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姉と弟  作者: 深江 碧
十四章 悪夢
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悪夢14

 姉が目を覚ましたのは、あの夜から三日が過ぎた日のことだった。

 部屋を変わり、新しい部屋で姉は絶対安静を命じられた。

 医者の診断によると、元メイドに切り付けられた腕の怪我はそれほど深くないが、多少の傷は残るかもしれないとのことだった。

 内臓も一通り触診で診てもらったが、臓器が傷付いている様子は見られないとのことだった。

 ただしもし何かあればすぐに病院に入院するようにと言われた。

「もしも傷が残るようだったら、おれが責任もってオリガを嫁にもらわないとな」

 医者による姉の診察を聞いていた次男は、冗談とも本気ともつかない口調でそう言った。

 次男の言葉に、疲れ切っていた姉は曖昧に答えることしか出来ない。

「そうですね。その時になったら考えます」

 その時の姉は、次男の言葉にまともに答えることも億劫で、その時はただひたすらに眠かった。

 次男の気落ちした様子を気に掛ける余裕もなかった。

 温かいベッドに横になるとすぐにまぶたが重く閉ざされた。

 姉はそのまま熱を出した。再び寝込んでしまった。

 薬を飲んだり塗ったり食事したりする時間以外、姉は眠って時を過ごした。

 見張りには老家政婦のばあやが呼ばれ、ベッドの周辺にはいつも誰かしら使用人が立ち働いていた。

 常に部屋に人がいるのは、姉には慣れないことだったが熱を下げるのと怪我の治療が第一だったので、気にするほどのことではなかった。

 それよりも誰か一人でも部屋にいることによって、姉の身の安全が保障されるならば悪いことではないように思えた。

 次男はその間度々姉の部屋に見舞いに訪れたが、声には以前のような明るさや覇気はないように思えた。

 表面には出さないようだったが、どこか考え込んでいる様子だった。

 姉は自分の体調を回復させるのが先決で、次男のことを気遣うことも出来なかった。

 ようやく姉の熱が下がり、ベッドから起き上がれるようになったのは、あの夜から八日目のことだった。

 自由に動き回る許可がもらえた姉は、自分の部屋で腕に包帯を巻いたまま、次男と一緒に朝食取ることになった。

 姉の食事は柔らかいおかゆやスープのようなもので、次男と同じメニューではなかったが、彼は気にしないようだった。

 憂いを帯びた深緑色の瞳で姉を真っ直ぐに見つめてきた。

「オリガ、体調はどうだい? 最初はどうなることかと思ったけれど、オリガが元気になってくれて良かったよ」

 次男は穏やかな声でいつも通りに話したが、時々言いよどみ、小さな溜息を吐いているようだった。

 どうやら元メイドの件で色々と気苦労が絶えないらしい。

 あの夜の直前まで持っていた弟からもらったペンダントも、気が付けばどこかに消えている。

 あの騒ぎのせいでどこかに失くしたのだろうか。

 元いた部屋のどこかに落ちていたとしても、目の見えない姉には探しようもない。

 ペンダントのことを次男に尋ねようとも思ったが、誰にどうやってもらったのかと問われると姉としても答えづらい。

 何となく次男に対して後ろめたい気持ちが先に立ってしまう。

「えぇ、ご心配をおかけして申し訳ございません」

 そのため姉も次男に対してついよそよそしい態度を取ってしまう。

 朝食の席で次男が沈黙すると、姉もつい無言になってしまう。

 気が重くなってしまう。

 部屋に次男のナイフとフォークと皿がこすれる音が響く。

 姉は無言でパン粥をスプーンですくって口に運んでいる。

 そんな時、次男が明るい声で話題を変える。

「そうだ、忘れていたよ。君の新しいそば付きのメイドを紹介するよ」

 次男は部屋の隅で給仕をしていたメイドの少女を呼ぶ。

「マリィ、オリガに君の紹介をしてくれないか?」

 マリィと呼ばれたメイドの少女は姉の前まで歩いて来ると、スカートの裾をつまみぎこちなく頭を下げる。

「こ、こうしてオリガ様のおそばで働くのは初めてかと思います。マリィと申します。前任のマリア先輩のように差し障りなくオリガ様の身の周りのお世話できるかはわかりませんが、よろしくお願いいたします」

