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姉と弟  作者: 深江 碧
十四章 悪夢
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悪夢10

 けらけらと笑いながら姉の体を蹴っている。

「ねえ、痛いでしょう? 痛いわよねえ。でも、あたしが受けた心の痛みなんて、これほどじゃないのよ?」

 元メイドの狂気じみた行動に、次男は顔色を失う。

「バレンチナ、君は」

 次に続く言葉が出てこない。

 屋敷で雇っていたかつての使用人の女性を、信じられないものを見るような目で見つめている。

 そんな次男の視線の意味に気付かないのか、

「だからね、アレクセイ様。あたしはこの女を殺さないといけないの。この女がいる限りあたしたちは幸せになれない。アレクセイ様とあたしは幸せになることが出来ないの。だからあたしはあたしの運命を狂わせたこのクソ女を殺さないといけないの」

 次男はそんな光景を見て顔から血の気が引き、肩を震わせている。

 気が付けば若いメイドを始め、廊下に集まっていた他の使用人たちも静まり返っていた。

 戸惑いと動揺で皆黙り込んでいる。

「ねえ、アレクセイ様。あなたもそう思うでしょう? すべてはこの女のせいなのよ。全部この女が悪いのよ」

 元メイドは絨毯の上で体を丸め、腹をかばう姉を見ておかしそうに笑っている。

 体を丸める姉を蹴り続けている。

 その場に集まった者たちの中から、元メイドの意見に同意する者は一人もいない。

 恐怖と、姉に対する同情の入り混じったような目でことの成り行きを見守っている。

 次男は唇を引き結び、強い口調で言う。

「もう、やめてくれ、バレンチナ」

 先程よりも青白い顔で、次男元メイドを見つめている。

「バレンチナ、君の本当の望みはなんだ。どうしてオリガをそんなに目の敵にするんだ。オリガが君に一体何をしたと言うんだ。それともこれはすべておれの行動が招いた結果なのか? すべておれが悪いのか?」

 穏やかだが責めるような口調で誰にともなく尋ねる。

 元メイドは初めは次男の強い口調に驚いた様子だったが、うっすらと目に涙をにじませる。

「アレクセイ様こそ、どうしてその女の肩を持つの? その女さえいなければ、あたしもアレクセイ様もこんな不幸な目には遭わなかったのに。あたしはアレクセイ様と幸せになれたのに。全部その女のせいで、歯車が狂ってしまったのに!」

 元メイドは怒りに顔を歪め、金切り声で叫ぶ。

 持っていた大振りのナイフをぶんぶんと振り回し、その切っ先を次男に向ける。

「ねえ、アレクセイ様もそう思うでしょう? アレクセイ様ならあたしの気持ちをわかってくれるでしょう? あたしを愛してくれているアレクセイ様なら、あたしの気持ちを理解してくださるでしょう?」

 元メイドは次男を真っ直ぐに見つめる。その頬は怒りのために紅潮して、瞳は悲しみのために涙でうるんでいる。

 次男は顔を上げ、ゆっくりと頭を振る。疲労をにじませた口調ではっきりとつぶやく、

「バレンチナ、おれはそうは思わない。すべてがオリガのせいだとは、まったく思っていない。これはすべて君の行動が招いた結果だ。君の言っていることは間違っている。おれは君を愛してなんかいない。君はおれの気持ちを誤解している」

 きっぱりした口調に、元メイドの顔が奇妙に歪む。

「い、今、何とおっしゃったの、アレクセイ様?」

 元メイドは自分の耳を信じられないようだった。

 次男はゆっくりと穏やかな口調で言い直す。

「おれは君を愛していない、と言ったんだよ、バレンチナ。君の境遇に同情こそすれ、君を異性として意識したことはほとんどない。君のことは何とも思ってないんだよ、バレンチナ」

