悪夢9
立ち尽くしていた姉は次男の声を聞いた途端、不思議と体が動いた。
慌てて扉の前から退く。寸でのところでナイフの切っ先が目の前を横切る気配がする。
姉の長い黒髪の先がかすめ、数本の髪が切れて舞い落ちる。
その瞬間、扉が勢いよく開け放たれる。
「オリガ!」
扉の向こうには次男と集まった使用人たちが立っている。
部屋の中を見た次男は、ぎくりとして立ち止まる。
足元に座り込む姉よりも先に、大振りのナイフを持って立つ元メイドの異様な姿に気付く。
「バレンチナ、なのか?」
次男は元メイドに問い掛ける。
驚いたのは元メイドも同じだった。
ナイフを持ったまま立ち尽くしている。
元メイドの目が驚きに大きく見開かれていたが、やがて喜びの表情を浮かべて頬を紅潮させる。
「アレクセイ様、あたしに会いに来てくださったのね」
甘えた声で叫ぶ。
次男も驚いた声で叫ぶ。
「バレンチナ、屋敷を辞めたはずの君が、どうして君がオリガの部屋にいるんだ? それにそのナイフはいったい」
元メイドの手に握られている大振りのナイフに気付く。
そうしている間に、開け放たれた扉の向こうから複数の足音が聞こえてくる。
「オリガ様!」
若いメイドが息せき切って走ってくる。
扉のそばまで走って来た若いメイドや使用人たちが、部屋の明かりの下、大振りのナイフを持った元メイドが立っているのを見てぎくりとして立ち止まる。
「バレンチナ?」
「どうしてこんなところに」
口々に驚きの声を上げる。
次男は驚きに深緑色の目を見開き動けないでいる。
ナイフを持って立っている元メイドを見て言葉を失っている。
しばし考え込む素振りをする。
部屋の荒らされた様子を見て、合点がいったようだ。
「そうか。すべては君の仕業か。納屋の火事も、屋敷への侵入も、君が関係していたことか。でも、どうして君がこんなことを」
次男は溜息を吐き、軽く頭を振る。
扉のそばにうずくまっている姉には、まだ気付いていないようだ。
真っ直ぐに元メイドを見据える。
元メイドはその次男のいつになく真剣な表情に、ますます頬を赤らめる。
「あたしは、アレクセイ様にどうしても会いたくて、ここまで会いに来てしまいました」
元メイドの喜び弾んだ声に、次男はひどく疲れた声で返す。
「バレンチナ、真面目に答えてくれ。どうして君が不法侵入まがいのことをしたんだ? 返事によっては、おれは君を警察に引き渡し、処罰してもらわなければならない」
次男の言葉を聞いて、元メイドは首を横に振る。
「いやだ、アレクセイ様。あたしはただ、アレクセイ様に会いたい一心で」
元メイドの弁明の間に、次男はふと姉の方に目を向ける。
そこで初めて腕に怪我を負って血を流す姉の存在に気が付く。
「オリガ、どうしたんだ? その腕の傷は」
次男の狼狽した声が聞こえる。
「オリガ、その腕の怪我はどうしたんだい? 血だらけじゃないか」
「あ、あの、これは」
姉は驚いて言葉に詰まる。
「だ、誰か、早く医者を」
次男は廊下にいる使用人たちを振り返る。
「は、はい」
指示を受けた使用人の一人が走り出す前に、姉の体が強い力で後ろに引っ張られる。
「オリガ!」
手を伸ばした次男が姉の体に触れる前に、髪をつかまれ背後に引き寄せられたのだ。
人々の視線の先には、姉の黒髪を乱暴に掴んでいる元メイドの姿が見える。
元メイドは姉の姿を一瞥して、憎々しげに吐き捨てる。
「アレクセイ様はどうしてこんな女の心配をするの。どうしてあたしとの再会を喜んでくれないの?」
元メイドが姉の黒髪をつかみ、強引に自分の方に引き寄せる。
「こんな目の見えない女のどこがいいのよ。あたしの方がよっぽどいい女じゃない」
姉の顔にナイフの刃先を向け、苦しげに歪むその顔を覗き込んでいる。
その様子を見て、次男の顔色が変わる。
