悪夢18
次の日の朝、次男と朝食を取っていた姉はおもむろに切り出された話題に驚いた。
「オリガが望むなら、伯母さんと連絡を取る方法を教えよう。そして国境まで君を送って行こう」
ようやくお粥とスープ以外の物も食べられるようになった姉は、柔らかなオムレツをスプーンですくって口に運んでいた。
思わずスプーンを運ぶ手が止まる。
「それは」
姉は次の言葉が見つからない。今の段階では肯定も否定も出来ない。まだ次男の元を離れるべきかが判断がつかない。
姉の動揺を見て取ったのか、次男は言葉を付け加える。
「もしもオリガが望むなら、だけどね。別にすぐに判断してもらおうとは思ってないよ。決心がつくまでは、この屋敷にずっと滞在してもらってもいい。だって君はおれの大切な従兄弟だからね」
姉はうつむいて黙り込んでいる。様々な気持ちが姉の心をよぎる。
「そうですね、考えておきます。お心遣いありがとうございます、兄さま」
姉はかろうじて顔を上げ、次男に笑いかける。
不自然な笑顔になっていないだろうかと、姉は不安に思う。
次男は特に気にした様子も無く返す。
「感謝されるほどのことはしていないよ。そもそも君を無事に伯母さんの元まで送り届けることが最初の目的だったからね」
次男は白身魚のムニエルを器用に切り分け、野菜のソースを付けて口に運んでいる。
姉は食べるのを途中になっていたオムレツをスプーンですくって口に入れる。
甘いオムレツの味が口に広がり、姉は幸せとも悲しいともとれない気持ちになる。
ごくりと飲み込む。
「あの、アレクセイ兄さま。兄さまはどうしてわたしのことが好きなのですか?」
「ん?」
ムニエルを食べ終え、ナプキンで口元を拭いていた次男はその手を止め、姉を見つめる。
姉は暗い表情で早口で話す。
「だってそうでしょう? 目の見えないわたしなんかより、兄さまに相応しい女性は沢山いると思うんです。素敵な女性だって沢山いるのに、どうしてわたしなんかを選んだのですか? その理由が知りたいんです」
姉は次男に切実な気持ちで訴える。
次男の口から真実が知りたいという率直な気持ちから出た言葉だった。
「わたしが兄さまにとって都合のいい女だったからでしょうか? 兄さまはわたしに婚約を申し込んだ時、何か別の思惑があったのではないのですか? 自分にとって利益があると思ったから、そもそもわたしを助けてくれたのではないのですか?」
姉自身色んなことがあって、無償の愛というものを、今ではあまり信じられなくなってきている。
ここで次男が素直な気持ちを口にしてくれるとは限らない、という気持ちも強くある。
「兄さまの本当の気持ちが知りたいんです。答えて下さい」
姉はすがるような気持ちで真っ直ぐに次男の方を見る。
次男は困ったように笑う。
「好きになるのに、理由なんて必要ないとおれは思いけど」
その一声を聞いて、姉の心に落胆が広がる。
「それにオリガは自分のことを低く見過ぎている。自分なんか、と自分を卑下してはいけない。オリガは自分がどれほど美しい女性か、自分の価値がわかっていない。だからこうして不安になったり、自信を失くしたりするんだと思うんだ。もっと自分の価値を知って、自分に自信を持ってもいいとおれは思うんだ。君は自分がどれほど素敵な女性か、何もわかっていない」
上辺だけはきれいな言葉だが、姉の聞きたいことが何も含まれていない。
次男のその言葉を聞いて、姉の頭は不思議と冷えていった。
姉は口元に笑みを浮かべる。その静かな怒りについつい皮肉の一つも返したくなる。
「わかりました。では男性であるあなたの目から見てそうであるのなら、わたしが生活に困って、娼館に身を売ったらそれなりの値段がつくと言うことですね。見たところわたしは目が見えない以外は、至って健康そうですし、娼婦になればそれなりに稼げると思うんです。もちろんそれは最後の手段として取っておくつもりですが、どうしても困ったらそうするかもしれません」
姉はにっこりと笑い、首を傾げる。長い黒髪が白い頬にかかる。
その冗談とも本気ともつかない言葉に、次男の方が慌てる。
「オリガ、本気で言っているのかい? そもそも君には好きな相手がいるんじゃないのかい? だからこうしておれは君のことを諦めようとしているのに」
次男と会話の糸口を見つけ、姉はすかさずペンダントの話題を振る。
「誰がいつ、好きな相手がいると言ったのですか? 隠していたことは悪いとは思いますが、そもそもこのペンダントは弟から贈られた物です」
その一言がようやく口に出来て、姉はほっと息を吐き出す。
一晩悩んだ末、姉はペンダントのことを率直に次男に話そうと思っていた。
ペンダントのことを隠していたのは、屋敷に侵入したと勘違いされ、それを理由に弟が非難されると思ったからだ。
これで誤解が解けると、姉は晴れ晴れとした気持ちになる。
「確かに弟はわたしにとってかけがえの無い家族で、とても大切な人です。でもだからと言って、兄さまが焼きもちを焼いたり、変に勘ぐったりするのは見当違いだと思うのです。ペンダントのことを隠していたのだって、弟との大切な物だったから、いつかは兄さまにも話そうとは思っていました」
最後のところは言い訳のように聞こえてしまったかもしれない。
しかし真実を口にしない次男に対し、姉も少しは不満がある。少しくらい意地悪してもいいのではないか。姉はそう思っている。
