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姉と弟  作者: 深江 碧
十四章 悪夢
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悪夢22

 姉は恐る恐る次男の名前を呼んでみる。

 そっと手を伸ばし、彼の顔に触れてみる。

 そこには確かな肌の感触がある。

「何だい、オリガ」

 彼は姉の手にその手を重ね、優しげに微笑んでいる。

 その大きな手の感触を姉は感じることが出来たが、青い瞳に映る彼の姿に、夜会で出会った次男を重ねることが出来ない。

 夜会で出会った次男は姉をからかい、楽しんでいる素振りがあった。

 こんなに優しくはなかった。そして今だってこんなには優しくは無いように思う。

「アレクセイ兄さま、ですよね?」

 さらに姉が尋ねると、彼は声を立てて笑う。

「オリガはおかしなことを言うんだね。おれがおれ以外、誰に見えるっていうんだい?」

「そ、そうですよね。わたし、何を言っているんでしょう。ごめんなさい」

 姉は恥ずかしくなってうつむく。

 次男は笑うのを止めて、姉に顔を近付けてくる。

「きっと怖い夢を見たせいだよ、オリガ。今夜はおれがそばについていてあげるから、ゆっくりお休み」

 そう言われて、姉は頭を撫でられる。

 いつもであれば次男に反発してしまう気持ちも、その時は何も沸き起こらなかった。

「はい」

 姉は素直に次男の言葉に従う。

 次男に布団を掛けてもらい、隣で添い寝してもらう。

 姉が布団にくるまると、静かな子守り歌が聞こえてくる。

 次男が子守唄を口ずさんでいるのだ。

 彼が歌を歌うのを、姉は初めて聞いた。

 その瞬間、姉はこれが夢であることに気付く。

 そもそも姉は事故に遭って目が見えず、次男の顔も見ることが出来ない。

 次男の顔を判別することも出来ない。

(あぁ、これはきっと夢ね。わたしは兄さまの顔を見ることも出来ないし、兄さまはこんなに優しくはない。優しく寝かしつけてもくれないし、子守唄を歌ってくれることも無いはずだわ)

 姉はわずかな落胆と共にまぶたを閉じる。

 そしてもしも自分に実の優しい兄がいたとしたら、きっとこんな風かもしれない、と幻想の余韻に浸っていた。

 夢の中で眠りに落ち、穏やかな気持ちで夢から覚めた。

 姉が目を覚ますと、辺りがわずかに薄明るくなっているのが感じ取れた。

 しかし光は感じ取れても、今が朝なのか昼なのか目の見えない姉には知ることは出来ない。

 目の見えない姉にはベッドの輪郭さえ見ることが出来ない。

(やっぱり、あの優しい兄さまは夢だったのね)

 落胆の気持ちが胸の中に広がり、姉はベッドから体を起こす。

 さらさらと衣擦れの音がして、長い黒髪が顔に影を落とす。

 考え直してみると、あれはまったく次男とは似ても似つかない男性だった。

 あれは姉の願望が作り出した理想の男性像だったのかもしれない。

 顔立ちが家族に似ているようで誰とも違うのは、きっとそのせいだ。

(馬鹿なわたし。アレクセイ兄さまに自分の理想を重ねても仕方が無いのに)

 ベッドの上に上半身を起こし、姉は溜息を吐く。

 結局昨日は中年の部下とも会えずに、屋敷中を歩き回って一日が終わってしまった。

 婚約の返事も出せないまま、また朝が来て次男と朝食を共にしなければならない。

 結論も出せないまま、次男と顔を合わせなければならないと思うと気が重くなる。

 憂鬱のまましばらくぼんやりしていると、部屋の扉を叩く音が聞こえてくる。

「オリガ様、起きていらっしゃいますか? 着替えの服をお持ちしました」

 メイドの少女が姉の着替えを持ってやって来たのだ。

 姉は慎重にベッドから抜け出す。素足で絨毯の上に降りる。

「はい、起きてます」

 姉が返事をすると、部屋の扉が開く音がする。

「おはようございます、オリガ様。お加減はいかがでしょうか?」

 毎朝聞かれる質問に、姉は素直に答える。

「はい、特には大丈夫です」

「それは良かったです」

 メイドの少女が絨毯の上を歩く微かな音が聞こえてくる。

 姉は時間がかかるものの何とか一人で着替えが出来るようになったものの、ドレスの背中のチャックやアクセサリーなどは誰かの手助けなしには身に付けることが出来ない。

 本当は脱ぎ着の簡単な普段着でも姉としては良かったのだが、次男の希望で毎日ドレスを着ることになっていた。

 服にはそれなりのこだわりを持っているらしい次男の言葉を、居候の身である姉は素直に受け入れていた。

 それ以外の一人では出来ないこともメイドの少女の手助けで、何とか問題なく過ごしているのだ。

 それもこの屋敷に最初に来た頃に比べたら、一人で出来ることも随分と増えたように思う。

 本来ならば自分の部屋から温室までの道のりも次男の執務室までも、一応は道順を覚えているので一人で行くことが出来るようになった。

 今は部屋の場所が変わってしまったので道順を覚えなおさなければならないが、後何回か行き来すれば覚えることが出来ると姉は思っている。

 少しでも一人で出来ることは自分でしようと、姉は考えている。

 下着を着替え終わり、ドレスを着るのを手伝ってもらっている時のことだった。

「アレクセイ様からオリガ様にご伝言をお預かりしています。本日のオリガ様との朝食は、アレクセイ様は都合が悪くて一緒には取れない、とのことです」

 姉は驚いて身じろぎする。

「兄さまは、今朝は都合悪いのですか?」

 メイドの少女は姉の首の後ろのホックを留めながら答える。

「はい。詳しいことはわかりませんが、アレクセイ様からはそう聞いております」

 一通りの着替えが終わり、メイドの少女が離れる。

「そうですか」

 姉は安堵したようながっかりしたような不思議な気持ちになる。

 次男との朝食が無くなったことにより、婚約の返事については先延ばしにすることが出来たが、逆に弁明する機会も失われたことになる。

 姉は釈然としない気持ちを胸に抱え、その場に立ち尽くしていた。

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