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姉と弟  作者: 深江 碧
十四章 悪夢
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悪夢13

 執務室に戻った次男は、椅子に座るなり大きな溜息を吐いた。

 あの夜から一日が経った。

 あの一見以来、中年の部下に対しよそよそしく対応してしまう。

 理由はわかっている。元メイドに対しての対応に不満があるのだ。

 次男としては殺す以外に方法があったのではないかと、希望を持ってしまう。

 他に方法が無かったと納得しつつも、心のどこかにわだかまりが残っている。

 中年の部下の対応に不信を抱いている。

 次男は書類が山になった執務机に足を乗せ、椅子の背もたれにもたれかかる。

 服の懐を探ると固い物に手が当たる。

 懐から取り出したのは、常に持っている小型の拳銃と、姉から取り上げたペンダントだった。

 青い石の上に白い百合の彫刻が施されたデザインのものだ。

 ペンダントの石に香りが染みこませてあるのか、ほのかに百合の香りが漂ってくる。

 このペンダントは意識を失った姉の服を着替えさせた時に、彼女が握りしめていたのを老家政婦が見つけた物だ。

「若からの贈り物ですか? とても強く握りしめていたので、取り上げるのに一苦労でしたよ。彼女からこんなにも大切に思われているなんて、若も隅に置けませんね」

 老家政婦は呆れたような嬉しそうな顔でペンダントを次男に手渡した。

「彼女が元気になったら、若の手から返してあげて下さい。きっと喜びますよ」

 老家政婦から手渡されたペンダントを、今更自分があげた物ではないと言い出せず、姉のペンダントを次男は受け取った。

 意識が戻ったら姉に返そうと思いつつも、返したくない気持ちもどこかにある。

 それは嫉妬と言っていい気持ちだった。

 次男は姉にそんなにも大切に思われているペンダントを渡した相手に、嫉妬しているのだ。

 実際に目覚めた姉と対面した時に、冷静に対応できる自信はない。

 ペンダントを誰にもらったのか、病み上がりの姉に問い詰めてしまうかもしれない。

 大人げないと自分でも思う。

 今までも付き合ってきた女性に浮気されたことは数多くあるにも関わらず、姉だけは浮気しないと信じていただけに、姉が他に思っている相手がいるのはショックだった。

 次男は執務室の椅子にもたれかかり、ペンダントの鎖を指でつまむ。

 鎖の先に取り付けられたペンダントが揺れ、光を反射する。

「これは誰から贈られた物なんだろうね?」

 ペンダントの彫刻や装飾から言って、相手の趣味は悪くないようだ。

 高い物ではないが丁寧な造りだ。

 彫刻が浮き上がる造りと香り付きとなれば目の見えない姉にはぴったりの贈り物のように思えた。

「可能性があるとすれば弟君か。それとも別の誰か、か。それとも男性からか」

 次男は天井を見上げ、金髪をかきあげる。

 同性の友達からもらったペンダントであれば問題はない。麗しい友情として片づけられる。

 しかしもしも姉にペンダントを贈った相手が異性であればどうだろう。

 姉にペンダントを贈った相手が誰であれ、男性である以上は次男としては面白い話ではない。

 もしも相手が姉に好意を持って贈ったのであれば、次男としてもしかるべき方法を取らざるを得ない。

 かつて姉の元婚約者にしたように、説得するなり力づくなりして姉のことを諦めてもらわなければならない。

 たとえ相手があの血の繋がらない弟であれ、もしその好意が異性としてのそれであれば、いずれはしかるべき方法を取らなければならないかもしれない。

 天井をぼんやりと見上げる次男の頭の中に老家政婦の言葉が蘇る。

 ――とても強く握りしめていたので、引きはがすのが一苦労でしたよ。彼女からこんなにも大切に思われているなんて、若も隅に置けませんね。

 姉は贈られたペンダントをとても大切にしているようだった。

 それこそ意識を失っても強く握りしめて決して放そうとしなかったぐらいに。

 そしてその姉が大切にしていたペンダントの存在は、次男も監視役としてつけていた若いメイドにも知られていなかった。

 それは姉が次男にも若いメイドにも心の底から気持ちを許していなかったのではないか。

 次男は天井に取り付けられたきらびやかなシャンデリアに向かって大きな溜息を吐く。

「おれはオリガに信用されていないのかな?」

 次男はペンダントの鎖を指で弄ぶ。

 ペンダントが光を反射し、鎖がちゃりちゃりと微かな音を立てる。

 ついさっき朝食を一緒にした姉の姿を思い浮かべる。

 姉は倒れた時よりも随分と元気になった。

 一時は満身創痍で熱を出して寝込んでいたが、普通に会話が出来るほどには回復した。

 次男としてはそれをとても嬉しく思う。

 だが、姉の心が別の男のところにあると思うとどうだろう。

 素直に姉の回復を嬉しく思えるだろうか。

 もしも再び自由に歩けるようになったら、その男の元に行ってしまうのではないだろうか。