「若、お下がりください!」
駆けつけてきた護衛たちが、部屋にいる元メイドに一斉に拳銃を向ける。
それを見た元メイドは姉の黒髪をつかみ、半狂乱で叫ぶ。
「動かないで。動けばこの女を殺すわよ!」
威嚇するように辺りを見回し、姉の白い首元にナイフの切っ先を押し当てる。
その目は真っ直ぐに次男を見つめている。
「うぅ」
姉は元メイドに黒髪をつかまれて、満足に頭を動かすことが出来ない。
首筋に氷のような冷たい感覚が走る。
ナイフの尖端、姉の白い首筋から一筋の赤い血が流れ落ちる。
次男は意を決したように低い声でつぶやく。
「皆下がれ。バレンチナ、オリガを放すんだ」
次男の顔色は青白かったが、声を荒げ取り乱すことはしなかった。
廊下に立っていた若いメイドが姉と元メイドを見て泣きそうになっている。
「バレンチナ、やめて。オリガ様を放して!」
若いメイドが悲痛な声で懇願する。
「オリガ様が」
「どうしてここにバレンチナが?」
廊下にいる使用人たちからもざわめきが広がる。
「おい、早く医者を呼べ。オリガ様が」
「は、はい」
部下の一人がそう指示し、別の部下が大きくうなずく。
使用人の代わりに指示された部下の一人が廊下を走って行く足音が聞こえる。
動揺する使用人たちを背に、次男が部屋の中に足を踏み入れる。
「若、危険です!」
部下が止めたが、次男は歩みを止めなかった。
元メイドの方へと一歩一歩ゆっくりと歩いていく。
次男との距離はほんの数歩だったが、その距離がとても長く見える。
部下たちをはじめ、使用人たちは固唾を飲んで見守っている。
「バレンチナ。オリガを離すんだ」
次男は穏やかな口調で語りかける。
平静を装っているようだったが、その声は微かに震えている。
元メイドに一歩一歩近付いていく。
「こんなことをして君に何の得がある? こんなことは今すぐやめるんだ」
次男は深緑色の目には同情の色が滲んでいる。
「バレンチナ、もう一度言う。オリガを離すんだ」
諭すように同じ言葉を繰り返す。
次男が近付いて来るのを見て、元メイドは姉の首元に押し当てていたナイフを離す。
「来ないで、アレクセイ様!」
鈍く光る切っ先を次男へと向ける。
元メイドは次男を見て目をうるませる。
「あたしの目的はこの女の命だけ。この女がいなくなればあたしは幸せになれるの。あたしは愛するアレクセイ様を傷つけたくない。だから来ないで!」
次男は足を止める。ナイフの切っ先が次男の鼻先に迫っている。
「それはつまり、どういうことだい?」
次男は出来るだけ相手を刺激しないように慎重に言葉を選んでいるようだった。
しかしその言葉には素直に元メイドの言っていることがわからない様子が含まれている。
髪をつかまれている姉も、元メイドがどうして自分をここまで憎んでいるのかわからない。
そもそも姉には元メイドに恨まれるほどの関わりは無いはずなのに。
元メイドは次男を前に感情を露わにして大声で話す。
「あたしはアレクセイ様を愛していた。アレクセイ様もあたしを愛していた。あたし達はお互い両想いだった。でもこの女が来て変わってしまった。この女が来てから不幸になってしまった。この女がいなければ、あたしとアレクセイ様は幸せになれたのに。この女のせいですべてが狂ってしまったの」
元メイドはそこで言葉を切る。姉の体を離し、床に引き倒す。
絨毯の上に姉の長い黒髪が散らばる。
絨毯が熱いために倒れた時の衝撃はそれほどでもなかった。
姉はすぐに這って逃げようとしたが、元メイドはそれを許してくれなかった。
お腹を蹴られ、姉は悲鳴を上げることも出来ずに体を丸くしてうずくまる。
床の上で動けないまま倒れている。
「ああら、ごめんなさい」
元メイドはそんな姉を見て、さもおかしそうに笑う。