「そうか、ペンダントは弟君からの贈り物で、大切な家族として考えていると。それが君の答えか」
独り言のようにつぶやき、次男は長い息を吐き出す。
次に運ばれてきた仔羊のローストにも手を付けず、額に手を当てて考え込んでいる。
「それを聞いて安心したよ。これでおれがオリガのことを諦める理由がなくなる」
次男はおもむろに姉を見つめ、意地の悪い笑みを浮かべる。
「でも、おれとのキスも満足に出来ないくらいなのに、オリガが娼婦になるとはとても考えられないな。君は本当に男性にその身を捧げる覚悟があるのかい?」
からかうような声音に、姉は顔を赤くする。
「そ、それは、あくまで例えばの話です。生活に困った最後の手段だと言ったはずです」
姉は唇を尖らせてそっぽを向く。
次男はにやにやと笑っている。
「だったらもしオリガが娼婦として店に出るようになったら、おれが真っ先に身請けしてあげるよ。オリガの初めての相手はおれでありたいと思っているからね。きっとその時にはオリガも娼館で手取り足取り技術を教え込まれているだろうから、おれとの夜の営みも楽しいものになると思うんだ」
うっとりと話す次男に、姉は自分が振った話題であったが全身に鳥肌が立つのを感じる。
「じょ、冗談はやめて下さい。そもそもわたしは、今はそんなつもりは全くありません。生活に困ったらと、さっきから何度も言っているじゃないですか」
姉は自分の体を抱きしめ、首を横に振る。
話題を打ち切ろうとする姉に対して、次男は追い打ちをかける。
「冗談なもんか。おれはいつだって本気だよ? もしもオリガがおれとの婚約を受け入れてくれたらならば、おれたちは婚約者になるんだから。婚約者同士になれば、これから先、肌を重ねる機会も十分にあると思うんだ」
次男の言葉に、姉ははたと正気に戻る。
「それは」
婚約の話題を振られ、今度は姉が考え込む。
次男は子羊のローストにナイフを入れ、小さく切り分けフォークで口に運んでいる。
「オリガが他の男と付き合ってない、と言うことははっきりしたんだ。婚約の返事もオリガの気持ち次第、といったところだね」
次男は炭酸水のグラスを手に取り、口をつける。
「じゃあ逆に聞くけど、オリガはおれのどこが不満なんだい? 婚約の何をそんなに迷っているんだい?」
率直な問いかけに、姉は頭の中が真っ白になる。
次男は見透かすような深緑色の瞳で姉を見つめている。
「婚約の返事がもらえないということは、オリガはおれにどこか不満があるからだろう? おれに不満があるのなら、教えて欲しい。おれは極力そこを直すようにして、オリガに好かれるようにするから」
姉はじっと黙り込んでいる。
まさか次男が本心を隠している。本当のことを教えてくれない、とは素直に言えない。
姉は当たり障りのない台詞を口にする。
「兄さまは、親切にして下さり、目の見えないわたしにも何不自由ない生活を与えて下さいました。それに関しては、何の不満もありません。でも、婚約者として、将来一生を共にする伴侶になる方としては、どうでしょう? 果たして共に歩むことが出来るのでしょうか」
次男は炭酸水のグラスを揺らす。
グラスの中では小さな泡が光と一緒に踊っている。
「つまりおれは君と共に歩むには、信用に足る人物ではない、と言うことかい?」
姉は言いにくそうに口ごもる。
「その、兄さまの社交界でのご評判は、女性に対しては特に辛辣なものがありまして。多くの女性と付き合うことはいいのですが、同時に何人もの女性と付き合うのはどうかと思います。わたしも兄さまと家庭を持つ身になるのでしたら、そういった男性は出来ればご遠慮願いたいと思っています。アレクセイ兄さまの口から、どうして多くの女性と付き合ったのか、その理由をお聞かせ頂けたらと思っています」
姉は次男の様子を伺う。それ以上のことを口にするべきか迷っている。
次男は手に持った炭酸水のグラス越しに姉を見つめている。
「そうか。つまりそれが君の結論か。だったら仕方が無いな」
諦めたようなその一言に、姉はどきりと心臓が飛び跳ねる。
「ち、違います。それは婚約のお断りのお返事では」
姉は必死に首を横に振る。
次男はわずかに目を伏せ、グラスをテーブルの上に戻す。音も立てずに席を立つ。
「デザートはいい。おれの朝食は終わりにしてくれ」
「かしこまりました」
給仕がうやうやしく頭を下げ、姉の部屋を出て行く次男を見送る。
「兄さま、待って下さい。まだお話は終わった訳では」
姉は椅子から立ち上がって手を伸ばしたが、呼び留めても次男は足を止めなかった。
次男は扉の前で姉を振り返る。
「オリガはゆっくり朝食を食べていてくれていいよ。また気が変わったらおれに教えて欲しい。おれは普段は執務室にいるから。オリガの方から訪ねて来てくれるのなら、いつでも大歓迎さ。もちろん一人でいるのが寂しい、という頼みなら、喜んでお相手するよ」
次男は去り際に姉に向かってウインクする。
使用人が扉を開け、次男の背が扉の向こうに消えていく。
取り残された姉は胸の前で両手を握りしめている。
服の上から弟からもらったペンダントに触れる。
「兄さまの馬鹿。わたしには本当のことは何も教えて下さらないくせに」
姉の言葉は吐息と共に朝の明るい空気の中に消え失せた。
テーブルの上の炭酸水の入ったグラスが、朝の光を集めて虹色に輝いていた。




