悪夢15
姉は口にしながら恥ずかしくなって口ごもる。視線を次男から背ける。
次男の手が伸び、姉の頬にそっと触れる。
そのまま体を引き寄せられ、強く抱きしめられる。
その体からはわずかな汗のにおいと爽やかな柑橘系の香水の香りがする。
姉はとっさにことに体が強張る。
次男は姉に顔を近付け、その耳元でささやく。
「おれはオリガと恋人になりたいと本気で思ってるんだけどな。それに婚約の返事も、まだ聞いていないし。まあ、もしもオリガがおれが嫌いで、おれの元を去るというのなら、どうしようもないのだけれど」
どこか寂しく諦めた口調のように聞こえる。
「アレクセイ兄さま」
姉はどう答えていいのかわからなかった。
とうに最初に言った期限は過ぎているにも関わらず、次男との婚約を受け入れるかどうかの決意はまだ姉の中で固まっていなかった。
「兄さま、わたしは」
姉は口を開いたが、考えがまとまっていない。
再び口を閉ざす。無言になってしまう。
次男は耳元でささやき続ける。
「どうして大切に思う女性はみんなどこかに行ってしまうんだろう。オリガも、マリアも、母さんも、みんな遠くへ行ってしまう。もう独りは嫌なんだ。おれはただ、そばにいてくれるだけで十分だと思っているのに。そばにいてくれるだけでいいのに」
「兄さま」
次男の弱音に、姉は胸が締め付けられる。
慰めてあげたいのに、何の言葉も出て来ない。
次男に抱きしめられながらも、求められながらも、決心できない自分がいる。
心を決められない意気地なしの自分が嫌になる。
下手に慰めの言葉を口にしても、上辺のことしか言えそうもない。
姉には謝ることしか出来ない。
「ごめんなさい、兄さま。わたしが婚約の返事を先延ばしにしたせいですよね。でも、わたしはまだ結論を出すことが出来ないでいます。まだ迷っているのです。兄さまのお気持ちを煩わせて、本当にごめんなさい」
次男が体を抱きしめる腕の力が弱くなる。
肩に手を置いて姉からゆっくりと体を離す。
次男は頭を軽く振る。流れるような金髪が揺れる。
「色々と感傷的になり過ぎたみたいだ。おれの方こそごめん」
「いえ」
姉は胸元に手を置く。まだ心臓の鼓動は速いままだ。
きっと頬も火照っているのだろう。
あれ以上のことを次男にされたら求められたらどうすればいいのか、という緊張もあり、すぐには冷静さを取り戻せそうにはない。
警戒は解けそうもない。
そんな表情が顔に出ていたのだろう。
次男は困ったように笑う。
「いくらおれでも、嫌がる女性を相手にこれ以上の無理強いはしないよ。本当は、君が望めばすぐにでもおれは大喜びでそれ以上のこともしてあげるんだけどね」
姉は複雑な顔をする。
この人はどこまで本気なのだろうか、と疑いを抱いてしまう。
「いえ、結構です」
姉が拒絶の言葉を口にすると、次男は肩に置いた手を放す。
「そうか、残念だよ」
肩をすくめ溜息を吐く。
「そうだ。これは返しておくよ。オリガの大切な物なんだろう?」
「これは」
次男は姉の手を取り、その手の平に固い物を握らせる。
姉は手の平の感触を確かめる。
それは失くしたはずのペンダントだった。
ペンダントを握りしめた手を顔に近付けるとほのかに百合の香りが漂う。
それはまぎれもなく弟から贈られ、失くしたと思っていたペンダントだった。
「どこでこれを?」
姉の問いには答えず、次男はわずかに目を伏せる。
「どうやら、君には既に心に決めた相手がいるみたいだからね。邪魔者は大人しく身を引くことにするよ。さっきはすまなかったね、オリガ。他の男にくれてやるのが惜しくなったんだ。事故に遭い、目の見えなくなった君を幸せに出来るのはおれだけだとずっと信じてたんだけど。とても残念だよ」
次男はそこで言葉を切りうつむく。
憂いを含んだ深緑色の瞳で黙って姉を見つめている。
次男はそれ以上何も言わず、姉に背を向けて部屋を出て行く。
「わたしは」
姉はつぶやいたが、ひっそりと小さな溜息を吐く。
部屋にはペンダントを握りしめた姉が一人取り残され立ち尽くしていた。