「オリガは誰か別の男のことが好きなのか?」

 あれからまだ婚約の返事を聞いていない。

 あんなことがあってうやむやになってしまった感じはある。

 もしかしたら婚約の返事はこれからももらえないかもしれない。

「オリガはおれのことが嫌いなのか?」

 姉の柔らかな笑顔を思い出す。

 両親を失い悲しみに打ちひしがれ、あの夜あんな目に遭っても、やはり彼女は凛として美しかった。

 持ち前の芯の強さと周囲への優しさは変わらず、色褪せることはない。

 その態度こそ、姉が社交界で白百合と言われる所以だ。

 他の男が手折ろうとしても容易く近付くことのできない高地に咲く白百合。

 穏やかだが芯の強さを秘め、何者にもなびかない。

 心を寄せる男は数多くいるがまともに相手にされない。浮ついた噂さえ聞かない。

 だから次男も安心していた。

 彼女の心を動かせれば、二度と裏切られることはないと。

 その近寄りがたい雰囲気から、美しいが穢れを知らない白百合と呼ばれるのだ。

 無論次男もその白百合に心を寄せる者の一人だ。

 今だって彼女の最も近くにいて、一番有利な条件だと思っていたのだが。

 既に彼女には心を寄せる異性がいて、彼女が最も大切にするペンダントを贈った相手が恋敵となれば、次男としては手も足も出ない。

 次男はペンダントを握りしめ、壁にぶち当てたい衝動に駆られる。

 しかし彼女が大切にしている以上、そんな乱暴なことは出来ない。

 大切にしていたペンダントに何かあれば、次男が責められることになるのはわかっている。

 いや、彼女は次男を責めはしないだろう。

 ただ壊れたペンダントを見て、ひどく悲しむだろう。

 彼女の悲しげな顔を見るのは、いくら次男でも忍びなかった。

 いくら次男でもまだ彼女に嫌われたくはない。

 心のどこかで諦めきれない自分がいる。

「くそっ」

 次男はペンダントを執務机の上に置き、手で顔を覆う。

 屋敷を出て行く若いメイドの姿が頭をよぎる。

 若いメイドは次男に好意を持っていた。

 ずっとそばで働いてくれるものと信じていた。

 ずっとそう信じ込んでいた。

「オリガも、おれを置いて去って行くのか?」

 長年勤めてくれた若いメイドの姿が姉と重なる。

 おそらく姉が次男の元から去って行くときには、そばに男がいるのだろう。

 姉は幸せそうな顔をして、男と寄り添って出て行くのだろう。

 そして次男はそんな幸せそうな二人を見送るしかないのだ。

 今度こそ一緒になれると思った姉を、むざむざ他の男にくれてやるしかないのだ。

 今まで見送った好きだった女性たち、彼女たちと同じように姉も諦めるしかないのだ。

 セリカ、タチアナ、コンスタンティア、カトリーナ、マリア…、今までに付き合ってきた多くの女性たちの名前が思い出と共に蘇る。

 その誰とも、その時付き合っていた次男は真剣だった。

 しかし彼女たちは皆次男を捨てて他の男と去って行った。

 いつだって今度こそは自分を愛してくれる、自分だけを見てくれると思って付き合うのだ。

 その感情の原因が、昔亡くなった母親の面影を求めていることは十分自覚している。

 皆どこか亡くなった母親と同じように芯の強いところがある。

 姉に好意を持ったのも、一見大人しそうだが内に秘める強さをある夜会で垣間見たせいだ。

 彼女なら自分を裏切らない。自分だけを愛してくれる。

 確信めいた気持ちが次男の中にあったのも確かだ。

 姉であれば一度自分を愛してくれれば、一生裏切ることは無いだろう。

 そうした確信も、今回姉が握りしめていたペンダントが見つかったことで、揺らぎ始めた。

 姉には既に心に決めた相手がいたのかもしれない。

 次男が姉に婚約を申し込んだ時、既に姉の心は決まっていたのかもしれない。

 どう断ろうかと考えていたのかもしれない。

 既に姉の心は次男の元には無く、心も体もその男のものとなっていたのかもしれない。

 そう考えた途端、次男の胸に悲しみとも怒りとも取れない感情が宿る。

 それは嫉妬とは少し違う、母が亡くなった時に感じた孤独と絶望、そして無力感だった。

 次男の胸にその時の強い気持ちが蘇ってくる。

 毒を飲まされ死にゆく母を救えなかった時の無力感。

 両手で顔を覆い、執務机に突っ伏する。

「母さんも、オリガも、みんなおれの前からいなくなるのか?」

 暖炉の炎が音も無く燃えている。

 そんな次男の悲痛なつぶやきを聞いていたのは、部屋の外にいた中年の部下だけだった。

 報告をしようと扉をノックしようと思ってが、中年の部下は思い留まる。

 今は次男と独りにしておこうと考え直す。

 壁を背にして長く息を吐き出す。

「我々では駄目なのです、オリガ様。若の孤独を埋められるのは、あなたのような愛情を持って若のそばに寄り添える女性だけなのです。せめてあなたのような方が若の隣にいてくれれば」

 かすかにつぶやいた中年の部下の声は窓の外の雪の音に掻き消えた。

 部屋の中では次男のすすり泣く声がひっそりと響いていた。

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