 落胆とも驚愕とも悲しみとも怒りとも取れる表情で元メイドはうめく。

「そ、そんな、アレクセイ様。ど、どうしてそんなひどい嘘をつくの?」

 元メイドは泣きそうな目で次男を見つめている。

「だってあなたはあんなにあたしに優しくしてくれたのに。あたしをあんなに大事にしてくれたのに。あれはすべて嘘だったと言うの?」

 まるでこの世の終わりが来たかのような絶望的な表情を浮かべている。

 次男は立ち上がり、取り乱す元メイドと対峙する。

 深緑色の瞳には元メイドに対する憐憫の色が浮かんでいる。

「君に勘違いをさせてしまったのは悪かったと思っている。でもおれは君のことを何とも思っていない。おれはが好きなのは」

 言いかけて、傍らにいる姉を振り返る。

 苦悶の表情を浮かべて、言いよどむ。

 次男は軽く頭を振り、険しい表情で元メイドを見つめている。

「おれは、オリガをおれの婚約者に正式に迎えたいと思っている。その意味がわからない君ではないんだろう? それはおれの紛れもない、嘘偽りのない気持ちだ。だからおれは君を愛してはいないんだ」

 一息に言う。

 元メイドは雷に打たれたかのように肩を震わせる。

「あ、アレクセイ様。う、嘘。そんなの嘘よ」

 元メイドの目から涙がこぼれたが、次男は顔を背ける。

 静まり返った部屋の中では、窓を揺らす風の音や外の吹雪の音、暖炉の薪の燃える音が響くだけだ。

 部下や使用人たちは一言も発しない。物音を立てるのを遠慮しているようだった。

「そ、そんな、だって、あたしは」

 元メイドは放心したように立ち尽くしている。

 その目は虚ろで部屋の中を見回している。

 見かねた若いメイドが元メイドに同情するようにささやく。

「バレンチナ、私はあなたの気持ちが少しはわかるのよ。だって私もアレクセイ様のことが好きだから。アレクセイ様に叶わぬ思いを抱えている者同士だから」

 若いメイドは優しい口調で話す。そこには一片の憐みが含まれている。

 そんな元メイドの憐憫の情など踏みにじるかのように、元メイドの表情が一変する。

「何よ、あんたなんて。あたしはあんたよりもっとアレクセイ様のこと愛しているのよ。あんたよりもずっと辛い目に遭っているんだから。あんたに同情されるいわれは無いわ。あんたなんてあたしよりずっと恵まれてるでしょう?」

 元メイドは廊下に立っている若いメイドに向けて吐き捨てる。

「そ、そんな、バレンチナ。あなたがそう思ってたなんて」

 若いメイドは泣きそうな顔で口元を押さえる。

 元メイドは立っている次男の方を振り返る。

「アレクセイ様もアレクセイ様よ。どうしてその女がいいって言うの。そんな女なんてただ美人なだけで、性格が悪くて、目が見えなくて、一人じゃ何も出来ない何の役にも立たない女じゃない。どうしてそんな女がいいのよ。アレクセイ様は女を見る目が無いんじゃないの? 信じられないわ!」

 次男はただ同情するような目で元メイドを見つめている。

「おれが君の気持ちをわからないように、君もきっとおれの気持ちがわからないだろうね。彼女だって好きで目が見えなくなった訳では無い。不幸な事故に遭って目が見えなくなったんだ」

「あたしだってそうよ。好きでこんな不幸な目に遭ってはいないわよ! あたしだってこんなに不幸なんだから!」

 元メイドが噛みつかんばかりの口調で訴える。

 次男は元メイドを憐れむような目で見つめている。

 傍らの姉に視線を落とし、淡々と話す。

「バレンチナ、まさか君がそんな行動をするとは思ってはいなかった。これは君をこの屋敷に連れて来たおれの責任でもある。君にはオリガをこんな目に遭わせた責任を取ってもらわないといけない。君にはしかるべき処罰を受けてもらう。それはわかってるね?」