 声からして姉よりいくつか年下のようだった。

 姉はスプーンでパン粥をよそっていたが、その手を止めて顔を上げる。

 スプーンを食器の上に置き、背筋を伸ばす。

「初めまして、マリィさん。こちらこそ色々とマリィさんに迷惑を掛けると思いますが、よろしくお願いします」

 柔らかく微笑む。

 メイドの少女は緊張した声で答える。

「は、はい。こちらこそよろしくお願いいたします」

 姉はそんなメイドの態度が想像出来て、口元に手を当てて穏やかに笑っている。

 次男はそんな姉と緊張したメイドとを見て表情を和らげる。

「すまないな、マリィ。仕事に戻ってくれ」

「は、はい」

 メイドの少女はぎこちなく一礼して、給仕の仕事へと戻って行く。

 彼女が去って、姉は次男に向き直る。

「あの、今までわたしのお世話をしてくれていたマリアさんはどうされたのですか? あの夜以来、姿を見ていないような気がするのですが」

 姉はずっと気になっていたことを口にする。

 この八日間近く姉はずっと部屋で老家政婦や使用人たちに世話をされていたが、部屋を出入りする者の中に若いメイドはいないようだった。

 あの夜のことを思い出すと、元メイドが死んで一番取り乱しているのは若いメイドのように思える。

 もしかしたら元メイドが死んだショックで、しばらく休養を取っているのかもしれない。

「マリアさんはお体の具合でも悪いのでしょうか。でしたらお見舞いに行きたいと思うのですが、マリアさんは今どちらにいらっしゃるのでしょうか?」

 もしも体調を崩して休養を取っているのであれば、今まで世話になった分、見舞いに行くのが筋だろう。

 姉が何気ない気持ちで尋ねると、次男は表情を暗くする。

 低い声でつぶやく。

「マリアは、昨日付でこの屋敷を辞めたよ」

「え?」

 姉は一瞬聞き間違いかと思った。

 あんなに次男のことを尊敬していた若いメイドが辞めるなど、すぐには考えつかなかったのだ。

 次男は溜息を吐く。

「マリアはバレンチナが行くはずだった老夫婦の屋敷へ移ったよ。マリアの方から希望したんだ。マリアの明るい性格なら、あちらの老夫婦にも好かれるはずだからね」

 次男はナイフを動かし、皿に乗ったソーセージを切って口に運ぶ。

 姉はしばらく言葉もなく黙り込んでいる。

 次男はソーセージを咀嚼し、口の中のものを飲み下す。

 グラスのレモン水を飲んでから、話し続ける。

「マリアはとても一生懸命勤めてくれただけに、残念だよ」

 次男は落胆した様子でそう話す。

 姉は放心したようにうつむいている。

「そう、だったんですか。せめてマリアさんに一言お別れが言いたかったのですが」

 次男はうつむく姉を深緑色の瞳で眺めている。

「おれもマリアにこの屋敷にもう少し留まってはどうかと話したんだ。せめてオリガが目覚めるまで待ってはどうかと言ったんだ。でもマリアは老夫婦を待たせる訳には行かないと言って、荷物をまとめて昨日出て行ってしまったよ」

 次男の言葉を聞いて、姉は消え入るような声でささやく。

「そうですか」

 仕方が無いと思いつつも、裏切られたような複雑な気持ちが姉の胸の中に渦巻いている。

 朝食の席では次男との会話はそれ以上盛り上がらず、無言のうちに終わった。

「じゃあね、オリガ。出歩いてもいいけど、無理をしないようにね。一応マリィがそばにいるから大丈夫だとは思うけれど」

 次男は姉との朝食を終えて席を立つ。食事を給仕していた使用人たちが部屋から出て行く。

「は、はい。お気遣いありがとうございます」

 姉も朝食を終えて椅子から立ち上がる。次男を見送ろうと杖をついて部屋の扉へと向かう。

「あ、そうだ。忘れるところだったよ」

 次男は振り返り、テーブルの上にあったレモン水のグラスを取り上げ、一息に飲み干す。

 見送ろうと立ち上がった姉の前に立ち、わずかに身をかがめる。

 姉の黒髪に指を絡ませ、その唇に自分の唇を重ねる。

 唇に柔らかい感触が広がり、姉は体を硬直させる。

 次男は優しく姉の黒髪を指で撫で、さらに深くキスをしてくる。

 姉の開かれた口の中に柔らかい感触とレモンのような味が広がる。

 いつもとは違う感触に、姉はびっくりして両手で強く次男の体を押し返す。

 姉は近くに会った椅子の背もたれをつかんで体を支える。

 そうしていないと早鐘のように打つ心臓と相まって足が震えてへたり込んでしまいそうだ。

 恥ずかしさに倒れそうになる。

「い、いきなり、何をするんですか?」

 姉は眉をつり上げ涙目になって訴える。

 次男はへらへらと笑って応じる。

「何って、あいさつのキスだよ。オリガも社交界で慣れているだろう? ちゃんとレモンの味がしただろう?」

 本気とも冗談ともいえない言い方だった。

 姉は顔を真っ赤にして言い返す。

「社交界ではこんなあいさつはしません。せいぜい頬にキスする程度です。こ、こんなキスなんて、恋人同士くらいしか」

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