バッドエンド 叔父の提案を受け入れる1
「わたしは」
弟の手を握りしめ、彼女は震える声で言葉を絞り出す。
「わたしには、よくわからない。わからない。けど」
軽く頭を振る。
叔父と死んだ両親の顔を思い浮かべ、考える。
そしてこの先の弟の行く先に思いを巡らす。
「わたしは、叔父さんの提案に応じようと思うの。たとえ、叔父さんがわたしたちからすべてを奪った張本人でも、わたしたち二人とも死んでしまっては仕方がないと思うの。今は許せなくても、じっと耐えて今を乗り越えれば、きっといつかいいことがある。わたしはそう信じるわ」
姉の言葉を聞き、彼は小さくうなずいた。
「うん、そうだね、姉さん」
彼は姉の言葉に従い、ベッドの影から出ていく。
「ごめんなさい、――。あなたの気持ちも考えないで、わたしが勝手に決めてしまって」
姉の悲しげな声が、彼の背中にかけられた。
彼は身を細め、答える。
「別に、いいよ。姉さんが無事であるなら。僕にはそれだけで十分だから」
こうして彼は叔父の提案を受け入れた。
彼と姉の身柄は拘束され、二人は引き離された。
彼は叔父の部下として忠実に働き、姉と再会できる日を願って、仕事にいそしんだ。
その間、姉からは何通もの手紙が届き、自分が無事であることを知らせていた。
姉が自ら手で書いたであろうその手紙は、文字がゆがんでいて、読みにくかったが、目の見えない姉が精一杯練習し、書いたであろうことは容易に想像できた。
彼もせっせと手紙を書き、姉から届く手紙を心待ちにした。
二人の手紙は叔父の部下が仲介し、姉の居所は彼には知らせなかった。
季節は巡り、冬から春、春から夏、夏から秋に移り変わろうとしていた。
叔父のそばで働いている間も、彼は片時も姉のことを忘れなかった。
姉の無事を思えばこそ、どんな汚い仕事でも進んでこなしたし、どんな憎まれ役でも甘んじて受けることが出来た。
それはすべて姉がいたからできたことだった。
姉の存在を心の支えにして、彼は色のない白黒の毎日を生きていた。
姉が色のある美しい世界で生きていることを信じ、その手を血に染めて生きていた。
ある秋の日、姉から一通の手紙が届いた。
その手紙には一言、会いたい、とだけ書かれ、姉の名前と住所だけが書かれていた。
彼はその日、どうしても抜けられない仕事が入っていた。
すぐにでも姉の元へ駆けつけたかったが、そうはできなかった。
次の日、彼は仕事を休み、すぐさまその住所へと向かった。
書かれた住所の場所へ行ってみると、そこは小さな病院だった。
受付で姉の名前を出すと、看護師は病室の場所を教えてくれた。
「可哀想にね。あの子まだ若いのに、目が見えなくて、家族も友人もいないんですって。もう何か月も入院しているのに、誰もお見舞いに来ないの」
彼は受付の看護師に詳しい話を尋ねる。
話によると、彼が姉と離れ離れになってから間もなく、彼女は体調を崩し、病院に入院したということだった。
それから容体は悪くなるばかりで、彼女はずっと病院に入院して、残りわずかの命と言うことだった。
叔父によって光を失い、戸籍も抹消され、家族も友人も奪われ、唯一の家族である弟と引き離されて、彼女はどんな気持ちで毎日を送っていたのだろう。
そして今、誰に知られることもなく、ひっそりと息を引き取ろうとしている。
彼は姉の心境を思い、心が痛んだ。
あの提案を受け入れた時、叔父に無理を言ってでも、姉と離れるべきではなかったのだ。
彼がそばについていれば、姉の寂しさも心細さも少しは紛れたかもしれないのに。
病気ばかりはどうにもならないだろうが、彼がそばにいれば、もっと早く気付くことができたかもしれない。
命に関わる症状になる前に、病院に連れて行くこともできたかもしれないのに。
彼は自分の無能さを呪った。
「姉さん」
彼は姉のために持ってきた花束を持って、病室に走った。
看護士に教えられた通りの病室にたどり着き、ノックもせずに扉を開ける。
「姉さん!」
病室の扉を開けると、秋の日差しの差し込む窓際のベッドで姉が眠っていた。
腕には点滴の針をつけて、長い黒髪が枕の上に広がっている。
白い肌は柔らかな日差しに照らされ、閉じられた黒い睫に影が落ちている。
彼は安堵の息を吐き出し、病室へ足を踏み入れる。
病室に足を踏み入れた瞬間、そこには強い死の香りが漂っていた。
その部屋には四つのベッドがあったが、そのうちの三つは空になっていた。
彼は空になったベッドを一瞥し、そのベッドを使用していた人間はすでにこの世にいないことを直感した。
姉のベッドに近付き、声をかける。
「姉さん、お待たせ。ずいぶんと遅くなったけれど、やっと会いに来ることができた」
彼ははにかみながら花束をそばのテーブルの上に置く。
思えば彼自身、姉と会うのはあの病院での夜以来だった。
一年近く経った今も彼の姉への思いは変わらず、彼女のことを思うと心の奥が焼けつくように痛むのだった。
ベッドの上で眠っている姉は、昔と変わらず白百合のように気品があった。
彼はそんな姉がうらやましく、憧れでもあった。
ベッドのそばの椅子に腰かけ、彼は姉が目覚めるのをじっと待っていた。
はじめ彼は、ベッドの上で姉が眠っていると思っていた。
眠っている姉に違和感を感じ、彼はその肩に手を置く。
「姉さん?」
大きく目を見開き、眠っている姉の白い頬に触れる。
彼は驚いてその手を引っ込める。
触れた体は冷たかった。
彼の心に今まで感じたことの無い恐怖心が生まれる。
慌てて姉の呼吸と脈を確認する。
そのどちらも確認できない。
「姉さん? 姉さん!」
彼は必死になって姉の肩を揺さぶる。
これが自分の気のせいであって欲しいと、心から願った。
姉が目を覚まし、彼に笑いかけてくれることを信じて。
いくら肩を揺さぶっても、姉はいっこうに目を覚まさない。
彼の声を聞きつけて、医者と看護師が病室にやってくる。
取り乱す彼をなだめ、医者が姉の瞳孔や脈を確認する。
確認を取った医者は、振り返り彼に無遠慮な質問を投げかける。
「君がこの病室にやって来たのは何時頃だい? 君が来たときには、彼女はもう亡くなっていたのかい?」
彼は怒りのため、もう少しで医者を殴り倒すところだった。
「ええ、はい」
かろうじて怒りを飲み込み答える。
「そうか」
医者は慣れた様子でカルテに何か書きこんでいる。
「残念だったね。彼女はついさっき亡くなったようだ」
こともなげに答える。
彼は一瞬にして暗闇に一人放り出されたかのようだった。