 その一言で、拳銃を持った部下たちが部屋に入ってくる。

 ナイフを持つ元メイドに向けて拳銃を構え、次男の指示を待つ。

 部下たちに取り囲まれた元メイドはナイフを振り回して慌てる。

「何よ、あんた達。どうしてあたしがこんな目に遭わないといけないのよ。元はと言えばその女のせいじゃない! アレクセイ様もアレクセイ様よ。どうしてあたしの気持ちがわかってくれないの?」

 元メイドは自分のしでかしたことを認めようとしない。

「どうしてあたしがこんな目に遭うのよ。世の中間違ってるわよ! みんなこの女が悪いのよ。この女のせいであたしは!!」

 尚も叫び続ける。

 次男は元メイドを前に、まだその処遇に迷っているようだった。

 考え込んでいる次男に、元メイドは涙ながらに訴える。

「ねえ、アレクセイ様はわかって下さっているでしょう? あたしはここを追い出されたらどこにも行けないの。行く場所が無いの。だからアレクセイ様のことを思って、一生懸命お仕えしてきたのに。どうしてこんなひどい仕打ちをするの? あたしはアレクセイ様の役に立ちたかっただけなのに!」

「バレンチナ」

 次男は気まずそうに視線を彷徨せている。

 女性に対して強く出られない性格の次男は、社交界でもいざこざを起こしている。

 それは次男も自覚していることなのだが、どうしても女性に対して甘いところがある。

 女性に対して強く出れば射ところがある。

 ここまで来てもまだ元メイドに対して態度を決めかねている。

 姉は二人のやり取りをぼんやりと聞いている。

 元メイドに蹴られたお腹が鈍く痛む。

 お腹を手で押さえながら小さくうめく。

「うぅ」

 ぼんやりとした頭で自分の置かれた状況を考える。

 とっさに体を丸めてお腹をかばったために大した怪我にはならなかったが、腕や体のあちこちが痛いのに変わりはない。

 何とか起き上がろうと体に力を込めるが、上手く行かない。

 かろうじてわずかに頭を動かす。

 すぐそばにいる次男がそれに気付く。

 気遣うように声を掛ける。

「オリガ、大丈夫かい? もう少しの辛抱だから、すぐに医者を連れて来るからね」

 次男はしゃがみこみ、姉の肩に触れる。

 血だらけの腕の怪我の様子を確認し、悲痛な表情を浮かべている。

 それが元メイドの気に障ったらしい。

 元メイドはそんな姉と次男の様子を見て、泣き顔を一変させる。

「どうしてその女の心配をするの、アレクセイ様! あたしにはアレクセイ様しかいないのに。そんな女、ひどい目に遭って当然なのに。いっそ死んで欲しいくらいなのに! あたしの目の前からいなくなってよ。どうしてあたしの邪魔ばかりするのよ!」

 怒りに顔を赤くした元メイドはめちゃくちゃにナイフを振り回す。

 次男の目の前で明かりに照らされたナイフが鈍く光る。

「今度こそ大人しく死になさいよ!」

「やめろ、バレンチナ!」

 元メイドと次男の声が重なる。

 絨毯の上に倒れている姉の体に向けて、その鋭い切っ先を振り下ろす。

 姉に迫るナイフを見て、次男は顔色を失う。

 ナイフを振り下ろす元メイドの姿が目の前に迫る。

 姉は頭の片隅でその様子を聞いていた。

 絨毯の上に横たわったまま体を動かすことが出来ない。

 今度こそ死ぬかもしれないという予感が頭をよぎる。

「バレンチナ、やめて!」

 廊下に立っていた若いメイドから悲鳴にも似た声が上がる。

「若!」

 部下たちが動き、次男と元メイドの元へ駆け寄る。

 使用人たちが息を飲む。

 次男がナイフを振り下ろす元メイドを微動だにせず見つめていた。

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