彼にはないように思えた。
彼は物言わない姉に話しかける。
「ねえ、姉さん。姉さんは最後に僕に会って、何を伝えたかったのかな。やっぱり、叔父さんの提案を受け入れた、あの時のことかな?」
病院を抜け出そうと決意したあの夜、あの時二人で逃げ出していれば、あるいは別の道があったかもしれない。
姉もこうして死なずにすんだかもしれない。
彼があの時、叔父の提案に耳を貸していなければ、今頃どこか遠くの街で一緒に暮らしていたかもしれない。
たとえ病気のことがあっても、姉の最後を看取ることができたかもしれない。
友達も家族もいない姉が、こうして独りさびしく最期を迎えることはなかったかもしれない。
そう思うと、彼の心はひどく痛んだ。
「姉さん、ごめん。あの時僕が無理にでも連れ出していたら」
後悔の念が波のように彼に覆いかぶさってくる。
「ごめん。ごめんよ、姉さん」
彼は暗い霊安室で一人すすり泣いていた。
姉が亡くなった今、引き取ってくれた家族を失った彼も、天涯孤独になってしまった。
組織を裏切り、伯母を裏切り、叔父についた彼には帰る場所はない。
たった一つの拠り所であった姉を失い、彼は心の支えを失った。
この世に生きる繋がりも、こうして絶たれてしまった。
「姉さん。僕は姉さんのことが好きだった。見ると心に光が差すような、その笑顔が好きだった。ずっとずっと言えなかったけれど、今なら言える。僕は姉さんが好きだ。今までも、これからもずっと。いつまでも姉さんに微笑んでいてほしかった。姉さんに生きていてもらいたかった」
彼は安らかな顔で眠る姉の白い頬に触れる。
わずかに身をかがめ、物言わぬ姉に別れの口づけをする。
重ねた唇からは、消毒液や薬の臭いに混じって、彼のよく知る死の匂いがした。
その匂いを嗅いで、彼はこれから自分が何をすべきなのかを悟った。
姉の美しい死に顔を見下ろし、悲しげに笑う。
「さよなら、姉さん。僕は最後の仕事をしなきゃ。父さんや母さん、姉さんと同じところには行けないだろうけれど、どこかでまた会えるといいな」
彼は姉に背を向けて、霊安室を後にする。
葬儀を執り行う人間にいくらかの金を払い、姉の望み通り両親の眠る教会に埋葬してもらえるように頼む。
その数日後、姉の棺が無事に教会の墓地に埋葬されるのを見届けて、彼は長い任務からようやく解放された。
彼は寂しそうな笑みを浮かべ、教会にある姉と両親の墓の前に花を供えると、足音も立てずに去って行った。
彼女が体の異変に気が付いたのは、あの夜から一ヶ月も経たない頃だった。
ある時、急に血を吐いた。
彼女は家に通ってくる家政婦の老婆と二人で生活していた。
目が見えない生活にも慣れ、やっと前向きに物事を考えられるようになった矢先だった。
この家に来てから、彼女はずっと体調が優れなかったが、それも気分のせいだと思い、前向きにリハビリに取り組んでいた。
いつか弟に元気な姿を見せられるように、弟の誕生日にプレゼントするための青いマフラーを編むために、慣れない編み棒で試行錯誤する毎日だった。
彼女は口を押え、床に座り込んだ。
その頃から咳は収まらず、鉄さびの匂いのする温かい液体が手を濡らした。
それが血だと気付くのに、そんなに時間はかからなかった。
医者へ行くべきだと彼女が考えていた時だった。
ある日の昼下がり、彼女は咳をしてうずくまっていた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
心配した家政婦の老婆が、彼女の背後から声をかけた。
彼女は振り返り、心配をかけないようにと平気な振りをした。
「ええ、大丈夫」
そう答えた瞬間、彼女は老婆の気配に気が付いた。
普通は彼女が血を吐いているのを見たら、取り乱し医者へと連れて行くのだろうが、この目の前に立つ老婆は、ただ心配そうに声をかけるだけだった。
彼女は家政婦の老婆が、昔看護師をしていたと言っていたことを思い出した。
看護士ならば彼女の症状を見て、すぐにどんな病気かわかるだろうし、薬の処方もよく知っているだろう。
彼女は目が見えなかったが、そういう気配を察知するのには長けていた。
今、目の前の老婆は彼女を冷淡に見下ろしている。
彼女が血を吐いたのを見て、薄笑いを浮かべている。
彼女は背筋が凍りつくのを感じる。
この老婆が食事に毒を混ぜ、彼女を殺そうとしているのだと感じ取る。
確かにこの老婆は、彼女が食事を一人で取るのが寂しいからと頼んでも、決して彼女と同じ食事を取ろうとはしなかった。
おやつを食べる時も、お茶を飲むときも、彼女と一緒の皿からは決して取ろうとしなかった。
――毒を、混ぜられていたの?
彼女の顔から血の気が引く。
ごほごほと咳き込み、絨毯の上に血をまき散らす。
「まあまあ、お嬢様。本当に大丈夫ですか? お召し物も絨毯も、血だらけですよ?」
老婆のかすれた声を聞いて、彼女はぞっとした。
どうしてこの老婆は、こんなにも平静でいられるのだろう。
彼女が血を吐いていると言うのに、どうしてこんなに落ち着いていられるのだろう。
すべてこの老婆を雇った叔父が仕組んでだことであるならば、彼女が血を吐くのも、彼女が死ぬのも叔父の願ったことなのだろう。
彼女は心細く泣きたい気持ちになった。
叔父は弟さえ部下として手に入れば、盲目の彼女のことをただのお荷物としか見ていない。
そのため毒を盛って、彼女を殺そうとしたのだった。
彼女はあの夜以来会っていない血の繋がらない弟に、急に会いたくなった。
――でも、――は目の見えないわたしのために頑張っているのに。あの子が頑張っているのに、わたしが弱音を吐いてどうするの? わたしが、しっかりしないと。
彼女は寂しい気持ちを胸の奥にしまいこみ、老婆を振り返る。
力強い声で話す。
「どうも体調が優れないみたい。お医者様のところへ連れてってもらえるよう、手配してもらえないかしら?」